ひとこと(鄧艾の罪と罰)

しかし、蜀漢落としてからの鄧艾について考えてみると、対呉戦略は完全に独断専行であるから、運よく実行されて運よく成功してしまったら、これはもう司馬氏ではなく、もちろん魏でもなく、鄧艾単独の功績ということになってしまうんじゃないだろうか。 下手…

ひとこと(蜀漢と荊州)

蜀漢を占領した鄧艾は、そのまま呉を攻める方針を独自に打ち出していたようである。 この時、呉を攻めるということは、まず蜀漢から失われた荊州南部を攻めるということである。 つまり蜀漢の遺民にとっては因縁の地、いわば復讐、敵討ちであり、きっとこの…

ひとこと(蜀の遺臣)

先日の話の後で思ったんだが、鄧艾は蜀漢の大臣・将たちにも出身者が少なくない義陽の出身であり、蜀漢の人々としては案外シンパシーを感じやすい関係であったのかもしれない。 なので、鄧艾が明らかに独断専行の色を強め、劉禅を祭り上げて呉の降伏を誘うと…

義陽の義陽による義陽のための記事

漢晉春秋曰・・・(中略)・・・(樊)建稽首曰「臣竊聞天下之論、皆謂鄧艾見枉、陛下知而不理、此豈馮唐之所謂『雖得頗・牧而不能用』者乎!」帝笑曰「吾方欲明之、卿言起我意。」於是發詔治艾焉。 (『三国志』巻三十五、諸葛亮伝注引『漢晋春秋』) 蜀漢…

息子(畜)の想い

昨日の話の続きになるけど、鍾繇の方が司馬懿より先に太尉や太傅になっているんだった。 司隷校尉として功績を立てたのも、司馬懿が本格的に曹操の元で頭角を現すよりずっと先と言っていい。 こういったところから、鍾繇の息子鍾会からしたら、司馬懿の息子…

司馬氏か鍾氏かわからない

父は要職を歴任し、三公である太尉を経てその上の太傅にまで至った。 兄も父に負けずに要職を歴任し、弟も負けじと要職に就いて最終的には蜀を征服することとなった。 あれ?思った以上に司馬氏なのか鍾氏なのかわからなくなったぞ?

ひとこと(兄の実力)

今まで正直言って鍾会の方に目が行ってて、兄の鍾毓も諸葛誕の反乱後の青州刺史となり、都督徐州諸軍事に転任し、最終的には都督荊州に至っていた。 これ、どこも係争の地であることを考えるとなかなかの要職ではないか。 都督荊州といえば後に晋皇帝と関係…

嫌われ師纂の一生

帝患之、使主簿師纂為(鄧)艾司馬以喻之、艾乃奉命。 (『晋書』巻二、文帝紀) 鄧艾の蜀攻めの時の司馬師纂は鄧艾の子飼いではなく、司馬昭から蜀攻めに同意させるために送り込まれた人物なんだな。 司馬昭による「お目付け役」であるとも言える。 鍾會・…

ひとこと(生きて戻れぬ)

鄧艾は諸葛瞻を降伏させようとして「お前も琅邪王にならないか?」と言ってみたり、司馬昭に対して劉禅を扶風王にしようと言ってみたりしたという。 この時期において宗室でもない人間の「王」というのは本来ありえない存在(孫権は曹丕から呉王に封建されて…

晋における文欽の子

晉諸公贊曰、(文)俶後為將軍、破涼州虜、名聞天下。太康中為東夷校尉・假節。當之職、入辭武帝、帝見而惡之、託以他事免俶官。東安公繇、諸葛誕外孫、欲殺俶、因誅楊駿、誣俶謀逆、遂夷三族。 (『三国志』巻二十九、諸葛誕伝注引『晋諸公賛』) 文欽の息…

晋における文欽評

『三国志』毌丘倹伝本文でも「揚州刺史前將軍文欽、曹爽之邑人也、驍果麤猛、數有戰功、好增虜獲、以徼寵賞、多不見許、怨恨日甚。」と悪評が堂々と記される文欽。 まあ、実際にそういう側面があったんだろうとも思うが、彼とその子文俶(文鴦)が諸葛誕敗北…

曹彰の後継ぎと曹植の後継ぎ

(曹)楷、泰始初為崇化少府、見百官名。 (『三国志』巻十九、任城威王彰伝注) (曹)志別傳曰、志字允恭、好學有才行。晉武帝為中撫軍、迎常道郷公于鄴、志夜與帝相見、帝與語、從暮至旦、甚器之。及受禪、改封鄄城公。發詔以志為樂平太守、歴章武・趙郡…

魏公国と晋公国の違い

昨日の補足だけど、そもそも晋公国の場合、魏になってから郡が細分化されていたので、後漢の単位なら10郡分にも満たないんだよな。 そのうえ、成立の経緯から考えるとどこまでまともな郡として機能していたか怪しく感じるような新興郡まで含まれてるし。 …

魏公国の3割

司馬昭の晋公国は、「太原・上党・西河・楽平・新興・雁門・河東・平陽・弘農・馮翊」の10郡からなる。 『続漢書』郡国志によれば、各郡の戸数は以下の通り。 太原:30,902戸上党:26,222戸西河:5,698戸楽平:上党郡から分離新興:15…

ひとこと(晋国と魏国)

