父の出身

そういえば昨日の記事なんだけど、雁門の人范隆の父とされる范方は雁門太守だったとされている。 ただ、一般にこのあたりの時代は自分の出身郡の太守にはならないのが普通だったらしい。 范隆の父とされる范方が雁門郡の人なら雁門太守になるのは(ありえな…

出生秘話

范隆字玄嵩、雁門人。父方、魏雁門太守。隆在孕十五月、生而父亡。年四歳又喪母、哀號之聲、感慟行路。單孤無緦功之親、疏族范廣愍而養之、迎歸教書、為立祠堂。隆好學修謹、奉廣如父。博通經籍、無所不覽、著春秋三傳、撰三禮吉凶宗紀、甚有條義。 (『晋書…

思い付き

「ほら!すぐ帝位が欲しいなら殺してみろよ!その気になれば一瞬だろ!ほら!やってみろって!ただ初代皇帝がそんなことする王朝は碌なことにはならないぞ!ほらやってみろって!」みたいな心境であったという点では、建安末期の献帝と挙兵の時の高貴郷公は…

2つの長楽

魏書曰、(黄初四年)十二月丙寅、賜山陽公夫人湯沐邑、公女曼為長樂郡公主、食邑各五百戸。 (『三国志』巻二、文帝紀注引『魏書』) どうやら魏王朝の早い段階で「長楽郡」が生まれていたようだ。『晋書』でもしばしば「長楽太守」の存在が記されている。 …

500年前の君から

昨日の話だが、呉の孫権は「だいたい500年だろ」と始皇帝の時の500年後を自分の時代と言い張り、東晋の人である孫盛は「どうかんがえてもこっちが500年だろ」と自分の時代と言い張る。 まあどっちもどっち感が無くもない。 あと、なんなら同じ呉で…

500年後の君へ

始秦時望氣者云「五百年後金陵有天子氣」、故始皇東遊以厭之、改其地曰秣陵、塹北山以絶其勢。 及孫權之稱號、自謂當之。 孫盛以為始皇逮于孫氏四百三十七載、考其暦數、猶為未及。元帝之渡江也、乃五百二十六年、真人之應在于此矣。 (『晋書』巻六、元帝紀…

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

メイドの土産

蜀漢時代の陳寿が父の服喪中に婢に薬を作らせていたことを見られて評判を落とした、という話がある(『晋書』陳寿伝)。 これ、「女性を近づけるなんてもってのほかのはずの服喪中に、(仮にいかがわしいことはしなかったとしても)婢という女性を近づけてい…

陳留王断絶

(咸和元年)冬十月、封魏武帝玄孫曹勱為陳留王、以紹魏。 (『晋書』巻七、成帝紀、咸和元年十月) 東晋においては、元帝から3代目の成帝の時になって魏武帝の玄孫曹勱なる者が魏を継ぐものとして陳留王にされたという。 この封建が普通の相続によるものな…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…

孫晧の王

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽・東平王。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (鳳凰二年)秋九月、改封淮陽為魯、東平為齊、又封陳留・章陵等九王、凡十一王、王給三千兵、大赦。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (天紀)二年秋七月…

ひとこと

孫晧は陳留王を立てているのか。 名前だけのことではあるが、晋における陳留王=かつての魏帝の存在を否定していたわけか。

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

降伏後の待遇

そういえば、呉の孫晧が晋に降伏した時に与えられた「帰命侯」は領土の戸数や封建された場所の記載がないので、決められた領土を持たない侯、つまり五等爵の侯ではなく名号侯じゃないかと思う。 また、少なくとも『三国志』やその注では死後に諡号を贈られた…

前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月) 丁卯、遣…

気が付いたら陳留王

十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。 (『三国志』巻四、陳留王紀、咸熙二年) 『三国志』陳留王紀を読む限り、曹魏の最…

魏呉皇帝の諡号

昨日の話から微妙に続くが、曹魏は「武皇帝」、「文皇帝」、「明皇帝」、「元皇帝」と皇帝の諡号は一文字で統一されていたようだ。 呉も「大皇帝」と「景皇帝」なので一文字統一だったと思われるが、実は孫和が「昭献皇帝」とされていた時期があったらしいの…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

