2010-07-01から1ヶ月間の記事一覧
建安二年、遣謁者僕射裴茂率關西諸將誅(李)傕、夷三族。(郭)艴為其將五習所襲、死于郿。 (『三国志』董卓伝) 三年夏四月、遣謁者裴茂率中郎將段煨討李傕、夷三族。 (『後漢書』孝献帝紀、建安三年) 昨日の記事で思い出した。裴潜の父の裴茂は建安二…
太常廣漢鐔承・光祿勳河東裴儁等、年資皆在光後、而登據上列、處(孟)光之右、蓋以此也。【注】 傅暢裴氏家記曰、儁字奉先、魏尚書令潛弟也、儁姉夫為蜀中長史、儁送之、時年十餘歲、遂遭漢末大亂、不復得還。既長知名、為蜀所推重也。子越、字令緒、為蜀督…
五月辛未、帝幸辟雍、會命群臣賦詩。侍中和逌・尚書陳騫等作詩稽留、有司奏免官。詔曰「吾以暗昧、愛好文雅、廣延詩賦、以知得失、而乃爾紛紜、良用反仄。其原逌等。主者宜勅自今以後、群臣皆當玩習古義、脩明經典、稱朕意焉」 (『三国志』高貴郷公紀、甘露…
孫登字公和、汲郡共人也。 無家屬、於郡北山為土窟居之、夏則編草為裳、冬則被髮自覆。好讀易、撫一絃琴、見者皆親樂之。性無恚怒、人或投諸水中、欲觀其怒、登既出、便大笑。時時游人間、所經家或設衣食者、一無所辭、去皆捨棄。嘗住宜陽山、有作炭人見之、…
『伏戎于莽、升其高陵、三歲不興』 『莽』、皇帝之名。『升』謂劉伯升。『高陵』謂高陵侯子翟義也。 言劉升・翟義為伏戎之兵於新皇帝世、猶殄滅不興也。 (『漢書』王莽伝下) 王莽、光武帝の頃は「緯書」「讖書」が流行った。 つまり古の謎めいた文書が何ら…
銅馬・青犢・尤來餘賊共立孫登為天子於上郡。【注】 春秋保乾圖曰「賊臣起、名孫登、巧用法、多技方」蓋立以應之。上郡故城在今芤州上縣東南。 (『後漢書』光武帝紀上、建武二年) 「孫登」が新たな天子となるという予言は、後漢末に起こったものではないよ…
初平元年、(公孫)度知中國擾攘、語所親吏柳毅・陽儀等曰「漢祚將絶、當與諸卿圖王耳」【注】 魏書曰、度語毅・儀「讖書云孫登當為天子、太守姓公孫、字升濟、升即登也」 (『三国志』公孫度伝) 遼東の公孫度は初平元年の時点で「漢はもう終わり」と認識し…
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100723/1279814616の続き。 鍾繇は、おそらく曹操が献帝を手中にした建安元年頃、司隸校尉に任命されて長安へ行き、そこで馬騰と韓遂を曹操の側に付けている(『三国志』鍾繇伝)。だが今まで述べてきたように、袁紹親子との対…
典略曰、鄢山・黃巾諸帥、本非冠蓋、自相號字、謂騎白馬者為張白騎、謂輕捷者為張飛燕、謂聲大者為張雷公、其饒鬚者則自稱于羝根、其眼大者自稱李大目。 (『三国志』張燕伝注引『典略』) 會白騎攻東垣、高幹入濩澤、上黨諸縣殺長吏、弘農執郡守、(衛)固…
後董昭建議「宜脩古建封五等」 太祖曰「建設五等者、聖人也、又非人臣所制、吾何以堪之?」 昭曰「自古以來、人臣匡世、未有今日之功。有今日之功、未有久處人臣之勢者也。今明公恥有慚紱而未盡善、樂保名節而無大責、紱美過於伊・周、此至紱之所極也。然太…
魏略曰、恕在弘農、𥶡和有惠愛。及遷、以孟康代恕為弘農。 康字公休、安平人。黄初中、以於郭后有外屬、并受九親賜拜、遂轉為散騎侍郎。 (『三国志』杜恕伝注引『魏略』) 三国時代の孟康は魏文帝郭皇后の親族(外族)。その関係は以下のとおり。 后姉子孟…
id:mujin氏が既に指摘していることが中心ですが、あえてネタにさせてもらう。 時關中諸將馬騰・韓遂等、各擁彊兵相與争。太祖方有事山東、以關右為憂。乃表繇以侍中守司隸校尉、持節督關中諸軍、委之以後事、特使不拘科制。 繇至長安、移書騰・遂等、為陳禍…
初、袁紹以甥高幹領并州牧、公之拔鄴、幹降、遂以為刺史。 幹聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口。遣樂進・李典撃之、幹還守壺關城。十一年春正月、公征幹。幹聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于、單于不受。公圍壺關三月、拔之。幹遂…
袁尚拒太祖於黎陽、遣所置河東太守郭援・并州刺史高幹及匈奴單于取平陽、發使西與關中諸將合從。 (『三国志』張既伝) 袁尚が曹操と黎陽で戦っていた頃ということは建安七年秋から八年春にかけてのことだろうか。 この時期、袁尚は河東方面へも手を伸ばした…
