皇帝号の閉店セール

曹魏は初代皇帝曹丕の3代前の曹騰まで皇帝号を贈っている。 晋は初代皇帝司馬炎の2代前の司馬懿まで皇帝号を贈っている。 これ、晋の時は「魏はやりすぎだったな・・・」って思われてて自重したんじゃ・・・。 あと、初代皇帝曹丕との血縁(少なくとも父系…

歴代諸侯王制度

後漢の諸侯王は一応は郡と同等(実際には郡未満だが)の領地を支配した。ただし一部の例外を除き仕官はできなかったと思われる。 魏の諸侯王は後漢よりも明らかに狭い領地しか与えられず、かといって仕官もできなかった。司馬氏に軟禁状態にされる前から出来…

生まれる前から滅んでいた

靈帝熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺曰「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年亦當復見天事恒象、此其徴也。」 (『宋書』巻二十七、符瑞志上) 漢元・成之世、先識之士有言曰「魏年有和、當有開石於西三千餘里、繫五馬、文曰討曹…

孫和と曹操

ふと思ったのだが、曹魏または晋で作られた(陳寿『三国志』以前の)曹魏の史書では、魏武曹操は皇帝扱いされていたのではなかろうか? 呉の孫晧はそれを理解していて、「えっ、何で?生前皇帝になってない曹操をみんな皇帝扱いしてるのに、俺の父は生前皇太…

左将軍仲間

袁術、劉備、司馬睿は「左将軍を経験して皇帝になった」仲間。 左将軍は皇帝へのステップ説。

ひとこと

もしかして陳寿『三国志』本文内で陳寿自身の上奏を(おそらく)そのまま収録してるのって諸葛亮伝の「諸葛氏集目録」だけだったりする? 他にも同じような体裁のとこあったかな・・・?

忠武侯

諸葛亮の諡号は「忠武侯」だが、司馬師の諡号も当初は「忠武侯」だったんだな。 敢えて諸葛亮のそれを意識した可能性もあるだろうか。 諸葛亮は絶大な権力を持ちながら簒奪などの意思は示さなかった人物なので、司馬氏も同様なのだ、というメッセージを発信…

太叔

東平太叔廣樞機清辯、廣談、(摯)虞不能對。虞筆、廣不能答。更相嗤笑、紛然於世云。 (『晋書』巻五十一、摯虞伝) 「太叔」という姓があったらしい。 『隋書』経籍志一に「毛詩譜二卷、太叔求及劉炫注」というのもあるので、これも同じ姓なのだろう。たぶ…

反対の理由2

荀彧の反対について考えるといつも思うのだが、数県分の戸数だったとはいえ名目上は県侯だった曹操がいきなり10郡を領土とするというのは数足飛びと言うほか無く、荀彧のように懸念を表するのも無理からぬことではないだろうか。 これだけの領土や戸数を一…

綦毋氏

其國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。 (『晋書』巻九十七、北狄伝) 交阯刺史上虞綦毋俊 (『三国志』巻五十七、虞翻伝注引『会稽典録』) 上記『晋書』では匈奴の氏として「綦毋氏」というのがいたことになっているが、下記『会稽典録』によれば呉にお…

ひとこと(陳寿)

陳寿って蜀漢時代に父の喪中の件で地位を失ったりしてたらしく、それを拾い上げたのが晋の張華だったわけだから、「蜀漢」や地元益州全体に対してあまり良い思いを持っていないという可能性あるよな・・・。 それでも地元の偉人や知り合いに対しては好意を持…

ひとこと

親族に出来るだけ権力や兵を持たせるようにする。 兄弟間の秩序を重んじ、長子相続を徹底しようとする(長子がアカンってみんなが言っていても)。 できるだけ服喪を徹底しようとする。 これ、西晋の司馬氏が心がけていたことと思うんだが、これらはどれもこ…

司馬孚、服喪を止める

t-s.hatenablog.com 司馬懿らの晋の司馬氏は代々親の服喪ガチ勢だったのだとか。 魏武帝崩、太子號哭過甚、(司馬)孚諫曰「大行晏駕、天下恃殿下為命。當上為宗廟、下為萬國、奈何效匹夫之孝乎!」太子良久乃止曰「卿言是也。」時羣臣初聞帝崩、相聚號哭、…

地産地消

(泰始)五年春正月癸巳、申戒郡國計吏、守相令長務盡地利、禁游食商販。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始五年) 晋武帝のこの命令は、太守や県令にそれぞれの土地の産物をことごとく活用するようにし、交易により他の地域の物産を消費することを禁じる、とい…

罪の理由

楚國先賢傳曰、(韓)邦字長林。少有才學。晉武帝時為野王令、有稱績。為新城太守、坐舉野王故吏為新城計吏、武帝大怒、遂殺邦。暨次子繇、高陽太守。繇子洪、侍御史。洪子壽、字徳貞。 (『三国志』巻二十四、韓暨伝注引『楚国先賢伝』) 韓暨の孫にあたる…

