前漢

夏侯氏2系統説

『三国志』に出てくる曹操や夏侯惇らとの血縁関係が分からない夏侯氏は「沛の夏侯氏」ではなく「魯の夏侯氏」説。 『漢書』に載る儒者の夏侯勝らは「魯の夏侯氏」である。

恭王の子孫2

先日の記事で、「劉焉の先祖は前漢の魯恭王余ではなく、後漢初期の城陽恭王祉ではないか」と述べた。 だが、「まさか『三国志』や『後漢書』が劉氏の王の記述についてそんな間違いをするだろうか」みたいな疑問もあるだろう。 しかし、実際にこういう例もあ…

宗卿師

父(李)守、身長九尺、容貌絶異、為人嚴毅、居家如官廷。初事劉歆、好星歴讖記、為王莽宗卿師 。 【注】 平帝五年、王莽攝政、郡國置宗師以主宗室、蓋特尊之、故曰宗卿師也。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 後漢初の李通の父李守は「宗卿師」と呼ばれてい…

劉邦失意の時

おそらくだが、劉邦は秦が大梁を滅ぼし、張耳が外黄に住んだという時期には仕官せず食客になっていた。 このころは劉邦は20代前半か。 で、数年後に秦が全国を統一してから、劉邦は秦の官吏として登用されたのだろう。20代後半か30代前後の「壮」と呼…

布衣劉邦

秦之滅大梁也、張耳家外黄。高祖為布衣時、嘗數從張耳游、客數月。 (『史記』巻八十九、張耳陳余列伝) そうか、『史記』張耳陳余列伝の記事から「高祖劉邦は大粱が滅んだ時に布衣だった」ことがわかるな。始皇22年か? 官吏になったのは少なくともそれ以…

劉邦忠臣説

劉邦が秦の官吏としてはどうも不真面目な面ばかり目立つのは、彼自身は自分を魏臣と規定していたので、魏を滅ぼした秦に対してはサボタージュしていた説。

若き劉邦の時代

及壮、試為吏、為泗水亭長、廷中吏無所不狎侮。 (『史記』巻八、高祖本紀) 漢の高祖劉邦は、「壮」となったころに官吏になったという。 「壮」は経書的には30歳ころを言う(『礼記』曲礼上)そうで、ここもちょうど30歳ではないとしてもその年代を言っ…

劉邦の仕官についてひとこと

そういえば、劉邦が仕官したのっていつ頃なんだろう? そして、当時はどういう時代だったんだろう? 統一前か統一後か、そもそも最初の仕官先は秦ってことでいいのか? この辺、一度ちゃんと整理してみようか・・・。

劉邦の仕官

漢の劉邦は「不事家人生産作業」(『史記』高祖本紀)などと言われ、家業の第一次産業に従事しようとしなかった、といった風に伝えられている。 だが彼は一方で吏となり亭長に就任はしているわけで、これは「家業を手伝わない代わりに官吏になるための勉強や…

劉邦と似た人

思ったんだけど劉邦って「ゴク潰し」「ニート」って感じではないよな。亭長やってたわけだし。 むしろ立ち位置としては『金瓶梅』における西門慶が近いんじゃないか? 『水滸伝』の宋江も似てるか・・・?

九廟

曹魏は太祖・高祖・烈祖様で「三祖」を形成した。 前漢の皇帝廟は本来は「太祖」と「三昭三穆」の「天子七廟」であった。 「三祖」と「三昭三穆」を合わせると「九廟」。 王莽は「九廟」を作ったとされるのだが、曹魏も本当は「三祖三昭三穆」の「九廟」を作…

悪の巣窟

太史公曰、吾嘗過薛、其俗閭里率多暴桀子弟、與鄒・魯殊。問其故、曰「孟嘗君招致天下任俠、姦人入薛中蓋六萬餘家矣。」世之傳孟嘗君好客自喜、名不虛矣。 (『史記』巻七十五、孟嘗君列伝) 『史記』太史公によれば、かの賓客を多数集めた事で有名な孟嘗君…

ウッシッシ

そういえば、「左氏」がいて「右氏」はいない(見かけない)が、「右師氏」ならいるんだった。 前漢末期の右師譚、右師細君などが『漢書』『後漢書』に出てくる。

肉刑廃止について

あれ? 昨日取り上げた太倉公の事件に端を発する肉刑廃止について、『漢書』刑法志では「外有輕刑之名、内實殺人」と、肉刑がほとんど死に至る笞刑になったことを批判的に記してるけど、『史記』ってそういった部分が載ってない・・・? それとも見落として…

淳于公

『史記』扁鵲倉公列伝に載る太倉公淳于意と、『漢書』刑法志に載る淳于公って、同一人物のはずなのに全く印象が違うというか、『漢書』では名医だという話が出てきてないんだよな・・・。 というか、『史記』扁鵲倉公列伝でも肉刑廃止の一件と、医者としての…

