臧霸と利成郡の反乱

六月、利成郡兵蔡方等以郡反、殺太守徐質。遣屯騎校尉任福・步兵校尉段昭與青州刺史討平之。其見脅略及亡命者、皆赦其罪。
(『三国志』文帝紀、黄初六年)

唐咨本利城人。黃初中、利城郡反、殺太守徐箕、推咨為主。文帝遣諸軍討破之、咨走入海、遂亡至呉、官至左將軍、封侯・持節。
(『三国志諸葛誕伝)

これ同じ事件だろうね。
つまり利成郡=利城郡、太守徐質=太守徐箕。

(呂)布敗、獲(臧)霸等、公厚納待、遂割青・徐二州附於海以委焉、分瑯邪・東海・北海為城陽・利城・昌慮郡。
(『三国志武帝紀)

太祖以霸為琅邪相・敦利城・禮東莞・觀北海・康城陽太守、割青・徐二州、委之於霸。
(『三国志臧霸伝)

そして利城郡は徐・青州の境にあった郡で、かの泰山諸将のひとり、臧霸の仲間である呉敦が太守になっていた。
三国志武帝紀に書いているようにこの近辺は事実上臧霸たちの自治領のようになっていたらしく、通常の郡の常識が通用しない気風が醸成されていた可能性が高い。
つまり独立性が強く、中央に反抗的かもしれないということだ(青州は例の青州黄巾の故郷である)。
この近辺は臧霸たちのお陰で大人しくしているのである。

文帝即王位、遷鎮東將軍、進爵武安郷侯、都督青州諸軍事。及踐阼、進封開陽侯、徙封良成侯。與曹休討呉賊、破呂範於洞浦、徵為執金吾、位特進。每有軍事、帝常咨訪焉。
(『三国志臧霸伝)

臧霸曹休らと共に呉を攻めたのは呉の黄武元年すなわち魏の黄初三年。つまり黄初三年か翌年あたりには臧霸は中央に召し出された。ということは都督青州諸軍事も解任されていると思われ、利城郡近辺の統括の任から外れたということになる。


臧霸が抜けたことが利城郡の反乱の一因だとしたら面白い。

三国志臧霸伝注引『魏略』には、魏文帝が青州兵の離反について臧霸に対し含むところがあり、臧霸から兵を取り上げる(=都督青州諸軍事解任)に繋がったという説を載せている。
文帝の臧霸解任が利城郡に動揺を与えた可能性も捨てきれない。


あと、魏→呉→魏という華麗な経歴を持つ唐咨は、あるいは泰山諸将の系譜に連なる者なのかもしれない。