元皇帝の処遇

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年) 又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戸萬、地方百里、為定安公國。…

ひとこと

與討呉護軍張翰・揚州刺史周浚成陳相對。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝注引干寶『晉紀』) 張翰字季鷹、呉郡呉人也。父儼、呉大鴻臚。翰有清才、善屬文、而縱任不拘、時人號為「江東歩兵」。 (『晋書』巻九十二、張翰伝) 呉が滅ぼされる時の晋の討呉護軍…

消された経歴

執金吾滕循為司空、未拝、轉鎮南將軍、假節領廣州牧、率萬人從東道討(郭)馬、與族遇于始興、未得前。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀三年八月) 滕脩字顯先、南陽西鄂人也。仕呉為將帥、封西鄂侯。 孫晧時、代熊睦為廣州刺史、甚有威惠。徴為執金吾。…

呉の太尉2

昨日の記事で、「呉に太尉がいたんじゃないか、たぶん」みたいな事を書いた。 (寶鼎)三年春二月、以左右御史大夫丁固・孟仁為司徒・司空。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝) それについて、よく考えてみると呉末(孫晧の時)には「司徒」と「司空」がいたこ…

呉の太尉

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。年八歳、詣呉太尉戴昌、昌贈詩以觀之、彦於坐答之、辭甚慷慨。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、盛彦) 昨日紹介したママがカブトムシ食べた盛彦の記事の中では、「呉太尉戴昌」なる人物が登場する。 戴若思、廣陵人也、名犯高…

メイドさんの手作りご飯

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。・・・(中略)・・・母王氏因疾失明、彦毎言及、未嘗不流涕。於是不應辟召、躬自侍養、母食必自哺之。母既疾久、至于婢使數見捶撻。婢忿恨、伺彦暫行、取蠐螬炙飴之。母食以為美、然疑是異物、密藏以示彦。彦見之、抱母慟…

諸侯王軟禁の理由

悉録魏諸王公置于鄴、命有司監察、不得交關 (『晋書』巻一、宣帝紀) 司馬懿は王淩の反乱を防いだ後、魏の諸侯王たちをみな鄴に置いて軟禁状態とした。 これは司馬懿が魏からの簒奪を図らんとしての行為に思えるし、確かにそういうつもりだったかもしれない…

本当の『益部耆旧伝』

そういえば『益部耆旧伝』、『隋書』経籍志ではどうなってるのかな・・・? 益部耆舊傳十四卷、陳長壽撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、雑伝) あれ・・・?「陳寿」でも「陳術」でもないぞ・・・? どうやら、『益部耆旧伝』の本当の著者は「陳長寿…

一つの『益部耆旧伝』

昨日の「益部耆旧伝」だが・・・。 (陳)壽又撰古國志五十篇・益都耆舊傳十篇、餘文章傳於世。 (『晋書』巻八十二、陳寿伝) 実は『晋書』によると陳寿が著したというのは「益部」ではなく「益都」となっているようなので、そもそも昨日の記事にある「陳術…

二つの『益部耆旧伝』

『益部耆旧伝』というと、かの「陳寿」が著したことで有名。 時又有漢中陳術、字申伯、亦博學多聞、著釋問七篇、益部耆舊傳及志、位歴三郡太守。 (『三国志』巻四十二、李譔伝) だが、どうやら陳寿より先に漢中の人「陳術」が同名の『益部耆旧伝』を著して…

二つの氏

劉向別録曰「齊使鄒衍過趙平原君、見公孫龍及其徒綦毋子之屬、論『白馬非馬』之辯、以問鄒子。 (『史記』巻七十六、平原君虞卿列伝注引劉向『別録』) 昨日の「綦毋」氏については、どうやら戦国時代に公孫竜子の弟子にもいたらしい。 割と古くからある氏だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

相似形

後漢献帝が曹操暗殺を企てた時は、実行犯董承らは殺された。 同じように、曹魏高貴郷公が司馬昭暗殺を企てた時は、実行犯でもある高貴郷公は殺された。 「皇帝による権臣暗殺計画に対して実行犯が殺された」という形で見ると、高貴郷公は先祖曹操がやったこ…

誰もが知っている

t-s.hatenablog.com 曹魏の最後の皇帝は陳寿『三国志』で「陳留王」と呼ばれているが、これは晋王司馬炎への禅譲後に晋皇帝より封建されたときの号である。 しかし、上記の以前の記事にあるように、陳寿『三国志』では魏帝だった曹奐が陳留王になったという…

父の出身

そういえば昨日の記事なんだけど、雁門の人范隆の父とされる范方は雁門太守だったとされている。 ただ、一般にこのあたりの時代は自分の出身郡の太守にはならないのが普通だったらしい。 范隆の父とされる范方が雁門郡の人なら雁門太守になるのは(ありえな…