そういえば、司馬昭の晋国って、太原・上党・西河・楽平・新興・雁門・河東・平陽・弘農・馮翊で10郡なんだな。 同じ10郡でも曹氏の魏国とは人口の稠密度がかなり違うような気がするな・・・。

三公荀彧<完結編>

魏氏春秋曰、太祖饋(荀)彧食、發之乃空器也、於是飲藥而卒。咸熙二年、贈彧太尉。 (『三国志』巻十、荀彧伝注引『魏氏春秋』) ふと思ったが、先日の記事で記した荀彧が曹操より三公に推薦されたという件、荀彧が司馬氏の代になって太尉を追贈されたこと…

王祥理論の淵源

t-s.hatenablog.com t-s.hatenablog.com そういえば、華歆が曹丕即位時に不満げな顔をしていたために不興を買ったという件と、王祥が司馬炎に対して敢えて拝礼を行わなかった件は、ある意味では同じような意味合いなんだろうな。 あと司馬孚などが高貴郷公の…

王祥の行動原理

王祥や司馬孚は曹魏の皇帝高貴郷公の死を悼んだというが、これをもって彼らが魏に忠誠を誓い晋に否定的だったと考えるのは早計だろうと思う。 この時の彼らのような「批判的にも見える言動を容れる最高権力者司馬昭」という姿は、皇帝を死なせたという失点を…

ひとこと

親孝行モンスターみたいな王祥がずっと仕官しなかった理由も親関係であるんじゃないかという気付き。

ひとこと(王祥と司馬氏)

王祥の官歴を見ても、どこで司馬氏と繋がっていったのかイマイチわからないんだよな・・・*1。 やっぱ、司馬氏やその一党とは「曹氏を内心快く思ってない」という一点が共通項だったんじゃ・・・? *1:私以外は分かってるのかもしれないけど。

王祥の気持ち

t-s.hatenablog.com 魚取り以外では晋臣として有名な王祥だが、世代としてはむしろ魏の時代の人間と言える。 だが彼はどうやら曹操の時代には一切出仕せず、魏文帝の時代になってから初めて徐州刺史の招きに応じたらしい。 漢王朝に仕えたくないというなら、…

舞陽成侯

そういえば、晋は司馬懿の父の司馬防に皇帝号を追尊してないんだな。 「舞陽成侯」は追尊している(『晋書』宣帝紀)が、それ以上の王などの号も追尊していないようだ。 曹魏は初代皇帝の3世代前まで皇帝号を追尊しているので、初代皇帝の3世代前である司…

素の劉禅

ふと思ったが、最近話題にした劉禅が安楽公の後継者に「淫乱無道」の人物を選んだ件って、劉禅からすると諸葛亮とか黄晧とかといった周囲の声に指示や左右されることなく、自分の気持ちと判断によって選択できた「領主としての初めての決定」だったのかもし…

ひとこと

昨日の話だが、劉禅は反対を押し切ってまで、「淫乱無道」とまで言われるような人物を敢えて後継者に選んだってことなんだよな・・・。 王朝全体の皇太子と違って選んだ劉禅自身の評判と祭祀の存続くらいしか問題はないとは言えるが、それにしたってどういう…

蜀漢3代目(仮)と安楽公2代目の父

t-s.hatenablog.com t-s.hatenablog.com 劉禅の後継者は、皇太子も安楽公を継いだ子も、どちらもガチの諫言を受けるタイプだったらしい。 皇太子の方は実際に後を継いでいないからまだ分からないと言えないこともないが、まあ何というか劉禅は子の教育や後継…

はい出てくる過去

そういえば、王朗・王粛の出自である東海郡は曹操の殺戮行で被害を受けた地域の一つだな。 つまり司馬昭の正妻王氏は「曹氏の過去の所業に含むところがあったかもしれない一族」ということだ。 荀彧の子孫たちや王祥、鄧艾などもそうだろう。司馬炎の正妻楊…

皇帝号の閉店セール

曹魏は初代皇帝曹丕の3代前の曹騰まで皇帝号を贈っている。 晋は初代皇帝司馬炎の2代前の司馬懿まで皇帝号を贈っている。 これ、晋の時は「魏はやりすぎだったな・・・」って思われてて自重したんじゃ・・・。 あと、初代皇帝曹丕との血縁(少なくとも父系…

歴代諸侯王制度

後漢の諸侯王は一応は郡と同等(実際には郡未満だが)の領地を支配した。ただし一部の例外を除き仕官はできなかったと思われる。 魏の諸侯王は後漢よりも明らかに狭い領地しか与えられず、かといって仕官もできなかった。司馬氏に軟禁状態にされる前から出来…

生まれる前から滅んでいた

靈帝熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺曰「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年亦當復見天事恒象、此其徴也。」 (『宋書』巻二十七、符瑞志上) 漢元・成之世、先識之士有言曰「魏年有和、當有開石於西三千餘里、繫五馬、文曰討曹…

孫和と曹操

ふと思ったのだが、曹魏または晋で作られた(陳寿『三国志』以前の)曹魏の史書では、魏武曹操は皇帝扱いされていたのではなかろうか? 呉の孫晧はそれを理解していて、「えっ、何で?生前皇帝になってない曹操をみんな皇帝扱いしてるのに、俺の父は生前皇太…