前漢

補足のひとこと

武郷谷の話はあるものの、姜維らの例を考えると、諸葛亮も琅邪国武郷県の侯とする方が自然で、武郷谷は諸葛亮の功績に報いるために、遥任だけでなく実質的な侯国も与えたとみなした方が良いでしょう。https://t.co/J5LTtgv0kr— Jominian (@Jominian) 2022年1…

宛の李氏と安衆の劉氏

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 『後漢書』李通伝に、後漢明帝が宛に行幸した時、宛の李氏たちに対して安衆県の劉氏たち(先…

劉宣と劉寵

初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。 休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以…

安衆侯と舂陵侯

前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。 侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。 侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。 建武十三年、侯松嗣。 今見。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹) この安衆侯は後漢最初期に復興されてい…

武骨者の一族

舂陵侯や安衆侯らの前漢長沙王系統、かの更始帝劉玄、斉王劉縯(伯升)、反乱者翟義の親族と繋がっていた舂陵侯劉敞(舂陵侯本家)、敵討ちが原因で官吏に殺された兄の仇を討った安成侯劉賜、ガチの反乱者安衆侯劉崇など、なぜか前漢末や新の時代にやけに血…

兄の嘲笑

性勤於稼穡、而兄伯升好俠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。 (『後漢書』紀第一上、光武帝紀上) 後漢初代皇帝は農業にいそしみ、反社勢力に両足突っ込んでいた兄からは馬鹿にされていたのだ、という話がある。 t-s.hatenablog.com このあたりの話だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

内政干渉

秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安二十一年) ふと思ったが、曹操が匈奴単于を抑留して右賢王に国を監督させたという件、これは漢王朝において曹操自身がやっていたことを匈奴…

袁紹の希望

袁紹は官渡から撤退してから1年半ほどで死んでいる。 劉邦は滎陽・成皋から撤退してから1年半ほどで項羽を滅ぼしている。 こうして見ると、一度大敗したからといってもうおしまい、と断言できるようなものではないのだ、ということになるのだろう(無論、…

ひとこと

ふと思ったんだが、項羽が追い詰められた時に「四面楚歌」って言ってるけど、項羽ってもともと楚の大将の宋義を殺してるし、争った劉邦も所属は楚だったわけだし、主な敵が「楚」だった時期が長いよな。 最初からそこそこ「四面楚歌」だったんじゃないか?

ひとこと

漢の恵帝の命を助けた夏侯嬰が、漢の恵帝の子ということになっている少帝らを殺害するために宮殿から連れ出す役割を担った、という因果がエグくて好きなエピソード。

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

諸侯王の監視

曹魏の諸侯王の元には「監国使者(謁者)」という官が付いていて、どうやら皇帝直属で諸侯王を監視していたらしい。 前漢の初期の初期は基本全ての官を諸侯王が自ら任命し、その後は諸侯王の相(丞相)や傅あたりだけが勅任で、彼らが監視の任を負っていたよ…

藁の家

『史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。 陳寿『三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。 それらに対し、いわゆる「正史」…

秦将になっていたかもしれない

項梁殺人、與(項)籍避仇於呉中。 (『史記』巻七、項羽本紀) 項羽の叔父項梁は人を殺し、仇を避けて呉へ逃げたのだ、という。 どんな理由や経緯かはわからないが、項梁は人を殺した割に秦からは追われていたわけではなく、私的な「仇」が追跡していたよう…

武皇帝

新たな王朝の号(王莽の「新」とか曹氏の「魏」とか)については、ほとんどの場合、その王朝の開祖が皇帝になる時点でなっていた諸侯の国号から取るのが通例であるようだ。 「漢王」劉邦が皇帝になると「漢」王朝となるし、「新都侯」王莽が皇帝になると「新…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…

諸行無常

『漢書』高恵高后文功臣表には元康4年の子孫に対する一斉徭役免除や、昨日の記事にあったような復興などの記録が見えるのだが、そこに載る子孫はもれなく爵位も掲載されている。 そのほとんどが二十等爵最下位の「公士」やら下から5番目の「大夫」やら、良…

功臣の復興

『漢書』高恵高后文功臣表の高祖の時の列侯の中で、哀帝・平帝の時に子孫が何らかの復興や下賜を受けた者を拾ってみた。 平陽懿侯曹參(二) 元壽二年五月甲子、侯本始以參玄孫之玄孫杜陵公士紹封、千戸、元始元年益滿二千戸。 清河定侯王吸(十四) 元壽二…

参照先不明

哀帝時繼絶世、乃封敬王(劉)澤玄孫之孫無終公士歸生為營陵侯、更始中為兵所殺。 (『漢書』巻三十五、劉沢伝) 右孝哀十三人。新成・新都・平陽・營陵・徳五人隨父、凡十八人。 (『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表) 前漢の燕王劉沢は3代目がとんでもないイ…

漢の劉氏

惟宗室子、皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後。 (『漢書』巻十二、平帝紀、元始五年) 前漢末の時点で、「宗室」(いわば皇室である)というと高祖劉邦かその兄劉仲または弟劉交の子孫のみであったとされる。 だが、劉氏にはどれでもない王として「燕王…

長い人生

『史記』秦始皇本紀の本文には、「孝明皇帝十七年十月十五日乙丑曰」から始まる、明らかに後漢明帝の時のことに言及している部分がある。 ということは、この部分については章帝以降の時代に書かれているとしか思えない(明帝の時なら諡号で書かれるはずがな…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

昭霊夫人

丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后、孝和皇帝改葬其母梁貴人、尊號曰恭懷皇后、孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。・・・(後略)・・・ (『三国志』巻三十四、二主妃子伝、先主甘皇后) 丞相臣(陳)…

チェンジ

前漢の皇帝は景帝・武帝・宣帝・成帝が皇后を廃位して取り替えている。 比較的在位年数が長かった皇帝は大体チェンジ経験者ということだ。 割とまじめな話として後宮の制度はどこかしらパネル式の指名制度っぽいところがあるようなので、長年通い詰めた皇帝…

自殺の理由

霍后立五年、廢處昭臺宮。後十二歳、徙雲林館、乃自殺、葬昆吾亭東。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣霍皇后) 漢の宣帝の皇后霍氏(霍光の娘)は、霍氏の謀反によって一族が全滅すると廃位されて12年間幽閉生活の末に自殺したらしい。 12年間死な…

前漢儒者の量刑改正

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰 臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(中略)・・・至哀・平繼體、而即位日淺、聽斷尚寡、丞…

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

成紀出身の有名人

帝王世記曰「庖犧氏生於成紀。」 (『続漢書』志第二十三、郡国志五、涼州、漢陽郡、成紀、注引『帝王世記』) あの李広・李陵や李徴(トラ)なんかの隴西(漢陽)成紀の李氏の本貫である、漢陽郡成紀県は、あの「庖犧」(伏犠)が生まれた地だとされている…