前漢

魏の宗聖侯

昨日の褒成侯関係の話だが、前漢の褒成侯は二千戸だった。 魏の宗聖侯は百戸だった。 時代の違い(他の侯とのバランス等)があるので一概には言えないかもしれないが、魏の宗聖侯は前後の時代の孔丘先生子孫の侯よりも領土が少なかったのかもしれない。

漢代の君2

元帝即位、徴(孔)霸、以師賜爵關内侯、食邑八百戸、號襃成君、給事中、加賜黄金二百斤、第一區、徙名數于長安。霸為人謙退、不好權勢、常稱爵位泰過、何徳以堪之!上欲致霸相位、自御史大夫貢禹卒、及薛廣徳免、輒欲拜霸。霸讓位、自陳至三、上深知其至誠…

尚書令鄧馮

尚書令南陽鄧馮君侯為右扶風。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年) へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。 つまり南陽の鄧氏。 「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安で詩経を学…

辛と幸

中郎將幸成子淵為水衡都尉。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始二年) (辛)慶忌居處恭儉、食飲被服尤節約、然性好輿馬、號為鮮明、唯是為奢。為國虎臣、遭世承平、匈奴・西域親附、敬其威信。年老卒官。 長子通為護羌校尉、中子遵函谷關都尉、少子茂…

メモ

漢の武帝の時、周王の子孫は「周子南君」という「君」にされた。 この「周子南君」は『漢書』外戚恩沢侯表では一人として「諡」が記録されていない。 その「周子南君」が「周承休侯」に格上げされてからは「諡」が贈られている事が確認されている。 「君」は…

漢代の君

公卿議更立皇后、皆心儀霍將軍女、亦未有言。上乃詔求微時故劍、大臣知指、白立許倢伃為皇后。既立、霍光以后父廣漢刑人不宜君國、歲餘乃封為昌成君。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后) 漢の宣帝の皇后となった許氏の父の許広漢は、許氏が皇后…

列侯となる者

孝惠六年、樊噲卒、謚為武侯。子伉代侯。而伉母呂須亦為臨光侯、高后時用事專權、大臣盡畏之。伉代侯九歳、高后崩。大臣誅諸呂・呂須婘屬、因誅伉。 (『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝、樊噲) かの樊噲の妻は呂后の妹呂須であった。 息子樊伉が樊噲の舞陽侯…

劉信の母

羹頡 以高祖兄子從軍、撃反韓王信、為郎中將。信母嘗有罪高祖微時、太上憐之、故封為羹頡侯。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、羹頡侯劉信) 高祖劉邦の長兄の子、羹頡侯劉信。 彼も一応は従軍していたのか。 他の親族(劉邦の兄劉嘉や弟劉交)はもっと…

陰安侯

羣臣從至、上議曰「丞相臣平・太尉臣勃・大將軍臣武・御史大夫臣蒼・宗正臣郢・朱虚侯臣章・東牟侯臣興居・典客臣揭再拜言大王足下。子弘等皆非孝惠皇帝子、不當奉宗廟。臣謹請陰安侯・頃王后・琅邪王・列侯・吏二千石議、大王高皇帝子、宜為嗣。願大王即天…

沛の王氏

孝宣王皇后。其先高祖時有功賜爵關内侯、自沛徙長陵、傳爵至后父奉光。奉光少時好鬬雞、宣帝在民間數與奉光會、相識。奉光有女年十餘歳、毎當適人、所當適輒死、故久不行。及宣帝即位、召入後宮、稍進為倢伃。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣王皇后)…

宣帝の外戚王氏

邛成 王奉光、家在房陵。以女立為宣帝皇后、故封千五百戸。言奉光初生時、夜見光其上、傳聞者以為當貴云。後果以女故為侯。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表、邛成侯王奉光) 王奉光は漢の宣帝の友人で、娘が皇后になった事から列侯にしてもらえた。 彼…

宣帝の外戚史氏

將陵 史子回。以宣帝大母家封為侯、二千六百戸、與平臺侯昆弟行也。子回妻宜君、故成王孫、嫉妒、絞殺侍婢四十餘人、盜斷婦人初産子臂膝以為媚道。為人所上書言、論弃市。子回以外家故、不失侯。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表、将陵侯史子回) 漢の宣…

オススメ漫画

matogrosso.jp しちみ楼先生の漫画『キンとケン』が終了した。 董賢や漢の哀帝や王莽の話。 少しでも興味があったら是非読んでみてほしい。 王莽が史実通りの姿になったりしてた。 お疲れさまでした。

謎の御史大夫

御史大夫陽陵侯岑邁。 (『史記』巻二十二、漢興以来将相名臣年表、孝景前六年) 六月丁丑、御史大夫岑邁卒。 (『史記』巻二十二、漢興以来将相名臣年表、孝景後二年) 『史記』漢興以来将相名臣年表には、「陽陵侯岑邁」なる者が景帝の時に御史大夫となっ…

霍去病の子か孫か2

以前の記事(霍去病の子か孫か - てぃーえすのメモ帳)で霍山が霍去病の子か孫か分からないという話をした。 『漢書』では基本的には霍去病の孫(霍光の兄の孫)としている。 時大將軍(霍)光薨、子禹復為大司馬、兄子山領尚書、親屬皆宿衛内侍。 (『漢書…

馬小屋の一夜

初、趙平客石夏善為天官、語平曰「熒惑守御星、御星、太僕奉車都尉也、不黜則死。」平内憂(霍)山等。(霍)雲舅李竟所善張赦見雲家卒卒、謂竟曰「今丞相與平恩侯用事、可令太夫人言太后、先誅此両人。移徙陛下、在太后耳。」長安男子張章告之、事下廷尉。 …