ひとこと

昨日言及したが、晋の皇帝の諡号は「宣」「文」「武」「元」といった一文字と「孝恵」「孝武」といった漢スタイル、さらに「簡文」のような二文字というスタイルが混在しているっぽい。 ちょっと興味深い。諡号が決まった経緯とかどこかに記録されているだろ…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

晋の皇后の諡号

簡文順王皇后諱簡姫、太原晉陽人也。・・・(中略)・・・咸安二年、孝武帝即位、追尊曰順皇后、合葬高平陵、追贈后父遐特進・光祿大夫、加散騎常侍。 (『晋書』巻三十二、后妃伝下、簡文順王皇后) 晋における皇后の諡号は、どうやら一文字だったようだ。 …

改姓事情

昨日の梁貴人(鄧皇后)の話、最初桓帝は彼女を「薄氏」としていた。 これはまず間違いなく梁冀との関係をうかがわせる「梁氏」を名乗らせたくなかったからなのだと思うのだが、この時に最初から本来の姓である「鄧氏」に戻さないのは少々面白い。 少なくと…

晋興郡

永寧中、張軌為涼州刺史、鎮武威、上表請合秦雍流移人於姑臧西北、置武興郡、統武興・大城・烏支・襄武・晏然・新鄣・平狄・司監等縣。又分西平界置晉興郡、統晉興・枹罕・永固・臨津・臨鄣・廣昌・大夏・遂興・罕唐・左南等縣。 (『晋書』巻十四、地理志上…

始興県

t-s.hatenablog.com 惠帝分隴西之狄道・臨洮・河關、又立洮陽・遂平・武街・始興・第五・真仇六縣、合九縣置狄道郡、屬秦州。張駿分屬涼州、又以狄道縣立武始郡。江左分梁為秦、寄居梁州、又立氐池為北秦州。 (『晋書』巻十四、地理志上、秦州) 先日の記事…

第五県

惠帝分隴西之狄道・臨洮・河關、又立洮陽・遂平・武街・始興・第五・真仇六縣、合九縣置狄道郡、屬秦州。張駿分屬涼州、又以狄道縣立武始郡。江左分梁為秦、寄居梁州、又立氐池為北秦州。 (『晋書』巻十四、地理志上、秦州) 晋の秦州(隴西郡狄道のあたり…

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

司馬昭の抜擢

杜預字元凱、京兆杜陵人也。 祖畿、魏尚書僕射。父恕、幽州刺史。 預博學多通、明於興廢之道、常言「徳不可以企及、立功立言可庶幾也。」 初、其父與宣帝不相能、遂以幽死、故預久不得調。 文帝嗣立、預尚帝妹高陸公主、起家拜尚書郎、襲祖爵豐樂亭侯。 (『…

予言者、益州刺史となる

数日前のこの記事だが、既に以下のような詳細な記事があった。 ちゃんと確認せず、後から完全に重複というか不完全な記事を出してしまった・・・。 gishinnanboku.blog.fc2.com 「殄虜護軍爰邵」が益州刺史となった「東郡袁邵」と同一人物というのは正しいの…

糸の切れた凧

(鍾)會内有異志、因鄧艾承制專事、密白艾有反狀、於是詔書檻車徴艾。 【注】 世語曰、會善效人書、於劍閣要艾章表白事、皆易其言、令辭指悖傲、多自矜伐。又毀文王報書、手作以疑之也。 (『三国志』巻二十八、鍾会伝) 昨日の話では、この小畜生のほか、…

司馬師さん

(鄧)艾遣子惠唐亭侯忠等出其右、司馬師纂等出其左。忠・纂戰不利、並退還、曰「賊未可撃。」艾怒曰「存亡之分、在此一舉、何不可之有?」乃叱忠・纂等、將斬之。忠・纂馳還更戰、大破之、斬(諸葛)瞻及尚書張遵等首、進軍到雒。 (『三国志』巻二十八、鄧…