前漢

甘延寿の封邑

甘延壽字君況、北地郁郅人也。少以良家子善騎射為羽林、投石拔距絶於等倫、嘗超踰羽林亭樓、由是遷為郎。・・・(中略)・・・車騎將軍許嘉薦延壽為郎中諫大夫、使西域都護騎都尉、與副校尉陳湯共誅斬郅支單于、封義成侯。薨、諡曰壯侯。傳國至曾孫、王莽敗…

司馬法

軍禮司馬法百五十五篇。 (『漢書』巻三十、芸文志、六芸略、礼) 凡兵書五十三家、七百九十篇、圖四十三卷。省十家二百七十一篇重、入蹵𠮑一家二十五篇、出司馬法百五十五篇入禮也。 (『漢書』巻三十、芸文志、兵書略) へえ、『漢書』芸文志の分類では、…

ひとこと

漢で「都護」といえば西域都護であり、西域全体を「護」する存在なのだが、後漢末の曹操政権や蜀漢の「都護」「都護将軍」などは何を「護」する存在なのだろうか? わかるようなわからないようなモヤモヤした感じ。

時間よ、戻れ

以趙將漢王三年降、屬淮陰侯、定趙・齊・楚、以撃平城、侯、七百戸。 五 (高祖)八年十月癸丑、齊侯趙將夜元年。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、深澤齊侯趙将夜) 深澤齊侯趙將夕 以趙將漢王三年降、屬淮陰侯、定趙・齊・楚、以撃平城功侯、七百戸。…

ひとこと

漢書駁議二卷。晉安北將軍劉寶撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史) この『漢書駁議』なる書の編者とされる「晋の安北将軍劉宝」って何者なんだろうか? 安北将軍ならもう少し何かの記録がありそうなものなんだが・・・。 それとも何か字の誤りでもある…

小さな疑問

漢興、仍襲秦制、置中常侍官。然亦引用士人以參其選、皆銀璫左貂、給事殿省。 及高后稱制、乃以張卿為大謁者、出入臥内、受宣詔命。 文帝時、有趙談・北宮伯子、頗見親倖。 至於孝武、亦愛李延年。帝數宴後庭、或潛游離館、故請奏機事、多以宦人主之。 至元…

安国被り

漢の孝武帝の頃に孔子の子孫の孔安国という者がいたが、晋の孝武帝の頃にも孔安国という者がいたのか・・・。どっちも太守になっとる。 紛らわしくないか?命名考えろ晋の方の安国。 漢の方の安国は経書の注に名が残る超有名人だぞ・・・。

皇族の字

ちゃんと調べてないけど、漢代って諸侯王や皇帝の子として生まれた皇子はまず確実に「字」(あざな)が伝わらないな。たぶんな。 献帝は例外というか、「生まれてから後宮にいなかったっぽい」ことや「帝位を退いた」ことが関係ありそうだ。 漢の成帝も「太…

劇県は劇県か否か

(永初元年九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳・平縣五歳以上,乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀) 漢代、郡や県には統治の困難さに応じた等級があったらしく、大変な方を「劇県」「劇郡」と呼んでいたよう…

所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。 (『三国志』巻十一、王修伝) 三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。 王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒) だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県…

河内の苟氏2

苟晞字道將、河内山陽人也。 少為司隸部從事、校尉石鑒深器之。東海王越為侍中、引為通事令史、累遷陽平太守。齊王冏輔政、晞參冏軍事、拝尚書右丞、轉左丞、廉察諸曹、八坐以下皆側目憚之。及冏誅、晞亦坐免。長沙王乂為驃騎將軍、以晞為從事中郎。惠帝征成…

河内の苟氏

左曹水衡都尉河内苟參威神。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年) 前漢成帝の時の水衡都尉に河内の苟参なる者がいた。 (王)翁孺生禁、字稚君。少學法律長安、為廷尉史。 本始三年、生女政君、即元后也。 禁有大志、不修廉隅、好酒色、多取傍妻、…

貴徳と帰徳

雅楽 GAGAKU|文化デジタルライブラリー 前漢の「帰徳侯」についてはいくつか記事にしてきたが、今に残る雅楽「貴徳」が子の初代「帰徳侯」の事なのだとか。 なぜ帰徳侯が題材になったのかは分からない。匈奴からの降伏者、他にいくらでもいるのだが。 ずっ…

魏の宗聖侯

昨日の褒成侯関係の話だが、前漢の褒成侯は二千戸だった。 魏の宗聖侯は百戸だった。 時代の違い(他の侯とのバランス等)があるので一概には言えないかもしれないが、魏の宗聖侯は前後の時代の孔丘先生子孫の侯よりも領土が少なかったのかもしれない。

漢代の君2

元帝即位、徴(孔)霸、以師賜爵關内侯、食邑八百戸、號襃成君、給事中、加賜黄金二百斤、第一區、徙名數于長安。霸為人謙退、不好權勢、常稱爵位泰過、何徳以堪之!上欲致霸相位、自御史大夫貢禹卒、及薛廣徳免、輒欲拜霸。霸讓位、自陳至三、上深知其至誠…

尚書令鄧馮

尚書令南陽鄧馮君侯為右扶風。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年) へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。 つまり南陽の鄧氏。 「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安で詩経を学…

