2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧

陳国か陳郡か

昨日の話だが、陳王は劉寵の後は曹丕の子の曹邕、その後曹植がなっているが、その間はいなさそうだ。 そして一時期陳王はいなかったようだが、晋でもまた陳王が誕生。 やはり、後漢末の劉寵死後は魏になるまでの二十年以上陳王はおらず、「陳国」ではなく「…

ひとこと

あれ?後漢末って陳王はあの劉寵が死んだ後に新たに立ってたっけ? 曹操が武平侯だった頃って「陳国」だったんだろうか、それとも「陳郡」だったんだろうか?

漢の前例

九月、太中大夫孔融上書曰・・・(中略)・・・聖漢因循、未之匡改、猶依古法、潁川・南陽・陳留・上黨・三河近郡不封諸侯。・・・(後略)・・・ (『後漢紀』孝献帝紀巻第二十九、建安九年) 孔融の上書によれば、潁川・南陽・陳留・上党・三河(河内・河…

戸数の変遷

(建安元年)九月、車駕出轘轅而東、以太祖為大將軍、封武平侯。 (『三国志』巻一、武帝紀) (建安十年正月)丁丑、增封(曹)操萬三千戸、平幽・冀之功也。 (『後漢紀』孝献帝紀巻第二十九) (建安十一年正月)己丑、增封(曹)操、并前三萬戸、食柘城…

大敗の責任

魏武故事載公(建安十五年)十二月己亥令曰・・・(中略)・・・今上還陽夏・柘・苦三縣戸二萬、但食武平萬戸、且以分損謗議、少減孤之責也。 (『三国志』巻一、武帝紀注引『魏武故事』) 曹操は建安11年に(おそらく高幹撃破の功績との名目で)三万戸に…

魏の外戚

中書令李豐與玄及后父光祿大夫張緝陰謀為亂。緝與豐同郡、傾巧人也、以東莞太守召、為后家、亦不得意、故皆同謀。 初、豐自以身處機密、息韜又以列侯給事中、尚齊長公主、有内外之重、心不自安。密謂韜曰「(夏侯)玄既為海内重人、加以當大任、年時方壯而永…

二千石の人相

魏略曰、(張)緝字敬仲、太和中為温令、名有治能。會諸葛亮出、緝上便宜、詔以問中書令孫資、資以為有籌略、遂召拜騎都尉、遣參征蜀軍。軍罷、入為尚書郎、以稱職為明帝所識。帝以為緝之材能多所堪任、試呼相者相之。相者云「不過二千石。」帝曰「何材如是…

貧しい荊州刺史

晉陽秋曰、(胡)威字伯虎。少有志尚、厲操清白。(胡)質之為荊州也、威自京都省之。家貧、無車馬童僕、威自驅驢單行、拝見父。停廐中十餘日、告歸。臨辭、質賜絹一疋、為道路糧。威跪曰「大人清白、不審於何得此絹?」質曰「是吾俸祿之餘、故以為汝糧耳。…

眠い

眠いので、休む。

老いてますます盛ん

以門尉前元年初起碭、至霸上、為武定君、入漢、還定三秦、以都尉撃項羽、侯。 六年、侯昭元年。九年、侯昭有罪、國除。 孝景三年、昭以故芒侯將兵從太尉亞夫撃呉楚有功、復侯。 後元年三月、侯申元年。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、芒) 以門尉前元…

陳平の封建

高帝南過曲逆 、上其城、望見其屋室甚大、曰「壯哉縣!吾行天下、獨見洛陽與是耳。」顧問御史曰「 曲逆戸口幾何?」對曰「始秦時三萬餘戸、閒者兵數起、多亡匿、今見五千戸。」於是乃詔御史、更以陳平為曲逆侯、盡食之、除前所食戸牖。 (『史記』巻五十六、…

劉備に属した県侯

二十五年、魏文帝稱尊號、改年曰黄初。 或傳聞漢帝見害、先主乃發喪制服、追諡曰孝愍皇帝。 是後在所並言衆瑞、日月相屬、故議郎陽泉侯劉豹・青衣侯向舉・偏將軍張裔・黄權・大司馬屬殷純・益州別駕從事趙莋・治中從事楊洪・從事祭酒何宗・議曹從事杜瓊・勸…

陳王・受け継がれる想い

かの後漢末の陳王劉寵は、黄巾の乱の時に「彊弩數千張」を所持していたという。 しかし陳国は数代前の思王鈞の時にやらかして領土を削られ、劉寵自身も皇帝の呪詛容疑で捕まったりしている。 弩数千を揃える費用はどこから出てきたのだろうか? それだけの軍…

今夜は

お疲れなので、また今度。また逢う日まで。

袁渙の生存戦略

袁渙字曜卿、陳郡扶樂人也。父滂、為漢司徒。當時諸公子多越法度、而渙清靜、舉動必以禮。郡命為功曹、郡中姦吏皆自引去。 後辟公府、舉高第、遷侍御史。除譙令,不就。劉備之為豫州、舉渙茂才。 後避地江・淮間、為袁術所命。術毎有所咨訪、渙常正議、術不…

陳群、逃げ出した後

劉備臨豫州、辟(陳)羣為別駕。 時陶謙病死、徐州迎備、備欲往、羣説備曰「袁術尚彊、今東、必與之爭。呂布若襲將軍之後、將軍雖得徐州、事必無成。」備遂東、與袁術戰。布果襲下邳、遣兵助術、大破備軍、備恨不用羣言。 舉茂才、除柘令、不行、隨(陳)紀…

