消された経歴

執金吾滕循為司空、未拝、轉鎮南將軍、假節領廣州牧、率萬人從東道討(郭)馬、與族遇于始興、未得前。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀三年八月) 滕脩字顯先、南陽西鄂人也。仕呉為將帥、封西鄂侯。 孫晧時、代熊睦為廣州刺史、甚有威惠。徴為執金吾。…

呉の太尉2

昨日の記事で、「呉に太尉がいたんじゃないか、たぶん」みたいな事を書いた。 (寶鼎)三年春二月、以左右御史大夫丁固・孟仁為司徒・司空。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝) それについて、よく考えてみると呉末(孫晧の時)には「司徒」と「司空」がいたこ…

呉の太尉

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。年八歳、詣呉太尉戴昌、昌贈詩以觀之、彦於坐答之、辭甚慷慨。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、盛彦) 昨日紹介したママがカブトムシ食べた盛彦の記事の中では、「呉太尉戴昌」なる人物が登場する。 戴若思、廣陵人也、名犯高…

メイドさんの手作りご飯

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。・・・(中略)・・・母王氏因疾失明、彦毎言及、未嘗不流涕。於是不應辟召、躬自侍養、母食必自哺之。母既疾久、至于婢使數見捶撻。婢忿恨、伺彦暫行、取蠐螬炙飴之。母食以為美、然疑是異物、密藏以示彦。彦見之、抱母慟…

諸侯王軟禁の理由

悉録魏諸王公置于鄴、命有司監察、不得交關 (『晋書』巻一、宣帝紀) 司馬懿は王淩の反乱を防いだ後、魏の諸侯王たちをみな鄴に置いて軟禁状態とした。 これは司馬懿が魏からの簒奪を図らんとしての行為に思えるし、確かにそういうつもりだったかもしれない…

本当の『益部耆旧伝』

そういえば『益部耆旧伝』、『隋書』経籍志ではどうなってるのかな・・・? 益部耆舊傳十四卷、陳長壽撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、雑伝) あれ・・・?「陳寿」でも「陳術」でもないぞ・・・? どうやら、『益部耆旧伝』の本当の著者は「陳長寿…

一つの『益部耆旧伝』

昨日の「益部耆旧伝」だが・・・。 (陳)壽又撰古國志五十篇・益都耆舊傳十篇、餘文章傳於世。 (『晋書』巻八十二、陳寿伝) 実は『晋書』によると陳寿が著したというのは「益部」ではなく「益都」となっているようなので、そもそも昨日の記事にある「陳術…

二つの『益部耆旧伝』

『益部耆旧伝』というと、かの「陳寿」が著したことで有名。 時又有漢中陳術、字申伯、亦博學多聞、著釋問七篇、益部耆舊傳及志、位歴三郡太守。 (『三国志』巻四十二、李譔伝) だが、どうやら陳寿より先に漢中の人「陳術」が同名の『益部耆旧伝』を著して…

二つの氏

劉向別録曰「齊使鄒衍過趙平原君、見公孫龍及其徒綦毋子之屬、論『白馬非馬』之辯、以問鄒子。 (『史記』巻七十六、平原君虞卿列伝注引劉向『別録』) 昨日の「綦毋」氏については、どうやら戦国時代に公孫竜子の弟子にもいたらしい。 割と古くからある氏だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

相似形

後漢献帝が曹操暗殺を企てた時は、実行犯董承らは殺された。 同じように、曹魏高貴郷公が司馬昭暗殺を企てた時は、実行犯でもある高貴郷公は殺された。 「皇帝による権臣暗殺計画に対して実行犯が殺された」という形で見ると、高貴郷公は先祖曹操がやったこ…

誰もが知っている

t-s.hatenablog.com 曹魏の最後の皇帝は陳寿『三国志』で「陳留王」と呼ばれているが、これは晋王司馬炎への禅譲後に晋皇帝より封建されたときの号である。 しかし、上記の以前の記事にあるように、陳寿『三国志』では魏帝だった曹奐が陳留王になったという…