魏略曰、詔徵河東太守王邑。邑以天下未定、心不願徵、而吏民亦戀邑、郡掾衛固及中郎將范先等各詣繇求乞邑。而詔已拜杜畿為太守、畿已入界。繇不聽先等、促邑交符。邑佩印綬、徑從河北詣許自歸。繇時治在洛陽、自以威禁失督司之法、乃上書自劾曰・・・(略) …
六月、利成郡兵蔡方等以郡反、殺太守徐質。遣屯騎校尉任福・步兵校尉段昭與青州刺史討平之。其見脅略及亡命者、皆赦其罪。 (『三国志』文帝紀、黄初六年) 唐咨本利城人。黃初中、利城郡反、殺太守徐箕、推咨為主。文帝遣諸軍討破之、咨走入海、遂亡至呉、…
いきなり第2章と第3章でサジとマジが出てきてびっくり。 なんだよこれロジャーとかも出てくるのか?もしかして。
(建安)十八年春正月庚寅、復禹貢九州。 (『後漢書』孝献帝紀) (建安十八年五月)徙趙王珪為博陵王。 (『後漢書』孝献帝紀) 先日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100711/1278780381)で「いつの間にやら、冀州は拡大している」などと書いたが、こ…
魏略曰、時太子在鄴、鄢陵侯未到、士民頗苦勞役、又有疾癘、於是軍中騷動。群寮恐天下有變、欲不發喪。逵建議為不可祕、乃發哀、令内外皆入臨、臨訖、各安叙不得動。而青州軍擅撃鼓相引去、衆人以為宜禁止之、不從者討之。逵以為「方大喪在殯、嗣王未立、宜…
冬十月、分魏郡為東西部、置都尉。 (『三国志』武帝紀、建安十八年) 曹操が魏公になった直後、魏郡は東西に領域を分けて都尉を置いた。 郡内の軍事、防衛を司る官である。 魏郡が膨れ上がった直後の話であるので、分割する事自体は不思議ではない。 尉一人…
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/07/20100709t15038.htm「ゼリーの街」・・・そうか、体調が悪いときと特にいいことがあったときにゼリーを食べるのは自分だけの習性じゃなくてこの街の特徴だったのか・・・。合点がいった。 さあみなさん、伊達政宗も食…
太祖崩洛陽、(賈)逵典喪事。時鄢陵侯彰行越騎將軍、從長安來赴、問逵先王璽綬所在。逵正色曰「太子在鄴、國有儲副。先王璽綬、非君侯所宜問也」遂奉梓宮還鄴。 (『三国志』賈逵伝) 太祖東還、以彰行越騎將軍、留長安。太祖至洛陽、得疾、驛召彰、未至、…
割河內之蕩陰・朝歌・林慮。東郡之衛國・頓丘・東武陽・發干。鉅鹿之廮陶・曲周・南和、廣平之任城、趙之襄國・邯鄲・易陽以益魏郡。 (『三国志』武帝紀、建安十七年) 今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡、封君…
そうか、7月15日か・・・。あと5日じゃないか。 楽しみなんだけど、途中で竜と蛮族しか出てこない面が続くのはどうなるんだろうか。
尋拝南陽太守、前後二千石逼懼帝郷貴戚、多不稱職。(王)暢深疾之、下車奮窅威猛、其豪黨有釁穢者、莫不糾發。(中略) 郡中豪族多以奢靡相尚、暢常布衣皮褥、車馬羸敗、以矯其敝。同郡劉表時年十七、從暢受學。進諫曰「夫奢不僭上、儉不逼下、循道行禮、貴…
索隱、即武帝也。漢武故事云「帝以乙酉年七月七月日生於猗蘭殿」 (『史記』外戚世家注、史記索隠) 某氏がツイッターにてつぶやいていた件。 『漢武故事』によれば漢の武帝は当時の暦で七月七日に誕生したそうだ。
体調が悪いのでみかんゼリー食べた。 今夜は変なこと考えずに早く寝ゆ。
冬、訒艾破衛將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策、降於艾、奉書曰「限分江・漢、遇値深遠、階緣蜀土、斗絶一隅、干運犯冒、漸苒歴載、遂與京畿攸隔萬里。每惟黃初中、文皇帝命虎牙將軍鮮于輔、宣温密之詔、申三好之恩、開示門戸、大義炳然、而否紱暗弱、竊…
王朝の正統論は運転免許のようなものだと思えばいい。
光武帝劉秀は元々は更始帝劉玄の将であった。光武帝は兄劉伯升の死などを経て更始帝との関係が険悪になり、更始2年(西暦24年)には光武帝は河北で独立状態になっていた。そしてその翌年6月、光武帝は臣下の言を聞き入れて皇帝の位に就き建武と改元した…