2024-01-01から1年間の記事一覧
今年一年、拙ブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。 何とかこの一年を終わらせることが出来たようです。 また来年、よろしくおねがいします。
沛公旦日從百餘騎來見項王、至鴻門、謝曰「臣與將軍戮力而攻秦、將軍戰河北、臣戰河南、然不自意能先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有卻。」項王曰「此沛公左司馬曹無傷言之。不然、籍何以至此。」項王即日因留沛公與飲。 ・・・(中…
昨日の話についてだが・・・。 頃之、(孫)策欲取荊州、以(周)瑜為中護軍領江夏太守、從攻皖、拔之。時得橋公両女、皆國色也。策自納大橋、瑜納小橋。 (『三国志』巻五十四、周瑜伝) (袁)術大怒、遣其將孫策攻(陸)康、圍城數重。康固守、吏士有先受…
(袁)術表(孫)策為折衝校尉行殄寇將軍、兵財千餘、騎數十匹、賓客願從者數百人。比至歴陽、衆五六千。策母先自曲阿徙於歴陽、策又徙母阜陵、渡江轉鬭、所向皆破、莫敢當其鋒、而軍令整肅、百姓懷之。 (『三国志』巻四十六、孫策伝) 袁術の将として転戦…
黄忠って列侯にはなっておらず、劉備が漢中王になった時に受け取った関内侯が最高位なのか。 劉備が皇帝になっていたら上がりそうなものなので、黄忠は劉備が皇帝になる前後に世を去ったのだろうか?
年末になっても全然仕事が収まらないな・・・。 疲れたので休む。
昨日の話の後で思ったが、漢代の列侯が国替えされるということは、元々の領土自体もさることながら、その領土の近辺に私財を投じて得ていたであろう荘園であるとか、商売であるとかの類も失い、一からの再出発を余儀なくされる、といったことなのかもしれな…
建武二年、封昆陽侯。・・・(中略)・・・ 子(傅)昌嗣、徙封蕪湖侯。建初中、遭母憂、因上書、以國貧不願之封、乞錢五十萬、為關内侯。肅宗怒、貶為關内侯、竟不賜錢。 (『後漢書』列伝第十二、傅俊伝) 後漢初期の功臣傅俊は穎川郡の県である昆陽侯とな…
クリッスマッスイーブらしいですが、今日は少々疲れてるため、お休みです・・・。特に楽しいこともなく。
(建武二十年)夏四月庚辰、大司徒戴渉下獄死。大司空竇融免。 五月辛亥、大司馬呉漢薨。 匈奴寇上黨・天水、遂至扶風。 六月庚寅、廣漢太守蔡茂為大司徒、太僕朱浮為大司空。壬辰、左中郎將劉隆為驃騎將軍行大司馬事。 (『後漢書』紀第一下、光武帝紀下、…
今日はタイヤ交換の予定。 タイヤ交換前に本格的な雪に見舞われずに済みそうで良かった・・・。 この勝負、こちらの勝ちだな。
(建武)七年、以病乞身、拝光祿大夫、代王丹為太子太傅。及郭后廢、因稱疾不朝、拜太中大夫、居中東門候舍、故時人號曰中東門君。帝數存問賞賜。後大司徒戴渉被誅、帝彊起(張)湛以代之。 湛至朝堂、遺失溲便、因自陳疾篤、不能復任朝事、遂罷之。後數年、…
あの曹操の領地になったことで有名な陳国武平県だが、『漢書』地理志には「武平」という県が載っていないようだ。 『続漢書』郡国志には載っている。 ということは、武平県というのは後漢になってから誕生したのだろうか。 だからどうということも無いが。 …
「平干国」(前漢の王国のひとつ。のちの広平国)とか、「大河郡」(済東国から改称。のちの東平郡)とかの「すごく古いのに、のちに伝わらず短命に終わっている郡国名」大好き。
