孫晧の王

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽・東平王。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (鳳凰二年)秋九月、改封淮陽為魯、東平為齊、又封陳留・章陵等九王、凡十一王、王給三千兵、大赦。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (天紀)二年秋七月…

ひとこと

孫晧は陳留王を立てているのか。 名前だけのことではあるが、晋における陳留王=かつての魏帝の存在を否定していたわけか。

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

降伏後の待遇

そういえば、呉の孫晧が晋に降伏した時に与えられた「帰命侯」は領土の戸数や封建された場所の記載がないので、決められた領土を持たない侯、つまり五等爵の侯ではなく名号侯じゃないかと思う。 また、少なくとも『三国志』やその注では死後に諡号を贈られた…

前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月) 丁卯、遣…

気が付いたら陳留王

十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。 (『三国志』巻四、陳留王紀、咸熙二年) 『三国志』陳留王紀を読む限り、曹魏の最…

魏呉皇帝の諡号

昨日の話から微妙に続くが、曹魏は「武皇帝」、「文皇帝」、「明皇帝」、「元皇帝」と皇帝の諡号は一文字で統一されていたようだ。 呉も「大皇帝」と「景皇帝」なので一文字統一だったと思われるが、実は孫和が「昭献皇帝」とされていた時期があったらしいの…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

ひとこと

昨日言及したが、晋の皇帝の諡号は「宣」「文」「武」「元」といった一文字と「孝恵」「孝武」といった漢スタイル、さらに「簡文」のような二文字というスタイルが混在しているっぽい。 ちょっと興味深い。諡号が決まった経緯とかどこかに記録されているだろ…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

晋の皇后の諡号

簡文順王皇后諱簡姫、太原晉陽人也。・・・(中略)・・・咸安二年、孝武帝即位、追尊曰順皇后、合葬高平陵、追贈后父遐特進・光祿大夫、加散騎常侍。 (『晋書』巻三十二、后妃伝下、簡文順王皇后) 晋における皇后の諡号は、どうやら一文字だったようだ。 …

改姓事情

昨日の梁貴人(鄧皇后)の話、最初桓帝は彼女を「薄氏」としていた。 これはまず間違いなく梁冀との関係をうかがわせる「梁氏」を名乗らせたくなかったからなのだと思うのだが、この時に最初から本来の姓である「鄧氏」に戻さないのは少々面白い。 少なくと…

晋興郡

永寧中、張軌為涼州刺史、鎮武威、上表請合秦雍流移人於姑臧西北、置武興郡、統武興・大城・烏支・襄武・晏然・新鄣・平狄・司監等縣。又分西平界置晉興郡、統晉興・枹罕・永固・臨津・臨鄣・廣昌・大夏・遂興・罕唐・左南等縣。 (『晋書』巻十四、地理志上…

始興県

t-s.hatenablog.com 惠帝分隴西之狄道・臨洮・河關、又立洮陽・遂平・武街・始興・第五・真仇六縣、合九縣置狄道郡、屬秦州。張駿分屬涼州、又以狄道縣立武始郡。江左分梁為秦、寄居梁州、又立氐池為北秦州。 (『晋書』巻十四、地理志上、秦州) 先日の記事…

第五県

惠帝分隴西之狄道・臨洮・河關、又立洮陽・遂平・武街・始興・第五・真仇六縣、合九縣置狄道郡、屬秦州。張駿分屬涼州、又以狄道縣立武始郡。江左分梁為秦、寄居梁州、又立氐池為北秦州。 (『晋書』巻十四、地理志上、秦州) 晋の秦州(隴西郡狄道のあたり…

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

司馬昭の抜擢

杜預字元凱、京兆杜陵人也。 祖畿、魏尚書僕射。父恕、幽州刺史。 預博學多通、明於興廢之道、常言「徳不可以企及、立功立言可庶幾也。」 初、其父與宣帝不相能、遂以幽死、故預久不得調。 文帝嗣立、預尚帝妹高陸公主、起家拜尚書郎、襲祖爵豐樂亭侯。 (『…

