司隷校尉の治所

魏略曰、詔徵河東太守王邑。邑以天下未定、心不願徵、而吏民亦戀邑、郡掾衛固及中郎將范先等各詣繇求乞邑。而詔已拜杜畿為太守、畿已入界。繇不聽先等、促邑交符。邑佩印綬、徑從河北詣許自歸。繇時治在洛陽、自以威禁失督司之法、乃上書自劾曰・・・(略)
(『三国志鍾繇伝注引『魏略』)

高幹の反乱と同時期、曹操は河東太守を王邑から杜畿に変更することとした。
しかし建安改元以前から河東太守であった、言い換えるとずっとこの地に割拠していた王邑は当地の人々から惜しまれ、引き止める声が後を絶たなかったという。
三国志』杜畿伝によると河東の人衛固らは杜畿の赴任を阻んだという。

これは王邑を惜しみ新たな太守を嫌がったというだけではなく、上記『魏略』を信じるなら王邑が河東太守の印綬を素直に渡さず、あくまでも献帝の元まで持参して行ったことも一因だったのではないだろうか。
太守の印綬を前任者から受け取っていない新太守は、そもそも本当の太守なのかを疑われる存在だからである。
鍾繇印綬回収に失敗したことを理由に自分を弾劾したのも、これが重大な失敗だからだろう。


ところで今回これを取り上げたのは「繇時治在洛陽」という一文を見たから。
ここの「治」はおそらく治所、つまり司隷校尉の拠点のこと。
当時、司隷校尉は拠点を洛陽に置いていたようだ。
三国志鍾繇伝を見る限りでは司隷校尉就任後に長安まで行っているので、一旦洛陽に引っ込んだ形になる。
普段洛陽に居たとしたら、三輔への影響力は如何ほどだったのだろうか。