前漢

ひとこと(鄧艾の罪と罰)

しかし、蜀漢落としてからの鄧艾について考えてみると、対呉戦略は完全に独断専行であるから、運よく実行されて運よく成功してしまったら、これはもう司馬氏ではなく、もちろん魏でもなく、鄧艾単独の功績ということになってしまうんじゃないだろうか。 下手…

漢帝の諡号と魏帝の諡号

漢の皇帝の諡号は、原則として頭に「孝」が付く2文字だった。「孝霊皇帝」のように。 曹魏の皇帝の諡号は、漢と同様の制度ではなかったように思われ、「孝」が付く者はいなかった。 漢と曹魏では皇帝への諡号について変更があり、「孝」号を付けるのを辞め…

良く分かる公益通報

沛公旦日從百餘騎來見項王、至鴻門、謝曰「臣與將軍戮力而攻秦、將軍戰河北、臣戰河南、然不自意能先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有卻。」項王曰「此沛公左司馬曹無傷言之。不然、籍何以至此。」項王即日因留沛公與飲。 ・・・(中…

降格願い

建武二年、封昆陽侯。・・・(中略)・・・ 子(傅)昌嗣、徙封蕪湖侯。建初中、遭母憂、因上書、以國貧不願之封、乞錢五十萬、為關内侯。肅宗怒、貶為關内侯、竟不賜錢。 (『後漢書』列伝第十二、傅俊伝) 後漢初期の功臣傅俊は穎川郡の県である昆陽侯とな…

ひとこと

「平干国」(前漢の王国のひとつ。のちの広平国)とか、「大河郡」(済東国から改称。のちの東平郡)とかの「すごく古いのに、のちに伝わらず短命に終わっている郡国名」大好き。

国名と郡名

廣陽國。高帝燕國、昭帝元鳳元年為廣陽郡、宣帝本始元年更為國。莽曰廣有。 (『漢書』巻二十八下、地理志下、広陽国) 漢の「燕国」は、武帝の息子燕王劉旦が取り潰しになった時に「広陽郡」となり、その後燕王の子がその地の王に復帰する時にも「広陽王」…

ひとこと

「検事正」の「正」って、もしかして秦漢の廷尉の属官の「廷尉正」から来てたりする?

劉氏と劉氏

項伯即入見沛公。沛公奉卮酒為壽、約為婚姻。 (『史記』巻七、項羽本紀) 沛公劉邦はかの「鴻門の会」に際し、劉邦一行の危機を教えてくれた項伯との縁組を約束した、という。 この約束は果たされたのだろうか? というのは、項伯は項羽死後に「劉氏」を賜…

ひとこと

「大河郡」とか「平干国」とかのレアな郡国名大好き。 平干国なんかは由来も良く分からないのがすごくいい。

ひとこと

前漢の王はやらかすと大抵は房陵(漢中郡)に送られるんだな。 最終的には房陵は漢の諸侯王の子孫だらけになっていたのでは?

姓は趙王

潦 以匈奴趙王降、侯。 一、(元狩)元年七月壬午、悼侯趙王煖訾元年。二年、煖訾死、無後、國除。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表) 漢の武帝の時、「匈奴趙王」なる者が降伏して列侯に封建されている。 その人物の姓名を上記『史記』建元以来侯者年表…

ひとこと

韋昭「帝位にあったわけではないのに本紀を立てるべきではない」 項羽「ほう・・・?」 呂后「へえ・・・?」

夏侯氏2系統説

『三国志』に出てくる曹操や夏侯惇らとの血縁関係が分からない夏侯氏は「沛の夏侯氏」ではなく「魯の夏侯氏」説。 『漢書』に載る儒者の夏侯勝らは「魯の夏侯氏」である。

恭王の子孫2

先日の記事で、「劉焉の先祖は前漢の魯恭王余ではなく、後漢初期の城陽恭王祉ではないか」と述べた。 だが、「まさか『三国志』や『後漢書』が劉氏の王の記述についてそんな間違いをするだろうか」みたいな疑問もあるだろう。 しかし、実際にこういう例もあ…

宗卿師

父(李)守、身長九尺、容貌絶異、為人嚴毅、居家如官廷。初事劉歆、好星歴讖記、為王莽宗卿師 。 【注】 平帝五年、王莽攝政、郡國置宗師以主宗室、蓋特尊之、故曰宗卿師也。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 後漢初の李通の父李守は「宗卿師」と呼ばれてい…

劉邦失意の時

おそらくだが、劉邦は秦が大梁を滅ぼし、張耳が外黄に住んだという時期には仕官せず食客になっていた。 このころは劉邦は20代前半か。 で、数年後に秦が全国を統一してから、劉邦は秦の官吏として登用されたのだろう。20代後半か30代前後の「壮」と呼…

