前漢

長い人生

『史記』秦始皇本紀の本文には、「孝明皇帝十七年十月十五日乙丑曰」から始まる、明らかに後漢明帝の時のことに言及している部分がある。 ということは、この部分については章帝以降の時代に書かれているとしか思えない(明帝の時なら諡号で書かれるはずがな…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

昭霊夫人

丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后、孝和皇帝改葬其母梁貴人、尊號曰恭懷皇后、孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。・・・(後略)・・・ (『三国志』巻三十四、二主妃子伝、先主甘皇后) 丞相臣(陳)…

チェンジ

前漢の皇帝は景帝・武帝・宣帝・成帝が皇后を廃位して取り替えている。 比較的在位年数が長かった皇帝は大体チェンジ経験者ということだ。 割とまじめな話として後宮の制度はどこかしらパネル式の指名制度っぽいところがあるようなので、長年通い詰めた皇帝…

自殺の理由

霍后立五年、廢處昭臺宮。後十二歳、徙雲林館、乃自殺、葬昆吾亭東。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣霍皇后) 漢の宣帝の皇后霍氏(霍光の娘)は、霍氏の謀反によって一族が全滅すると廃位されて12年間幽閉生活の末に自殺したらしい。 12年間死な…

前漢儒者の量刑改正

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰 臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(中略)・・・至哀・平繼體、而即位日淺、聽斷尚寡、丞…

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

成紀出身の有名人

帝王世記曰「庖犧氏生於成紀。」 (『続漢書』志第二十三、郡国志五、涼州、漢陽郡、成紀、注引『帝王世記』) あの李広・李陵や李徴(トラ)なんかの隴西(漢陽)成紀の李氏の本貫である、漢陽郡成紀県は、あの「庖犧」(伏犠)が生まれた地だとされている…

敦煌郡のなりたち

又遣浮沮將軍公孫賀出九原、匈河將軍趙破奴出令居、皆二千餘里、不見虜而還。 乃分武威・酒泉地置張掖・敦煌郡、徙民以實之。 (『漢書』巻六、武帝紀、元鼎六年秋) 河西の敦煌郡あたりは、なりたちからして漢の武帝が匈奴を下すか追い払うかしたところに民…

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

ひとこと

t-s.hatenablog.com 以前の記事で謎の「黄帝調暦」なるものを奉じていたという張寿王なる者の話をしたことがある。 この女性天子がいたり暦の長さが二倍だったりするワンダラスな暦、どっかから出土するとかして全容が分かったりしないものだろうか。 どんな…

ひとこと

t-s.hatenablog.com これ書いた後に思ったが、「系統としては黄帝の末裔」「マジカル出生秘話を持つ」という点で、殷と周と漢(劉邦の母のマジカル懐妊)は共通してるんだな。 少なくとも漢代の人々は殷や周の建国神話に劉邦のそれを被せてるんだろうなあ。

部下の心境

於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待、謂項王曰「江東雖小、地方千里、衆數十萬人、亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船、漢軍至、無以渡。」項王笑曰「天之亡我、我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西、今無一人還、縱江東父兄憐而王我、我何面目見之?…

三等分の花嫁

漢宣帝世、燕代之間有三男共取一婦、生四子。及其將分、妻子而不可均、乃致爭訟。廷尉范延壽斷之曰、此非人類、當以禽獣處之。禽獣從母不從父也、請戮三男子、以児還母。 宣帝嗟歎曰、事何必古。若此、則可謂當於理而猒人情也。 延壽蓋見人事而知用刑矣、未…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

人材登用

侯霸字君房、河南密人也。族父淵、以宦者有才辯、任職元帝時、佐石顯等領中書、號曰大常侍。成帝時、任霸為太子舍人。 (『後漢書』列伝第十六、侯覇伝) へえ、後漢初期の侯覇の族父の侯淵は元帝の時の宦官、石顕の部下だったのか。 『急就』を著したという…

