前漢

合陽侯国と呉王国

昨日の記事で劉邦の兄劉喜(劉仲)は呉頃王とされたらしいことを書いた。 つまり彼は遡って呉王初代のような扱いになったということであるから、受け継ぐべき国も呉王国があるということになり、合陽侯国は不要である、ということになったのではないだろうか…

呉頃王

詔曰「蓋聞帝王以徳撫民、其次親親以相及也。昔堯睦九族、舜惇敘之。朕以皇帝幼年、且統國政、惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後、漢元至今、十有餘萬人、雖有王侯之屬、莫能相糾、或陷入刑罪、教訓不至之咎也。・・・(後略)・・・」 (『漢書…

劉喜の後継者

漢の高祖劉邦の兄劉喜(劉仲)は代王になったが国を失い、合陽侯となった。 合陽 高祖兄。兵初起、侍太公守豐、天下已平、以六年正月立仲為代王。高祖八年、匈奴攻代、王弃國亡、廢為合陽侯。 八年九月丙子、侯劉仲元年。 仲子濞、為呉王。 以子吳王故、尊仲…

劉沢

そういえば、高祖劉邦の親族で最終的に王になった燕王「劉沢」と同じ「劉沢」も、後の世にいたんだった。 昭帝の時に反乱者となった人物。 どうやら、以前の王などの著名人と同名になることもあり得たようだ。 皇帝と直接の先祖だけが避ける対象なのかもしれ…

劉交

前漢末期の成帝の時、会稽太守から宗正になった人物に「劉交」という名の者がいる。 高祖劉邦の弟の楚王が「劉交」なのだが、こういった人物と同姓同名でも問題無かったのだろうか?宗正劉交の方も同族だったとは思うのだが。

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

太上皇

あれ?そういえば漢の太上皇(劉邦の父)って、特に諡号は贈られてないのかな。 「初代皇帝の父」という存在は他にいないから、区別が必要ない、ということなのかもしれないし、特に諡号を贈るようなことはしていないのだ、ということなのかもしれない。 も…

ああ無常

(高后七年)夏五月辛未、詔曰「昭靈夫人、太上皇妃也。武哀侯・宣夫人、高皇帝兄姉也。號諡不稱、其議尊號。」丞相臣平等請尊昭靈夫人曰昭靈后、武哀侯曰武哀王、宣夫人曰昭哀后。 (『漢書』巻三、高后紀、高后七年) 漢の高祖劉邦の兄劉伯は「武哀王」と…

ひとこと

漢の景帝って先日話題にした皇后の兄問題でも中央突破してるし、晁錯とか周亜夫とか臣下を使い捨てにする傾向あるし、割と暴君寄りの皇帝だよな・・・。 そもそも皇太子時代に親戚を撲殺するような人物だし・・・。前漢の皇帝で人を自らの手で殺害したのが間…

外戚封建のルール2

昨日の記事だが、実際には景帝の皇后の兄王信は封侯されている。 それ以降は「皇后の父」については皇太后になる前から封建されている(王禁など)ので、王信の場合は父ではなく兄というのが反対されるポイントだった可能性もあるな。 「皇后の兄弟」は王信…

外戚封建のルール

竇太后曰「皇后兄王信可侯也。」景帝讓曰「始南皮・章武侯先帝不侯、及臣即位乃侯之。信未得封也。」竇太后曰「人主各以時行耳。自竇長君在時、竟不得侯、死後乃其子彭祖顧得侯。吾甚恨之。帝趣侯信也!」景帝曰「請得與丞相議之。」丞相議之、(周)亞夫曰…

唯徐

容城侯唯塗光為太常、徙為安定都尉。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、太始三年) 中三年十二月丁丑、侯唯徐盧元年。 建元元年、康侯綽元年。 元朔三年、侯光元年。 後二年、三月壬辰、侯光坐祠祝詛、國除。 (『史記』巻十九、恵景間侯者年表、容成) 上…

陳勝の墓守

陳勝雖已死、其所置遣侯王將相竟亡秦、由渉首事也。高祖時為陳渉置守冢三十家碭、至今血食。 (『史記』巻四十八、陳渉世家) (高祖十二年)十二月、詔曰「秦皇帝・楚隠王・魏安釐王・齊愍王・趙悼襄王皆絶亡後。其與秦始皇帝守冢二十家、楚・魏・齊各十家…

格上の理由

t-s.hatenablog.com この話だが、よくよく見ると劉邦からすると旧主と言っていい楚(陳勝だが)よりも、打倒した相手である始皇帝の方が格上になっているんだな。 というか始皇帝だけ特別扱いである。 この辺、劉邦の漢にとって本拠である関中=秦の住民たち…

ひとこと

ふと思ったが、秦の始皇帝にとって燕は自分を暗殺しようとしてきた仇敵。 その秦を地盤とする劉邦の漢からしても、もともとは秦の人間が多かっただろうから、全体的に燕は印象が悪い国だったのかもしれない。

