後漢末の洛陽と関中

id:mujin氏が既に指摘していることが中心ですが、あえてネタにさせてもらう。

時關中諸將馬騰韓遂等、各擁彊兵相與争。太祖方有事山東、以關右為憂。乃表繇以侍中守司隸校尉、持節督關中諸軍、委之以後事、特使不拘科制。
繇至長安、移書騰・遂等、為陳禍福、騰・遂各遣子入侍。
(『三国志鍾繇伝)

後漢末の鍾繇曹操によって司隸校尉に任命され、馬騰韓遂をはじめとする関中諸将を統率する任務を与えられた。
おそらく献帝曹操の保護下に入った建安元年前後のことだろう。
彼は長安へ行き、馬騰韓遂を説得して人質を出させることに成功した。

繇時治在洛陽・・・(略)
(『三国志鍾繇伝注引『魏略』)

だがその後、高幹の反乱と同時期だから建安十年前後と思われるが、司隸校尉鍾繇の治所は洛陽にあった。函谷関さえも越えていないのである。最初は長安に居たことを考えると、かなりの後退である。

時四方大有還民、關中諸將多引為部曲、(衛)覬書與荀紣曰「關中膏腴之地、頃遭荒亂、人民流入荊州者十萬餘家、聞本土安寧、皆企望思歸。而歸者無以自業、諸將各競招懐、以為部曲。郡縣貧弱、不能與争、兵家遂彊。一旦變動、必有後憂。夫鹽、國之大寶也、自亂來散放、宜如舊置使者監賣、以其直益巿犁牛。若有歸民、以供給之。勤耕積粟、以豐殖關中。遠民聞之、必日夜競還。又使司隸校尉留治關中以為之主、則諸將日削、官民日盛、此彊本弱敵之利也」紣以白太祖。太祖從之、始遣謁者僕射監鹽官、司隸校尉治弘農。關中服從、乃白召覬還、稍遷尚書
(『三国志』衛覬伝)

そして、益州に入ろうとして長安で足止めを食った衛覬の進言により、司隸校尉は治所を函谷関の西側にある弘農へと移すことになった。
ここを見ても、司隸校尉は明らかに関中に居ない。つまり洛陽に居るのだろう。

おそらくだが、袁氏の脅威が消えて荊州益州そして関中に目を向ける余裕が出来てはじめて、司隸校尉の治所を西に移すことが出来たのではないだろうか。


では、最初の長安行きはなんだったのか。いつ、どうして戻ってきたのか。
それについて、少々気になった文がある。

自天子西遷、洛陽人民單盡、繇徙關中民、又招納亡叛以充之、數年間民戸稍實。
(『三国志鍾繇伝)

衛固の反乱に続いて載っている文であるが、司隸校尉鍾繇は関中の民を洛陽に移住させたというのである。
三国志』の文の順番では衛固の反乱後に行ったようにも見えるが、洛陽の荒廃は就任当初からの懸案事項なので、もしかするとこれは就任直後から実行した政策なのではないだろうか。
つまり、司隸校尉鍾繇が就任直後に長安に行ったのは、韓遂らの説得とこの強制移住のためだったのではないだろうか。
つまり洛陽復興が主目的なので関中に留まる必然性も無かったのではないか。


しかし、そうだとすれば司隸校尉鍾繇は洛陽復興と引き換えに関中から民を引き抜いて行ったことになる。
関中は確かに後漢末に荒廃したが、その一因は洛陽へ民が引き抜かれたからなのではないかと思ってしまう。
関中諸将の曹操に対する疑念や、その後も長く残っていたように思われる魏王朝への不信感の一端は、実はこの洛陽への強制移住にあるのではないだろうか。