南陽郡

尋拝南陽太守、前後二千石逼懼帝郷貴戚、多不稱職。(王)暢深疾之、下車奮窅威猛、其豪黨有釁穢者、莫不糾發。(中略)
郡中豪族多以奢靡相尚、暢常布衣皮褥、車馬羸敗、以矯其敝。同郡劉表時年十七、從暢受學。進諫曰「夫奢不僭上、儉不逼下、循道行禮、貴處可否之輭。蘧伯玉恥獨為君子、府君不希孔聖之明訓、而慕夷齊之末操、無乃皎然自貴於世乎?」暢曰「昔公儀休在魯、拔園葵、去織婦。孫叔敖相楚、其子被裘刈薪。夫以約失之鮮矣。聞伯夷之風者、貪夫廉、懦夫有立志。雖以不紱、敢慕遺烈」
(『後漢書』王暢伝)

王暢は父も三公、自分も三公という家柄。
彼が南陽太守となった際、光武帝の地元であったことから貴族連中が幅を利かせていた南陽郡の改革を試みた。
厳罰主義で望むと共に、奢侈の風俗を改めようと自ら粗末な生活をしたのだという。
これを諌めたのが若き劉表。そう、あの劉表である。
王暢の故郷は山陽郡高平、劉表も山陽郡高平。つまり同郷なのだ。

劉表は王暢が南陽太守だった頃に彼に従って教えを受けていたということは、南陽郡に付いて行っていたのだろう。
劉表荊州刺史に任命されて初めて南陽に足を踏み入れた訳ではなかったのだ。(むしろ住んでいた経験があることがあの時期の荊州刺史に選ばれた決め手だったかもしれない)
荊州刺史となった劉表南陽郡に君臨することになるが、豪族制御の要諦はもしかすると若き日の南陽時代に師を見て学んだのかもしれない。


南陽郡が豪族の力が強く、統治しにくい土地柄だったというのは多分三国志の時代まで影響している。
荊州牧の劉表がしっかりと抑えたことはもっと特筆されてもいいことなのかもしれない。

あと知っている人も多いんだろうけど王暢の孫が王粲。
王粲が劉表を頼るのは同郷であったというだけではなく、この二世代も前の関係があったからなのだろう。