布衣劉邦

秦之滅大梁也、張耳家外黄。高祖為布衣時、嘗數從張耳游、客數月。 (『史記』巻八十九、張耳陳余列伝) そうか、『史記』張耳陳余列伝の記事から「高祖劉邦は大粱が滅んだ時に布衣だった」ことがわかるな。始皇22年か? 官吏になったのは少なくともそれ以…

劉邦忠臣説

劉邦が秦の官吏としてはどうも不真面目な面ばかり目立つのは、彼自身は自分を魏臣と規定していたので、魏を滅ぼした秦に対してはサボタージュしていた説。

若き劉邦の時代

及壮、試為吏、為泗水亭長、廷中吏無所不狎侮。 (『史記』巻八、高祖本紀) 漢の高祖劉邦は、「壮」となったころに官吏になったという。 「壮」は経書的には30歳ころを言う(『礼記』曲礼上)そうで、ここもちょうど30歳ではないとしてもその年代を言っ…

劉邦の仕官についてひとこと

そういえば、劉邦が仕官したのっていつ頃なんだろう? そして、当時はどういう時代だったんだろう? 統一前か統一後か、そもそも最初の仕官先は秦ってことでいいのか? この辺、一度ちゃんと整理してみようか・・・。

劉邦の仕官

漢の劉邦は「不事家人生産作業」(『史記』高祖本紀)などと言われ、家業の第一次産業に従事しようとしなかった、といった風に伝えられている。 だが彼は一方で吏となり亭長に就任はしているわけで、これは「家業を手伝わない代わりに官吏になるための勉強や…

劉邦と似た人

思ったんだけど劉邦って「ゴク潰し」「ニート」って感じではないよな。亭長やってたわけだし。 むしろ立ち位置としては『金瓶梅』における西門慶が近いんじゃないか? 『水滸伝』の宋江も似てるか・・・?

九廟

曹魏は太祖・高祖・烈祖様で「三祖」を形成した。 前漢の皇帝廟は本来は「太祖」と「三昭三穆」の「天子七廟」であった。 「三祖」と「三昭三穆」を合わせると「九廟」。 王莽は「九廟」を作ったとされるのだが、曹魏も本当は「三祖三昭三穆」の「九廟」を作…

悪の巣窟

太史公曰、吾嘗過薛、其俗閭里率多暴桀子弟、與鄒・魯殊。問其故、曰「孟嘗君招致天下任俠、姦人入薛中蓋六萬餘家矣。」世之傳孟嘗君好客自喜、名不虛矣。 (『史記』巻七十五、孟嘗君列伝) 『史記』太史公によれば、かの賓客を多数集めた事で有名な孟嘗君…

ウッシッシ

そういえば、「左氏」がいて「右氏」はいない(見かけない)が、「右師氏」ならいるんだった。 前漢末期の右師譚、右師細君などが『漢書』『後漢書』に出てくる。

肉刑廃止について

あれ? 昨日取り上げた太倉公の事件に端を発する肉刑廃止について、『漢書』刑法志では「外有輕刑之名、内實殺人」と、肉刑がほとんど死に至る笞刑になったことを批判的に記してるけど、『史記』ってそういった部分が載ってない・・・? それとも見落として…

淳于公

『史記』扁鵲倉公列伝に載る太倉公淳于意と、『漢書』刑法志に載る淳于公って、同一人物のはずなのに全く印象が違うというか、『漢書』では名医だという話が出てきてないんだよな・・・。 というか、『史記』扁鵲倉公列伝でも肉刑廃止の一件と、医者としての…

ひとこと

そういえば、「劉邦の娘」って呂后の子の魯元公主以外まるで聞かないよな・・・。 それなりの年齢まで育った男子が8人いたことを考えると、ほかにもいたと思うんだが・・・。 あれかな、呂氏と通婚したのが多くて呂氏誅滅で一緒に闇に消えたかな・・・。

劉邦の母族疎遠説

劉邦の母の一族の姿が史書に出てこないの、ずっと前に記事にした「劉邦の母は離縁して別居していたから」なのでは・・・? もとより離れ離れになっていた上に母本人が死んでいたとしたら、母の一族が劉邦に協力するというのは、近くにいなかったという点でも…

母の姓

劉邦の母の実家の姓は不明だったと思う。 王莽の母の実家の姓も不明だったと思う。 曹操の母の実家の姓も同様に不明である。父曹嵩の正妻は丁氏とされるが、だからといって曹操の母であったかどうかは不明である(その可能性が高いとは思うが)。 つまり、漢…