張白騎の跋扈

典略曰、鄢山・黃巾諸帥、本非冠蓋、自相號字、謂騎白馬者為張白騎、謂輕捷者為張飛燕、謂聲大者為張雷公、其饒鬚者則自稱于羝根、其眼大者自稱李大目。
(『三国志張燕伝注引『典略』)

會白騎攻東垣、高幹入濩澤、上黨諸縣殺長吏、弘農執郡守、(衛)固等密調兵未至。
(『三国志』杜畿伝)

後張白騎叛於弘農、(龐)徳復隨騰征之、破白騎於兩殽間。
(『三国志』龐徳伝)

(馬)騰攻(韓)遂、遂走、合衆還攻騰、殺騰妻子、連兵不解。建安之初、國家綱紀殆弛、乃使司隸校尉鍾繇涼州牧韋端和解之。徵騰還屯槐里、轉拜為前將軍、假節、封槐里侯。北備胡寇、東備白騎、待士進賢、矜救民命、三輔甚安愛之。
(『三国志馬超伝注引『典略』)

後漢末の黒山賊、黄巾賊などの賊。彼らは河東郡、三輔、并州あたりで猛威を振るった。
その勢力の一つに「張白騎」率いるグループがあった。
この張白騎はどうやら司隷校尉部の洛陽と長安のちょうど中間、弘農あたりを根城にしていたらしく、曹操袁紹の戦争時には袁紹に味方していた。

馬騰は三輔に駐屯してこの張白騎勢力から三輔を守っていたのだといい、いつの時期かはっきりしないが馬騰・龐徳に討たれたらしい。衛固の乱の時だろうか。


思うに、司隸校尉鍾繇が最初長安に駐屯しながら長安を捨てて洛陽まで戻ったのは、張白騎が袁紹に付いたことが影響していないだろうか。
弘農を根城にする張白騎が袁紹に味方することで、長安と洛陽や許との接続が困難になる。
これは司隸校尉鍾繇にとっては孤立の危機を意味するので、洛陽まで戻らざるを得なかったのではないか。

その後、衛覬の進言で司隷校尉が弘農まで再度進出するのは、おそらくは馬騰・龐徳が張白騎を討ってこの方面の不安が解消されたからなのではないだろうか。


この時、馬騰ら関中の諸将は司隸校尉鍾繇すなわち曹操政権に協力し、三輔から反曹操勢力を駆逐していった。
しかし、漢中に攻め込むとの触れ込みで兵を動かしたことが関中諸将の疑念を生み、馬超韓遂による関中の反乱を生んだのだろう。
協力すれば所領安堵だと思っていたら曹操は関中を我が物にしようと攻め込んでくる、と思ったのだ。
関中諸将にとっては曹操に裏切られた気分だったのだろう。