父の出身

そういえば昨日の記事なんだけど、雁門の人范隆の父とされる范方は雁門太守だったとされている。 ただ、一般にこのあたりの時代は自分の出身郡の太守にはならないのが普通だったらしい。 范隆の父とされる范方が雁門郡の人なら雁門太守になるのは(ありえな…

出生秘話

范隆字玄嵩、雁門人。父方、魏雁門太守。隆在孕十五月、生而父亡。年四歳又喪母、哀號之聲、感慟行路。單孤無緦功之親、疏族范廣愍而養之、迎歸教書、為立祠堂。隆好學修謹、奉廣如父。博通經籍、無所不覽、著春秋三傳、撰三禮吉凶宗紀、甚有條義。 (『晋書…

思い付き

「ほら!すぐ帝位が欲しいなら殺してみろよ!その気になれば一瞬だろ!ほら!やってみろって!ただ初代皇帝がそんなことする王朝は碌なことにはならないぞ!ほらやってみろって!」みたいな心境であったという点では、建安末期の献帝と挙兵の時の高貴郷公は…

2つの長楽

魏書曰、(黄初四年)十二月丙寅、賜山陽公夫人湯沐邑、公女曼為長樂郡公主、食邑各五百戸。 (『三国志』巻二、文帝紀注引『魏書』) どうやら魏王朝の早い段階で「長楽郡」が生まれていたようだ。『晋書』でもしばしば「長楽太守」の存在が記されている。 …

500年前の君から

昨日の話だが、呉の孫権は「だいたい500年だろ」と始皇帝の時の500年後を自分の時代と言い張り、東晋の人である孫盛は「どうかんがえてもこっちが500年だろ」と自分の時代と言い張る。 まあどっちもどっち感が無くもない。 あと、なんなら同じ呉で…

500年後の君へ

始秦時望氣者云「五百年後金陵有天子氣」、故始皇東遊以厭之、改其地曰秣陵、塹北山以絶其勢。 及孫權之稱號、自謂當之。 孫盛以為始皇逮于孫氏四百三十七載、考其暦數、猶為未及。元帝之渡江也、乃五百二十六年、真人之應在于此矣。 (『晋書』巻六、元帝紀…

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

メイドの土産

蜀漢時代の陳寿が父の服喪中に婢に薬を作らせていたことを見られて評判を落とした、という話がある(『晋書』陳寿伝)。 これ、「女性を近づけるなんてもってのほかのはずの服喪中に、(仮にいかがわしいことはしなかったとしても)婢という女性を近づけてい…

陳留王断絶

(咸和元年)冬十月、封魏武帝玄孫曹勱為陳留王、以紹魏。 (『晋書』巻七、成帝紀、咸和元年十月) 東晋においては、元帝から3代目の成帝の時になって魏武帝の玄孫曹勱なる者が魏を継ぐものとして陳留王にされたという。 この封建が普通の相続によるものな…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…

孫晧の王

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽・東平王。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (鳳凰二年)秋九月、改封淮陽為魯、東平為齊、又封陳留・章陵等九王、凡十一王、王給三千兵、大赦。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (天紀)二年秋七月…

ひとこと

孫晧は陳留王を立てているのか。 名前だけのことではあるが、晋における陳留王=かつての魏帝の存在を否定していたわけか。

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

降伏後の待遇

そういえば、呉の孫晧が晋に降伏した時に与えられた「帰命侯」は領土の戸数や封建された場所の記載がないので、決められた領土を持たない侯、つまり五等爵の侯ではなく名号侯じゃないかと思う。 また、少なくとも『三国志』やその注では死後に諡号を贈られた…

前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月) 丁卯、遣…

気が付いたら陳留王

十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。 (『三国志』巻四、陳留王紀、咸熙二年) 『三国志』陳留王紀を読む限り、曹魏の最…

魏呉皇帝の諡号

昨日の話から微妙に続くが、曹魏は「武皇帝」、「文皇帝」、「明皇帝」、「元皇帝」と皇帝の諡号は一文字で統一されていたようだ。 呉も「大皇帝」と「景皇帝」なので一文字統一だったと思われるが、実は孫和が「昭献皇帝」とされていた時期があったらしいの…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…