上洛

初、袁紹以甥高幹領并州牧、公之拔鄴、幹降、遂以為刺史。
幹聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口。遣樂進・李典撃之、幹還守壺關城。十一年春正月、公征幹。幹聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于、單于不受。公圍壺關三月、拔之。幹遂走荊州、上洛都尉王琰捕斬之。
(『三国志武帝紀)

袁紹の縁者である并州刺史高幹は曹操に降伏したが、曹操の烏丸征伐の際に反乱した。
この反乱は鎮圧され、高幹は荊州へ逃げるところを上洛都尉王琰に捕らえられたという。


この「上洛都尉」だが、これも郡都尉の一つなのだろうか。
以前も書いたように、光武帝以来、郡には都尉は置かれないのが原則であったが、後漢末が近づくと京兆虎牙都尉など本来は内地であった地域でも都尉が復活している。
これも同様のものだろうか。

「上洛」は『続漢書』郡国志一に見える京兆尹領内にある県「上雒」だろう。
高幹は并州上党郡から随分遠くまで来たものだが、この上雒(上洛)県は京兆尹の南方、荊州との境近くにあるのだ。
曹操勢力の中心地と思われる河南郡や豫州を経由せずに荊州に直接落ち延びることが出来るルート上にあるということだ。

上洛都尉は荊州と関中諸将の連携を絶つために曹操が置いたのだろうか。
それとも、この地に割拠する勢力を追認する格好で官位を与えたものだろうか。