ウホッ

冬、訒艾破衛將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策、降於艾、奉書曰「限分江・漢、遇値深遠、階緣蜀土、斗絶一隅、干運犯冒、漸苒歴載、遂與京畿攸隔萬里。每惟黃初中、文皇帝命虎牙將軍鮮于輔、宣温密之詔、申三好之恩、開示門戸、大義炳然、而否紱暗弱、竊貪遺緒、俛仰累紀、未率大教。天威既震、人鬼歸能之數、怖駭王師、神武所次、敢不革面、順以從命!(後略)
(『三国志』後主伝)

蜀漢司馬昭の発した軍に敗れて降伏する段。
ここで後主劉禅はこんなことを言っている。

「思えば黄初年間、魏の文帝は虎牙将軍鮮于輔に命じて降伏を促す詔をお出しになりましたが、私の不徳のせいでそれに従うことができませんでした。」

何故、虎牙将軍鮮于輔だったのだろうか。
当時の三公、大将軍といった大物ではダメだったのだろうか。

劉虞從事漁陽鮮于輔等、合率州兵、欲共報(公孫)瓚。
(『後漢書公孫瓚伝)

鮮于輔は漁陽の人。劉備とは郡が郡が違うが同じ幽州の人間である。
同郷というだけの繋がりなんだろうか。
それとも、何らかの形で直接面識や交流があったのだろうか。
(二人は共に袁紹の下に居た事がある)


もしかすると、イマイチ分かりにくいが、実は鮮于輔はその頃の魏の幽州人では最も出世した人間だったのか。
烏丸、鮮卑とただならぬ関係にあった形跡もあるし、鮮于輔は分かりにくいけれど当時の重要人物の一人だったのかもしれない。