前漢

高祖の子たちと呂氏

趙幽王友、十一年立為淮陽王。趙隠王如意死、孝惠元年、徙友王趙、凡立十四年。 友以諸呂女為后、不愛、愛它姫。諸呂女怒去、讒之於太后曰「王曰『呂氏安得王?太后百歳後、吾必撃之。』」太后怒、以故召趙王。趙王至、置邸不見、令衛圍守之、不得食。其羣臣…

ひとこと

漢の文帝は23歳で即位したそうだが、その時点で代王時代の后との間に男子が4人、更に後の皇后竇氏との間にも既に男子(景帝)がいた。 つまり最低でも男子5人の父だった。 しかも代王の王后はその時点で4人男子を産んでいた事になる。 出産に必要な時間…

漢の景帝の子たち

漢の景帝の男子で名が残っているのは武帝を入れて14人。 河間献王徳は「修學好古」などと言われる、一応真面目な人物だったらしい。 臨江哀王閼は早死に。 臨江閔王榮は最初の皇太子。罪があって自殺したが、元皇太子を排除しようとしたものという疑いが強…

月事

長沙定王發。發之母唐姫、故程姫侍者。景帝召程姫、程姫有所辟、不願進、而飾侍者唐兒使夜進。上醉不知、以為程姫而幸之、遂有身。已乃覺非程姫也。及生子、因命曰發。 【注】 索隠、姚氏按、釋名云「天子諸侯羣妾以次進御、有月事者止不御、更不口説、故以…

痩せすぎ

侯骨嗣、王莽篡位、絶。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、衆陵節侯賢) 前漢の長沙定王の王子侯となった衆陵侯劉賢の子孫で最後の衆陵侯は「劉骨」という名前であったらしい。 『漢書』王子侯表などの一覧に出てくる名はちょくちょく列伝等と異同があったり…

駆り立てるのは野心と欲望

洮陽 長沙定王子 (元朔)五年六月壬子、靖侯劉狗彘元年。 (『史記』巻二十一、建元已來王子侯者年表) 『史記』建元已來王子侯者年表によれば、長沙定王の子で列侯(王子侯)になった洮陽侯は、名を「劉狗彘」とされている。 「犬と豚」とはまたエライ名前…

ふとした疑問

かの項羽は秦を滅ぼした後、秦の地(関中)に秦からの降将章邯・司馬欣・董翳を三秦王とした。 しかし、よくよく考えてみると、秦の大将だった章邯はまだしも、その部下であった司馬欣・董翳まで王にする義理があったのだろうか? しかも、楚の懐王(義帝)…

14歳の祖母

皇后立十歳而昭帝崩、后年十四五云。昌邑王賀徴即位、尊皇后為皇太后。(霍)光與太后共廢王賀、立孝宣帝。宣帝即位、為太皇太后。凡立四十七年、年五十二、建昭二年崩、合葬平陵。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝昭上官皇后) 漢の昭帝の皇后である上…

漢武帝の寵姫殺しについて

昨日の記事について。 漢の武帝は子を産んだ寵姫を譴責し殺してしまっていた、という。 漢の武帝の記録に残る男子は6人。 長男の戻太子劉拠の母は衛皇后。 彼女は最終的に反乱に加担したという事で死んではいるが、数十年に渡って皇后として君臨していた事…

漢武帝の寵姫殺し

上居甘泉宮、召畫工圖畫周公負成王也。於是左右羣臣知武帝意欲立少子也。後數日、帝譴責鉤弋夫人。夫人脱簪珥叩頭。帝曰「引持去、送掖庭獄!」夫人還顧、帝曰「趣行、女不得活!」夫人死雲陽宮。時暴風揚塵、百姓感傷。使者夜持棺往葬之、封識其處。 其後帝…

第2夫人と第3夫人

武帝時、幸夫人尹婕妤。邢夫人號娙娥、眾人謂之「娙何」。娙何秩比中二千石、容華秩比二千石、婕妤秩比列侯。常從婕妤遷為皇后。 尹夫人與邢夫人同時並幸、有詔不得相見。尹夫人自請武帝、願望見邢夫人、帝許之。即令他夫人飾、從御者數十人、為邢夫人來前。…

理不尽な話

初、李夫人病篤、上自臨候之。夫人蒙被謝曰「妾久寢病、形貌毀壞、不可以見帝。願以王及兄弟為託。」上曰「夫人病甚、殆將不起、一見我屬託王及兄弟、豈不快哉?」夫人曰「婦人貌不修飾、不見君父。妾不敢以燕媠見帝。」上曰「夫人弟一見我、將加賜千金、而…

もう一つの李さん一家

而李夫人産昌邑王、(李)延年繇是貴為協律都尉、佩二千石印綬、而與上臥起、其愛幸埒韓嫣。久之、延年弟季與中人亂、出入驕恣。及李夫人卒後、其愛㢮、上遂誅延年兄弟宗族。 (『漢書』巻九十三、佞幸伝、李延年) 其後李延年弟季坐姦亂後宮、廣利降匈奴、…

ひとこと

昨日の記事書いてて思ったんだが、『漢書』では李広利兄弟は3人が別々の場所で伝を立てられているんだな。 『漢書』巻61に李広利伝が、巻93佞幸伝に李延年伝が、巻97上外戚伝上に孝武李夫人伝が載っている。 それぞれバラバラに載っていて微妙に書か…