血筋

元年四月乙巳、侯富元年。 三年、侯富以兄子戎為楚王反、富與家屬至長安北闕自歸、不能相教、上印綬。詔復王。後以平陸侯為楚王、更封富為紅侯。 (『史記』巻十九、恵景間侯者年表、休侯劉富) 休侯劉富は甥の楚王(劉戊)が反乱したときにみずから印綬を返…

ブダペスト

太后留(劉)歆為右曹太中大夫、遷中壘校尉、羲和、京兆尹、使治明堂辟雍、封紅休侯。典儒林史卜之官、考定律暦、著三統暦譜。 (『漢書』巻三十六、劉歆伝) かの王莽の腹心劉歆は「紅休侯」に封建された。 初、休侯富既奔京師、而王戊反、富等皆坐免侯、削…

寿良

又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月) 王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。 東郡。秦置。…

共通点

漢の成帝を産んだ元后こと王氏(元帝王皇后)の出身は「魏郡元城」。 孝元傅昭儀、哀帝祖母也。父河内温人、蚤卒、母更嫁為魏郡鄭翁妻、生男惲。昭儀少為上官太后才人、自元帝為太子、得進幸。 (『漢書』巻九十七下、外戚伝、孝元傅昭儀) そのライバルとも…

幻の列侯

是歲廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。 京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。 十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不…

王莽時代の列侯

『漢書』外戚恩沢侯表などを見ていると、それまで列侯は一応地名に沿った名(「宜陵侯」「長平侯」のように)なのだが、平帝つまり王莽の時代になると急速に「扶徳侯」「広陽侯」「明統侯」といった、嘉名や何らかの意味を持たせた名の列侯が増えてきている…

ひとこと

昨日の記事で前漢の王吉が廃止を訴えた「任子」とは任官法だが、一方で『三国志』などでは「任子」を「人質」の意味で使っていることが多い。 これは用法が変わったというより、任官としての「任子」も「太守などの高官の子弟を皇帝の近くに呼び寄せ、太守が…

王氏三代

(王)吉意以為・・・(中略)・・・又言「舜・湯不用三公九卿之世而舉皋陶・伊尹、不仁者遠。今使俗吏得任子弟、率多驕驁、不通古今、至於積功治人、亡益於民、此伐檀所為作也。宜明選求賢、除任子之令。外家及故人可厚以財、不宜居位。去角抵、減樂府、省…

3つの姓

煮棗侯乗昌為奉常。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、景帝中三年) 煑棗端侯革朱 ・・・(中略)・・・ 孝景中二年侯昌嗣。二年、有罪、免。 (『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、煑棗端侯革朱) 景帝の頃、「煮棗侯」が奉常となったが、『漢書』百官公…

降嫁

(王)吉意以為「夫婦、人倫大綱、夭壽之萌也。世俗嫁娶太早、未知為人父母之道而有子、是以教化不明而民多夭。聘妻送女亡節、則貧人不及、故不舉子。又漢家列侯尚公主、諸侯則國人承翁主、使男事女、夫詘於婦、逆陰陽之位、故多女亂。古者衣服車馬貴賤有章…

二文字名禁止令

立故東平王雲太子開明為王、故桃郷頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號、守經法、不阿指從邪、右將軍孫建爪牙大臣、大鴻臚(左)咸前正議不阿、後奉節使迎中山王、及宗正劉不惡・執金吾任岑・中郎將…

二人の距離感

『漢書』高帝紀つまり高祖劉邦の本紀には、劉氏は元は魏の人間で、梁の方にいたのだという話がある。 一方、項羽は自分の領土として梁の地を併合したらしい。だから梁を根城とした彭越が項羽と戦っているのだ。 劉邦の故地と、項羽の本拠地(にしようとした…

大河郡

濟東王彭離立二十九年。彭離驕悍、昬莫私與其奴亡命少年數十人行剽、殺人取財物以為好。所殺發覺者百餘人、國皆知之、莫敢夜行。所殺者子上書告言、有司請誅、武帝弗忍、廢為庶人、徙上庸、國除、為大河郡。 (『漢書』巻四十七、文三王伝) 東平國。 故梁國…