廃位後の運命

元帝即位、復封(劉)賀子代宗為海昏侯、傳子至孫、今見為侯。 (『漢書』巻六十三、昌邑哀王髆伝) 初元三年、釐侯代宗以賀子紹封。 原侯保世嗣。 侯會邑嗣、免、建武後封。 (『漢書』巻十五下、王子侯表下、海昏侯賀) 漢の海昏侯劉賀は一度は皇帝になっ…

霍去病の子か孫か

樂成 霍山。山者、大將軍光兄子也。光未死時上書曰「臣兄驃騎將軍去病從軍有功、病死、賜謚景桓侯、絶無後、臣光願以所封東武陽邑三千五百戸分與山。」天子許之、拝山為侯。後坐謀反、族滅、國除。 冠軍 霍雲。以大將軍兄驃騎將軍適孫為侯。地節三年、天子下…

蕭何の後継ぎ

孝惠二年、(蕭)何薨、諡曰文終侯。 子祿嗣、薨,無子。 高后乃封何夫人同為酇侯、小子延為筑陽侯。 孝文元年、罷同、更封延為酇侯。 (『漢書』巻三十九、蕭何伝) 『史記』の蕭相国世家や高祖功臣侯者年表には載っていない*1が、『漢書』蕭何伝や高恵高后…

呂氏の武将

俞 以連敖從高祖破秦、入漢、以都尉定諸侯、功比朝陽侯。嬰死、子它襲功、用太中大夫侯。 四 (呂后)四年四月丙申、侯呂它元年。 八年、侯它坐呂氏事誅、國除。 (『史記』巻十九、恵景間侯者年表、俞侯呂它) この呂它なる人物の父の呂嬰は漢の高祖劉邦の…

ちょっと思ったこと

呂后の兄は「周呂侯」となり、呂氏が王になる時も「呂王」となった。 この呂氏はやけに自分の姓である「呂」にこだわりがあるように見える? しかも「呂王」の国はどうやら魏(梁)の方にあるらしいのだが、古代の呂国は南陽の方にあったらしいし、どういう…

呂氏の兄弟

へえ、呂后の兄呂釈之の子、呂則・呂種・呂禄の兄弟順(『漢書』外戚恩沢侯表)だけど、呂禄が呂種を差し置いて王になっているのか。 逆に言うと、呂種は呂后の甥たちが王になる中でも王になってない。 呂種は正妻の子ではないとかいった事情があったのだろ…

林か隆か

景帝十三男、一男為帝、十二男皆為王。而兒姁早卒、其四子皆為王。王太后長女號曰平陽公主、次為南宮公主、次為林慮公主。 【注】 索隠、縣名、屬河内。本名隆慮、避殤帝諱、改名林慮。慮音廬。 (『史記』巻四十九、外戚世家、王太后) 『史記』外戚世家で…

幼き日の薄太后

薄太后、父呉人、姓薄氏、秦時與故魏王宗家女魏媼通、生薄姫。而薄父死山陰、因葬焉。 及諸侯畔秦、魏豹立為魏王、而魏媼内其女於魏宮。 (『史記』巻四十九、外戚世家、薄太后) 漢の文帝の母の薄太后の前半生、よく考えると微妙に謎だな。 父は呉の人だが…

内史は内史じゃない

(高帝二年)六月、漢王還櫟陽。壬午、立太子、赦罪人。令諸侯子在關中者皆集櫟陽為衛。引水灌廢丘、廢丘降、章邯自殺。雍地定、八十餘縣、置河上・渭南・中地・隴西・上郡。 【注】 服虔曰「河上、即左馮翊也。渭南、京兆也。中地、右扶風也。」師古曰「凡…

項羽の親族

以客從漢王二年從起定陶、以大謁者撃布、侯、千戸。為淮陰守。項氏親也、賜姓。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、桃侯劉襄) 漢の高祖の功臣の一人である桃侯劉襄は項羽の親族であるが、よくよく見ると高祖2年の段階で劉邦に従った事になっている。 つ…

曲成侯の技

褚先生曰・・・(中略)・・・齊張仲・曲成侯以善撃刺學用劍、立名天下。 (『史記』巻一百二十七、日者列伝) 「曲成(曲城)侯」は「撃刺学用剣」で天下に名をとどろかせたらしい。 剣の達人的な意味だろうか。 そして「曲成侯」というと数日前の記事の蟲…

二度の剥奪と復活

孝文元年、侯(蟲)捷嗣、八年、有罪、免。 十四年、捷復封。 十八年、復免。戸九千三百。 孝景中五年、侯捷復封。五年薨。 (『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、曲成圉侯蟲達) 漢の高祖劉邦の功臣で曲成侯となった蟲達なる者の子である蟲捷は、功臣表に書…

李当戸の挑戦

(李)廣子三人、曰當戸・椒・敢、為郎。 天子與韓嫣戲、嫣少不遜、當戸撃嫣、嫣走。於是天子以為勇。 (『史記』巻一百九、李将軍列伝) 李広の子の李当戸は、武帝と仲良くしていた(意味深)韓嫣を攻撃したが、それを見た武帝は李当戸を「勇」であると考え…

李広のイメージ

昨日あたりの記事の話からすると、かの李広は若くして実力と功績を認められて太守となった。 また、少々性格が独特(婉曲)だったようでもある。 そして、自他ともに認める実力でありながら、大功や列侯位のようなビッグタイトルは何故かほとんど無縁であっ…