李広利の降伏と太医令

有詔捕太醫令隨但、言貳師將軍家室族滅、使(李)廣利得降匈奴。 (『史記』巻一百十、匈奴列伝) 漢の武帝は太医令隨但を捕えさせた。 罪状は「貳師将軍李広利の家族が族滅されると言ったため、李広利が匈奴に降伏した」という事だそうだ。 なんで太医令な…

約束の地

初、天子之立非(袁)紹意、及在河東、紹遣潁川郭圖使焉。圖還説紹迎天子都鄴、紹不從。會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。 (『三国志』巻六、袁紹伝) 曹操は天子を迎えて許に行き、河南地を納めた。 この「河南地」はまあ黄河の南側、河南郡やその近…

『魏略』について

魏略以(常)林及吉茂・沐並・時苗四人為清介傳。 (『三国志』巻二十三、常林伝注) 魏略苛吏傳曰、(王)思與薛悌・郤嘉倶從微起、官位略等。 (『三国志』巻十五、梁習伝注) 魏略勇俠傳載孫賓碩・祝公道・楊阿若・鮑出等四人。賓碩雖漢人、而魚豢編之魏…

小ネタ

三月、光祿大夫河東暴勝之公子為御史大夫、三年下獄自殺。 【注】 師古曰「公子、亦勝之字也。後皆類此。」 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、太始三年、御史大夫) 昨日の話に出た繍衣御史暴勝之の字は「公子」であったらしい。 「暴公子」である。 名の…

繍衣御史の明暗

文・景間、(王)安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。為武帝繡衣御史、逐捕魏郡羣盜堅盧等黨與、及吏畏懦逗遛當坐者、翁孺皆縱不誅。它部御史暴勝之等奏殺二千石、誅千石以下、及通行飲食坐連及者、大部至斬萬餘人、語見酷吏傳。翁孺以奉使不稱免、嘆曰…

自称皇太子の真贋

始元五年、有一男子乗黄犢車、建黄旐、衣黄襜褕、著黄冒、詣北闕、自謂衛太子。公車以聞、詔使公卿將軍中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下、以備非常。丞相御史中二千石至者並莫敢發言。 京兆尹(雋)不疑後到、叱從吏收縛。或曰「是非…

宦官、乱れる

李延年、中山人也。父母及身兄弟及女、皆故倡也。延年坐法腐、給事狗中。而平陽公主言延年女弟善舞、上見、心説之、及入永巷、而召貴延年。延年善歌、為變新聲、而上方興天地祠、欲造樂詩歌弦之。延年善承意、弦次初詩。其女弟亦幸、有子男。延年佩二千石印…

謎の都尉

(陳)平遂至修武降漢、因魏無知求見漢王、漢王召入。是時萬石君奮為漢王中涓、受平謁、入見平。平等七人倶進、賜食。王曰「罷、就舍矣。」平曰「臣為事來、所言不可以過今日。」於是漢王與語而説之、問曰:「子之居楚何官?」曰「為都尉。」是日乃拜平為都…

高祖の寝所

從東撃項籍、以太尉常從、出入臥内、衣被飲食賞賜、羣臣莫敢望、雖蕭・曹等、特以事見禮、至其親幸、莫及盧綰。 (『史記』巻九十三、韓信盧綰列伝) 漢の高祖劉邦の幼馴染であった盧綰は、高祖劉邦との関係について「出入臥内」であったとされる。 高祖の寝…

広川王の謎

夏四月、立代孝王玄孫之子如意為廣宗王、江都易王孫盱台侯宮為廣川王、廣川惠王曾孫倫為廣徳王。 (『漢書』巻十二、平帝紀、元始二年) 前漢平帝の時(王莽の時)、「広宗王」「広川王」「広徳王」が新たに建てられたのだという。 廣世 元始二年四月丁酉、…

根掘り葉掘り

黥布者、六人也。 (『史記』巻九十一、黥布列伝) 『史記』黥布列伝の・・・「黥布者、六人也」ってよォ~ 「黥布者」ってのはわかる・・・スゲーよくわかる。 姓は英でもイレズミがあるからな・・・。 だが『六人也』って部分はどういうことだああ~~~~…

ない内史

五月丙申、天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公曰・・・(中略)・・・魏國置丞相已下羣卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。 (『三国志』巻一、武帝紀) 秋、羣下上先主為漢中王、表於漢帝曰・・・(中略)・・・以漢中・巴・蜀・廣漢・犍為為國、所署置依漢初諸…

仲長統『昌言』法誡篇を読んでみよう:その1

損益篇の次は法誡篇。

名を如何せん

「虞美人」と呼ばれる人物がいる。 かの有名な項羽の寵姫と思われる人物である。 この人物は、『史記』においては以下の有名な場面に出てくる。 項王軍壁垓下、兵少食盡、漢軍及諸侯兵圍之數重。 夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰「漢皆已得楚乎?是何楚人…

魏王についての疑問

曹操は魏公から魏王になったが、何故魏王になったのだろうか? 魏公の時と領土は変わってないようだし、既に魏公が他の諸侯王より上の地位であると決められている。 じゃあ将来行うであろう禅譲のためかというと、その先達王莽はそもそも王にはなっていない…

老いてますます盛ん

以門尉前元年初起碭、至霸上、為武定君、入漢、還定三秦、以都尉撃項羽、侯。 六年、侯昭元年。九年、侯昭有罪、國除。 孝景三年、昭以故芒侯將兵從太尉亞夫撃呉楚有功、復侯。 後元年三月、侯申元年。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、芒) 以門尉前元…