廣陽國。高帝燕國、昭帝元鳳元年為廣陽郡、宣帝本始元年更為國。莽曰廣有。 (『漢書』巻二十八下、地理志下、広陽国) 漢の「燕国」は、武帝の息子燕王劉旦が取り潰しになった時に「広陽郡」となり、その後燕王の子がその地の王に復帰する時にも「広陽王」…
実はまだタイヤ交換していない。 雪が本格的に降ってこないかと毎日ヒヤヒヤしてる。天候とのチキンレースである。 好天を祈るため一回休み。
劉曄があまり人と交流しなかったとか、おべっかクソ野郎と思われていたとかって話、呉の孫氏と比較的近い立場にいたことがあったからじゃあないだろうか? いわば敵のスパイと思われて警戒されて交流が少なかったとか、そういう扱いをされていたからこそ「お…
t-s.hatenablog.com 2008年の昨日がこのブログ誕生の日だった。 思えば遠くへ来たもんだ。 今後もダラダラと出来るだけ続けていこうと思う所存。
帰りが遅かったので、今日は休みます。
そういえば、『三国志』では臣下の列伝では列侯の戸数をしばしば記録しているけれど、曹操・劉備・孫権の列侯時代の戸数って案外よく分からない気がするな・・・。 面白い傾向かもしれない。
曹操の武平侯は陳国内にあった。 その武平侯は最大で4県で構成されていた。 後漢の陳国は9県あったので、曹操の武平侯国は最大時は陳国の約半分を占めていたのである。 つまり、曹操はすでに郡国の半分を領有する領主だった。 その曹操の大きな功績に報い…
曹魏は皇帝の叔父・従兄弟・甥あたりは諸侯王にしてないか・・・?と思ったが、そもそも曹操血縁の兄弟はおそらくほとんど全滅してるんだった。 ただ、曹操の弟の祭祀を曹操の子に継がせていたことからすると、曹丕は「自分の叔父の子孫まで諸侯王にしている…
某国の反乱軍が首都を無血開城っていうと劉邦による秦攻めを思い出すんだが、そうなると次は「後からやってきた話が通じないヤツが乱暴狼藉を働く」が起こりそうで怖いな・・・。 そうならないといいが。
孫呉の諸侯王、記録上最初に置かれたのが魯王孫覇だったことを思うと、うっかり諸侯王を置くと臣下などがすぐ群がって神輿として担ぎ出される危険性が高い、と孫権は予見していたのかもしれないな・・・。 自身が長子ではなく、父孫堅自身も長子ではなかった…
今日はなんだかちょっと体調がすぐれない気がするので、休みます。 生きていたらまたお会いしましょう。
昨日の話の続きだが、そういや、諸侯王をあまり置かなかった王朝があった。 秦と新。 それらに倣った・・・ってことは、まあ、ないな。
漢代は初代皇帝の兄弟及びその子(後継ぎ)は基本的に優遇され、覇業に参画していた者はたいてい諸侯王になっている。 それと比較すると、孫権が皇帝になってからの孫策や孫翊・孫匡の子が一人も王になっていないというのは、実は前例と違う、と考えられる。…
今日は夜に用事があって疲れましたわ・・・。お休みします。
t-s.hatenablog.com 孫堅の侯「烏程侯」は漢の通例どおりに長子孫策が継いだはずだが、おそらくは孫策が呉侯になる前後に弟孫匡に烏程侯を譲ったと思われる。 孫権ではなく下の弟孫匡に、というのは少々面白い。 記録上、孫権はこの時点では列侯ではないのだ…
漢の初代皇帝劉邦は兄劉喜(劉仲)を王にした。 後漢の初代は、彼の覇業にとっても重要な意味のあった兄劉伯升に王を追贈している。 だが、帝位を追贈はしていない。 それと比較すると、呉の皇帝孫権が兄孫策に王を追贈しても帝位を追贈しないことは、そこま…