待遇の違い2

(高祖十二年)十二月、詔曰「秦皇帝・楚隠王・魏安釐王・齊愍王・趙悼襄王皆絶亡後。其與秦始皇帝守冢二十家、楚・魏・齊各十家、趙及魏公子亡忌各五家、令視其冢、復亡與它事。」 (『漢書』巻一下、高帝紀下、高祖十二年) そういや、昨日の話だが、燕王…

待遇の違い

(高祖十二年)十二月、詔曰「秦皇帝・楚隠王・魏安釐王・齊愍王・趙悼襄王皆絶亡後。其與秦始皇帝守冢二十家、楚・魏・齊各十家、趙及魏公子亡忌各五家、令視其冢、復亡與它事。」 (『漢書』巻一下、高帝紀下、高祖十二年) 漢の高祖劉邦は断絶した秦や戦…

なんとなく思ったこと

前漢の皇帝は皇太子がそのまま皇帝になるケースが多い(廃嫡寸前の事例は複数あるが)のだが、「生まれた時点で皇帝の後継候補筆頭」みたいなのは成帝くらいしかいない。 景帝や武帝もそもそも長子ではないし、元帝は生まれた時点では父がまだ皇帝ではない。…

ひとこと

大したことじゃないんだが、沛郡(国)って九江郡と隣接してるんだな。っていうか当初は沛郡所属だった県が後漢ではいくつか九江郡に移管してもいる。 今まで意識してなかった。

先進事例

王莽は漢の元帝に「高宗」、成帝に「統宗」、平帝に「元宗」という廟号を贈っている。 これにより、前漢の皇帝は特別な廟号を持たない者の方が少ない状態になっている。 後の時代に皇帝廟に残らず廟号が贈られるようになるのは、王莽が嚆矢だと言えるのでは…

生まれる前から滅んでいた

靈帝熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺曰「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年亦當復見天事恒象、此其徴也。」 (『宋書』巻二十七、符瑞志上) 漢元・成之世、先識之士有言曰「魏年有和、當有開石於西三千餘里、繫五馬、文曰討曹…

違和感

太史公曰、夏之政忠。忠之敝、小人以野、故殷人承之以敬。敬之敝、小人以鬼、故周人承之以文。文之敝、小人以僿、故救僿莫若以忠。三王之道若循環、終而復始。周秦之閒、可謂文敝矣。秦政不改、反酷刑法、豈不繆乎?故漢興、承敝易變、使人不倦,得天統矣。…

微言

劉備って伝の冒頭で「儒学学んでたけど不真面目でイッヌやウッマが好きでした」って書かれてるけど、これは漢王朝をある程度知っている人からすれば*1「中興の祖と言える漢の宣帝と似たような経歴じゃないか!」って思わせる内容なんだと思う。 明言せずとも…

新たな諡法

漢王朝の初代皇帝劉邦は「高皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「高」は従来の諡法になかった字なのだとか。 また、孫呉の初代皇帝孫権は「大皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「大」もそれまでの諡法では見かけなかった字であるように思われる。…

ひとこと(奉常)

漢の九卿の一つに「太常」というのがあるが、もとは「奉常」であったとされる。 「奉常」が「太常」になった真相って、「奉」がよく「泰」に間違われて半ば定着したところに、更に「泰」が「太」に通じる、ということで「奉常」→「泰常」→「太常」に変わった…

ひとこと

中国の「金氏」というと漢武の時の「金日磾」(匈奴だった)が有名だが、ほかにも武帝の母の最初の夫である「金王孫」というのもいる。 つまり「金日磾」の一族ではない「金氏」もいたことになる。 有名になった「金日磾」系の「金氏」だと自称していただけ…

曹氏の由来

そういえば、この話の後にふと思ったが、劉邦の先祖は戦国魏の出だとされているんだった。 その劉氏と同郷の曹氏も同様に、「邾に封建された黄帝の末裔」ではなく戦国魏と関係が深い家なのだ、というのが高堂隆の主張だったりして。 というか、そもそも曹参…

ひとこと(昨日の続き)

そういえば、劉邦の最後の戦いで、死去の原因とも言う英布(黥布)との戦いの場も実は沛のあたりなんだった。 劉邦は挙兵も最大のライバル項羽との決戦も最後の戦いも、全部生まれ故郷の沛近辺だったことになるのか?

ひとこと

少し思ったが、劉邦の出身の沛、項羽の本拠となった彭城、項羽と劉邦の決戦の地となった垓下、これらは驚くほど近くにあるんだな。 また項羽時代にはこのあたりは全て項羽の支配下になっていたはずなので、項羽は5年もたたないうちに2度も本拠に攻め込まれ…

項羽の計算

昨日の魏三分の話だけど、項羽が取る範囲と元の魏王である西魏王魏豹の間に、元は趙将という殷王司馬卬を挟んでいるの、なかなか計算された配置かもしれない。 魏豹が失地回復を図ろうと項羽を攻撃しようとしても、間に殷王司馬卬がいるから直接攻撃はしにく…