予言者、益州刺史となる

数日前のこの記事だが、既に以下のような詳細な記事があった。 ちゃんと確認せず、後から完全に重複というか不完全な記事を出してしまった・・・。 gishinnanboku.blog.fc2.com 「殄虜護軍爰邵」が益州刺史となった「東郡袁邵」と同一人物というのは正しいの…

糸の切れた凧

(鍾)會内有異志、因鄧艾承制專事、密白艾有反狀、於是詔書檻車徴艾。 【注】 世語曰、會善效人書、於劍閣要艾章表白事、皆易其言、令辭指悖傲、多自矜伐。又毀文王報書、手作以疑之也。 (『三国志』巻二十八、鍾会伝) 昨日の話では、この小畜生のほか、…

司馬師さん

(鄧)艾遣子惠唐亭侯忠等出其右、司馬師纂等出其左。忠・纂戰不利、並退還、曰「賊未可撃。」艾怒曰「存亡之分、在此一舉、何不可之有?」乃叱忠・纂等、將斬之。忠・纂馳還更戰、大破之、斬(諸葛)瞻及尚書張遵等首、進軍到雒。 (『三国志』巻二十八、鄧…

最初の益州刺史

魏咸熙元年、蜀破之明年也、以東郡袁邵為益州刺史、隴西太守安平牽弘為蜀郡、金城太守天水楊欣為犍為太守。 (『華陽国志』巻八、大同志) 蜀漢が滅んだ後、最初の益州刺史になったのが袁邵という者だったそうな。 異動の時に蜀人常忌が留任を直訴したという…

魏文帝評の評価

昨日の記事から考えると、陳寿は『三国志』の中で魏文帝曹丕を人徳に欠けた暴君として扱った、と言ってもいいのだろうと思う。 この陳寿評が晋の当時どう受け止められたのかは想像するしかないが、こういった証言があるのは参考になるのかもしれない。 夏侯…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

曹操と司馬氏の戸数

司馬懿は曹爽排除後に領土2万戸とされ、死ぬ直前には5万戸と郡公を与えられたとされているんだな。 郡公は辞退したとされるが。 司馬師は3万1千戸から9千戸の加増で4万戸とされている。 なんだか曹操の武平侯時代よりも多いようにも感じるが、復興によ…

ひとこと

(天紀)三年夏、郭馬反。・・・(中略)・・・晧又遣徐陵督陶濬將七千人從西道、命交州牧陶璜部伍所領及合浦・鬱林諸郡兵、當與東西軍共撃馬。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀三年) 徵為執金吾。廣州部曲督郭馬等為亂、(孫)晧以(滕)脩宿有威惠、…

ふと思ったが

司馬懿の母や母の一族って素性分かってたんだっけ? 劉備の母なんかもまるで分からないから、分からないとしてもそこまで不思議ではないのだが、ちょっと気になる。 司馬懿の后張氏は母までわかっている(山氏)のが、ちょっと不思議な感じ。 それとも私が知…

誘い文句の真意

昨日の話の続きになる。 昨日の話だけでは、鄧艾は何というかただただクレイジー気味の人になってしまうが、それだけではないかもしれない。 そもそも、蜀漢を滅ぼすことになれば、おそらく司馬昭が皇帝になることになる。 そうなれば、琅邪王も曹氏からチェ…

お前も王にならないか?

よく考えたら、昨日までの「諸葛瞻を琅邪王にする」という話、この勧誘が行われた時点では司馬昭自身もまだ「晋公」だな。 蜀漢を征服すれば即座に司馬昭は晋王になるだろうという予測はできたにしろ、その時点においては事実上の主君司馬昭すらなっていない…

誘い文句

(景耀)六年冬、魏征西將軍鄧艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。(諸葛)瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住緜竹。艾遣書誘瞻曰「若降者必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戰、大敗、臨陳死、時年三十七。衆皆離散、艾長驅至成都。 (『三国志』巻三十五、諸葛瞻…

呉と魏の間の晋

呉將晉宗叛歸魏、魏以宗為蘄春太守、去江數百里、數為寇害。(孫)權使(胡)綜與賀齊輕行掩襲、生虜得宗、加建武中郎將。 (『三国志』巻六十二、胡綜伝) 三国呉には「晋宗」という将がいて、魏に降った。 呉は晋宗を攻撃して生け捕りにした。 「晋」姓の…