五等爵復活

後董昭建議「宜脩古建封五等」
太祖曰「建設五等者、聖人也、又非人臣所制、吾何以堪之?」
昭曰「自古以來、人臣匡世、未有今日之功。有今日之功、未有久處人臣之勢者也。今明公恥有慚紱而未盡善、樂保名節而無大責、紱美過於伊・周、此至紱之所極也。然太甲・成王未必可遭、今民難化、甚於殷・周、處大臣之勢、使人以大事疑己、誠不可不重慮也。明公雖邁威徳、明法術、而不定其基、為萬世計、猶未至也。定基之本、在地與人、宜稍建立、以自藩衛。明公忠節穎露、天威在顔、耿弇牀下之言、朱英無妄之論、不得過耳。昭受恩非凡、不敢不陳」
後太祖遂受魏公・魏王之號、皆昭所創。
(『三国志』董昭伝)

三国時代の董昭は曹操の参謀的な役割を果たし、時にはおべっかクソ野郎呼ばわりもされてきた。
まあそれもやむを得ないことかもしれない。
積極的に「貴方は聖人です。周公旦にも勝るとも劣りません。それに今の地位にいても人々の嫌疑は晴れないので、封建を受けて地盤を作るべきです。」と皇帝即位への道を説いた人物なのである。
荀紣も皇帝即位への道を説いたが、彼は表現を注意深く選んでいた。しかし董昭は隠そうともしていない。


しかし董昭は今回の話の本筋ではない。

夏五月庚申、相國晉王奏復五等爵。
(『三国志元帝紀、咸熙元年)

魏の咸熙元年、司馬昭は蜀征服という実績を得ると、なったばかりの晋公から晋王になった。
事実上、禅譲前夜と言って良いだろう。
晋王となった司馬昭の最初の仕事として記録されているのが「五等爵」の復活であった。
董昭の建議はついに日の目を見たのである。皮肉なことに曹氏から帝位を奪う勢力によって。


司馬昭が五等爵を復活したのは、まさしく董昭の建議に対して曹操が言った「建設五等者、聖人也、又非人臣所制」という認識が理由だろう。
逆に言えば、これを復活できる実力者は聖人であり、人臣の枠に留まる人間ではないのである。

つまりこの上奏は、司馬昭による「自分こそ聖人であり皇帝になるべきである」という無言のメッセージなのだ。