比較対象

時有傳劉備死者、羣臣皆賀。(袁)渙以嘗為備舉吏、獨不賀。 (『三国志』巻十一、袁渙伝) 及先主薨問至、魏羣臣咸賀而(黄)權獨否。 (『三国志』巻四十三、黄権伝) 曹操の魏国の郎中令(行御史大夫事)袁渙は、かつて自分が仕えた劉備が死んだという風…

本日は

一休み。また今度。

世界でいちばん熱い夏

魏氏春秋曰、明帝將送葬、曹真・陳羣・王朗等以暑熱固諫、乃止。 (『三国志』巻二、文帝紀注引『魏氏春秋』) 太和初、蜀相諸葛亮圍祁山、明帝欲西征、(鍾)毓上疏曰「夫策貴廟勝、功尚帷幄、不下殿堂之上、而決勝千里之外。車駕宜鎮守中土、以為四方威勢…

烈祖様の足取り

(太和六年)九月、行幸摩陂、治許昌宮、起景福・承光殿。 冬十月、殄夷將軍田豫帥眾討呉將周賀於成山、殺賀。 十一月丙寅、太白晝見。有星孛于翼、近太微上將星。庚寅、陳思王植薨。 十二月、行還許昌宮。 青龍元年春正月甲申、青龍見郟之摩陂井中。 二月丁…

謎の行幸

先日の記事(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/07/09/000100)で引用した陳群の諫言を見返してみると、「聞車駕欲幸摩陂、實到許昌、二宮上下、皆悉倶東、舉朝大小、莫不驚怪。或言欲以避衰、或言欲於便處移殿舍、或不知何故。」と言っていて、当時の…

烈祖様の住処

青龍元年春正月甲申、青龍見郟之摩陂井中。二月丁酉、幸摩陂觀龍、於是改年。改摩陂為龍陂、賜男子爵人二級、鰥寡孤獨無出今年租賦。 (『三国志』巻三、明帝紀) 魏の明帝曹叡こと烈祖様、昨日の記事(太和6年)に許昌へ行った後、行幸した摩陂でブルード…

平原懿公主の死亡時期

後皇女淑薨、追封諡平原懿公主。 (陳)羣上疏曰「長短有命、存亡有分。故聖人制禮、或抑或致、以求厥中。防墓有不脩之儉、嬴・博有不歸之魂。夫大人動合天地、垂之無窮、又大徳不踰閑、動為師表故也。八歲下殤、禮所不備、況未期月、而以成人禮送之、加為制…

万一に備えて欠席

帝愛女淑、未期而夭、帝痛之甚、追封平原公主、立廟洛陽、葬於南陵。將自臨送、(楊)阜上疏曰「文皇帝・武宣皇后崩、陛下皆不送葬、所以重社稷、備不虞也。何至孩抱之赤子而可送葬也哉?」帝不從。 (『三国志』巻二十五、楊阜伝) 魏の明帝こと烈祖様は、…

魏の音楽

弟子河南邵登・張泰・桑馥、各至太樂丞、下邳陳頏司律中郎將。自左延年等雖妙於音、咸善鄭聲、其好古存正莫及(杜)夔。 (『三国志』巻二十九、方技伝、杜夔) 曹操から曹丕にかけての頃の音楽家杜夔やその弟子たち。 彼らは「鄭の音楽」を得意としていた。…

曹丕の邪教禁止令

十二月、詔曰「先王制禮、所以昭孝事祖、大則郊社、其次宗廟、三辰五行、名山大川、非此族也、不在祀典。叔世衰亂、崇信巫史、至乃宮殿之内、戶牖之閒、無不沃酹、甚矣其惑也。自今、其敢設非祀之祭、巫祝之言、皆以執左道論、著于令典。」 (『三国志』巻二…

恋愛頭脳戦

(黄初三年)九月甲午、詔曰「夫婦人與政、亂之本也。自今以後、羣臣不得奏事太后、后族之家不得當輔政之任、又不得横受茅土之爵。以此詔傳後世、若有背違、天下共誅之。」 庚子、立皇后郭氏。 賜天下男子爵人二級、鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀。 (『三国志…

郭皇后の経歴

魏書曰、父(郭)永、官至南郡太守、諡敬侯。母姓董氏、即堂陽君、生三男二女。長男浮、高唐令。次女昱。次即后。后弟都。弟成。后以漢中平元年三月乙卯生、生而有異常。 (『三国志』巻五、文徳郭皇后伝注引『魏書』) 早失二親、喪亂流離、沒在銅鞮侯家。…

曹丕、自らの過ちを正そうとする

無幾、帝復問曰「我昨夜夢青氣自地屬天。」(周)宣對曰「天下當有貴女子寃死。」是時、帝已遣使賜甄后璽書、聞宣言而悔之、遣人追使者不及。 (『三国志』巻二十九、方技伝、周宣) 昨日の続きみたいなもの。 魏の文帝曹丕は夢占い師周宣から「天下に冤罪で…

周宣の心理学と文帝の心理

文帝問(周)宣曰「吾夢殿屋両瓦墮地、化為雙鴛鴦、此何謂也?」宣對曰「後宮當有暴死者。」帝曰「吾詐卿耳!」宣對曰「夫夢者意耳、苟以形言、便占吉凶。」言未畢、而黄門令奏宮人相殺。無幾、帝復問曰「我昨夜夢青氣自地屬天。」宣對曰「天下當有貴女子寃…