ひとこと

そういえば、「劉邦の娘」って呂后の子の魯元公主以外まるで聞かないよな・・・。 それなりの年齢まで育った男子が8人いたことを考えると、ほかにもいたと思うんだが・・・。 あれかな、呂氏と通婚したのが多くて呂氏誅滅で一緒に闇に消えたかな・・・。

劉邦の母族疎遠説

劉邦の母の一族の姿が史書に出てこないの、ずっと前に記事にした「劉邦の母は離縁して別居していたから」なのでは・・・? もとより離れ離れになっていた上に母本人が死んでいたとしたら、母の一族が劉邦に協力するというのは、近くにいなかったという点でも…

母の姓

劉邦の母の実家の姓は不明だったと思う。 王莽の母の実家の姓も不明だったと思う。 曹操の母の実家の姓も同様に不明である。父曹嵩の正妻は丁氏とされるが、だからといって曹操の母であったかどうかは不明である(その可能性が高いとは思うが)。 つまり、漢…

劉邦一家

そういえば、劉邦は兄弟の話は出てくるが、姉の夫とか姉の息子とか叔父とかいった者は記録上に現れてこないな・・・。 全くいなかったとも思いにくいが・・・。劉賈は従兄弟とされているから、実際叔父はどこかには存在したのだろうし。 奚涓がその可能性が…

蕭何の妻

前漢には女性にして列侯になったとされる者が数名確認できる。 劉邦の兄嫁とされる陰安侯、呂后の妹臨光侯、魯侯奚涓の母で劉氏と言われる魯侯(重平侯)疵、そして蕭何の妻である。 蕭何の妻以外は、劉邦または呂后の縁戚、近親ということになる(魯侯は推…

思い付き

ただ思い付きなんだが、かの蕭何が高祖劉邦から留守を任されるほど信任され、死後も夫人や子孫がずっと特別待遇を受けていたらしい理由、これ「劉邦と縁戚だから」じゃないだろうか? 他の時代で言えば、曹操と夏侯惇なんかのような。

胡母

後漢末の「胡母班」など、「胡母」という姓がある。 胡母侯楚 濟北式王子。 二月癸酉封、十四年、元鼎五年、坐酎金免。 泰山 (『漢書』巻十五上、王子侯表上) 前漢の列侯に「胡母侯」という侯がいた。 通常、侯は封建される土地の名を冠するものなので、「…

合陽侯国と呉王国

昨日の記事で劉邦の兄劉喜(劉仲)は呉頃王とされたらしいことを書いた。 つまり彼は遡って呉王初代のような扱いになったということであるから、受け継ぐべき国も呉王国があるということになり、合陽侯国は不要である、ということになったのではないだろうか…

呉頃王

詔曰「蓋聞帝王以徳撫民、其次親親以相及也。昔堯睦九族、舜惇敘之。朕以皇帝幼年、且統國政、惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後、漢元至今、十有餘萬人、雖有王侯之屬、莫能相糾、或陷入刑罪、教訓不至之咎也。・・・(後略)・・・」 (『漢書…

劉喜の後継者

漢の高祖劉邦の兄劉喜(劉仲)は代王になったが国を失い、合陽侯となった。 合陽 高祖兄。兵初起、侍太公守豐、天下已平、以六年正月立仲為代王。高祖八年、匈奴攻代、王弃國亡、廢為合陽侯。 八年九月丙子、侯劉仲元年。 仲子濞、為呉王。 以子吳王故、尊仲…

劉沢

そういえば、高祖劉邦の親族で最終的に王になった燕王「劉沢」と同じ「劉沢」も、後の世にいたんだった。 昭帝の時に反乱者となった人物。 どうやら、以前の王などの著名人と同名になることもあり得たようだ。 皇帝と直接の先祖だけが避ける対象なのかもしれ…

劉交

前漢末期の成帝の時、会稽太守から宗正になった人物に「劉交」という名の者がいる。 高祖劉邦の弟の楚王が「劉交」なのだが、こういった人物と同姓同名でも問題無かったのだろうか?宗正劉交の方も同族だったとは思うのだが。

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

太上皇

あれ?そういえば漢の太上皇(劉邦の父)って、特に諡号は贈られてないのかな。 「初代皇帝の父」という存在は他にいないから、区別が必要ない、ということなのかもしれないし、特に諡号を贈るようなことはしていないのだ、ということなのかもしれない。 も…

ああ無常

(高后七年)夏五月辛未、詔曰「昭靈夫人、太上皇妃也。武哀侯・宣夫人、高皇帝兄姉也。號諡不稱、其議尊號。」丞相臣平等請尊昭靈夫人曰昭靈后、武哀侯曰武哀王、宣夫人曰昭哀后。 (『漢書』巻三、高后紀、高后七年) 漢の高祖劉邦の兄劉伯は「武哀王」と…