辛と幸

中郎將幸成子淵為水衡都尉。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始二年) (辛)慶忌居處恭儉、食飲被服尤節約、然性好輿馬、號為鮮明、唯是為奢。為國虎臣、遭世承平、匈奴・西域親附、敬其威信。年老卒官。 長子通為護羌校尉、中子遵函谷關都尉、少子茂…

メモ

漢の武帝の時、周王の子孫は「周子南君」という「君」にされた。 この「周子南君」は『漢書』外戚恩沢侯表では一人として「諡」が記録されていない。 その「周子南君」が「周承休侯」に格上げされてからは「諡」が贈られている事が確認されている。 「君」は…

漢代の君

公卿議更立皇后、皆心儀霍將軍女、亦未有言。上乃詔求微時故劍、大臣知指、白立許倢伃為皇后。既立、霍光以后父廣漢刑人不宜君國、歲餘乃封為昌成君。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后) 漢の宣帝の皇后となった許氏の父の許広漢は、許氏が皇后…

列侯となる者

孝惠六年、樊噲卒、謚為武侯。子伉代侯。而伉母呂須亦為臨光侯、高后時用事專權、大臣盡畏之。伉代侯九歳、高后崩。大臣誅諸呂・呂須婘屬、因誅伉。 (『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝、樊噲) かの樊噲の妻は呂后の妹呂須であった。 息子樊伉が樊噲の舞陽侯…

劉信の母

羹頡 以高祖兄子從軍、撃反韓王信、為郎中將。信母嘗有罪高祖微時、太上憐之、故封為羹頡侯。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、羹頡侯劉信) 高祖劉邦の長兄の子、羹頡侯劉信。 彼も一応は従軍していたのか。 他の親族(劉邦の兄劉嘉や弟劉交)はもっと…

陰安侯

羣臣從至、上議曰「丞相臣平・太尉臣勃・大將軍臣武・御史大夫臣蒼・宗正臣郢・朱虚侯臣章・東牟侯臣興居・典客臣揭再拜言大王足下。子弘等皆非孝惠皇帝子、不當奉宗廟。臣謹請陰安侯・頃王后・琅邪王・列侯・吏二千石議、大王高皇帝子、宜為嗣。願大王即天…

沛の王氏

孝宣王皇后。其先高祖時有功賜爵關内侯、自沛徙長陵、傳爵至后父奉光。奉光少時好鬬雞、宣帝在民間數與奉光會、相識。奉光有女年十餘歳、毎當適人、所當適輒死、故久不行。及宣帝即位、召入後宮、稍進為倢伃。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣王皇后)…

宣帝の外戚王氏

邛成 王奉光、家在房陵。以女立為宣帝皇后、故封千五百戸。言奉光初生時、夜見光其上、傳聞者以為當貴云。後果以女故為侯。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表、邛成侯王奉光) 王奉光は漢の宣帝の友人で、娘が皇后になった事から列侯にしてもらえた。 彼…

宣帝の外戚史氏

將陵 史子回。以宣帝大母家封為侯、二千六百戸、與平臺侯昆弟行也。子回妻宜君、故成王孫、嫉妒、絞殺侍婢四十餘人、盜斷婦人初産子臂膝以為媚道。為人所上書言、論弃市。子回以外家故、不失侯。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表、将陵侯史子回) 漢の宣…

オススメ漫画

matogrosso.jp しちみ楼先生の漫画『キンとケン』が終了した。 董賢や漢の哀帝や王莽の話。 少しでも興味があったら是非読んでみてほしい。 王莽が史実通りの姿になったりしてた。 お疲れさまでした。

謎の御史大夫

御史大夫陽陵侯岑邁。 (『史記』巻二十二、漢興以来将相名臣年表、孝景前六年) 六月丁丑、御史大夫岑邁卒。 (『史記』巻二十二、漢興以来将相名臣年表、孝景後二年) 『史記』漢興以来将相名臣年表には、「陽陵侯岑邁」なる者が景帝の時に御史大夫となっ…

霍去病の子か孫か2

以前の記事(霍去病の子か孫か - てぃーえすのメモ帳)で霍山が霍去病の子か孫か分からないという話をした。 『漢書』では基本的には霍去病の孫(霍光の兄の孫)としている。 時大將軍(霍)光薨、子禹復為大司馬、兄子山領尚書、親屬皆宿衛内侍。 (『漢書…

馬小屋の一夜

初、趙平客石夏善為天官、語平曰「熒惑守御星、御星、太僕奉車都尉也、不黜則死。」平内憂(霍)山等。(霍)雲舅李竟所善張赦見雲家卒卒、謂竟曰「今丞相與平恩侯用事、可令太夫人言太后、先誅此両人。移徙陛下、在太后耳。」長安男子張章告之、事下廷尉。 …

廃位後の運命

元帝即位、復封(劉)賀子代宗為海昏侯、傳子至孫、今見為侯。 (『漢書』巻六十三、昌邑哀王髆伝) 初元三年、釐侯代宗以賀子紹封。 原侯保世嗣。 侯會邑嗣、免、建武後封。 (『漢書』巻十五下、王子侯表下、海昏侯賀) 漢の海昏侯劉賀は一度は皇帝になっ…