2023-10-01から1ヶ月間の記事一覧
瑯邪の劉勲(征虜将軍)って、なんか妙に曹操の元で厚遇されてたみたいだなあ・・・。 降伏して列侯になったというならほかにも似たような者がいたわけだが、曹操と旧くからの知り合いだったというだけで「貴寵驕豪」とまで言われるものなんだろうか。 瑯邪…
『隋書』経籍志によると魏武こと曹操が記した兵書として「續孫子兵法二卷」「兵書接要十卷」「兵書略要九卷」「魏武帝兵法一卷」といったものが伝わっているのか。 注釈だけではなくて『孫子兵法』の二次創作続編も作ったらしい。 以前記事にした曹操自作兵…
実はまだゼルダ始めていない。 あとファイアーエムブレムも最低難易度で1周しただけで2周目にも行っていない。 文字が小さくて見にくいな・・・ってのが一因だと言われている。
麋竺、孫乾、簡雍、伊籍ってまあ「文官」って感じのイメージなんだろうが、劉備の元で全員「将軍」になってるんだよな・・・。その手の分類で言えば全員「武官」ってことじゃないか。
木曜にもなると疲れて眠くなる・・・。 明日から本気出す。 そういえばまだゼルダの伝説始めてないな・・・。
へえ、今日はプロやきうドラフト会議の日なんだ・・・。いつの間に。 時が経つのは早いなぁ。
昨日のような話からすると、陳寿自身としても、おそらくは当時(西晋)の風潮としても、三国時代の人物としては誰よりも諸葛亮を特別視するような傾向みたいなのがあったのかもなあ。 なにしろ「無力な皇帝をずっと立て続けつつ戦乱を収めようと戦い続けた。…
もしかして陳寿『三国志』本文内で陳寿自身の上奏を(おそらく)そのまま収録してるのって諸葛亮伝の「諸葛氏集目録」だけだったりする? 他にも同じような体裁のとこあったかな・・・?
ふと思っただけだし、特に何かの話題に繋げるとかの意図も無いんだが、蜀漢からすれば自分たちは「魏に討伐された」のではなく、「司馬氏(晋)という新興勢力に放伐された」、という印象になるのかなあ・・・とか思った。
諸葛亮らの出身である琅邪というと泰山郡に近いので、諸葛亮たちが臧覇のように泰山諸将の一員となって徐州・青州に盤踞したりするみたいな、何かあった未来を想像。 人間離れした巨体と頭脳の諸葛亮、人間離れした見た目の諸葛瑾は山賊まがいの将としても目…
土曜は休みだというのに朝から出勤・・・。はぁメンド・・・。
漢王朝の初代皇帝劉邦は「高皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「高」は従来の諡法になかった字なのだとか。 また、孫呉の初代皇帝孫権は「大皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「大」もそれまでの諡法では見かけなかった字であるように思われる。…
「魏の高貴郷公が皇太后を害そうとしたなんて完全にでっち上げだろ!皇太后とかを殺そうとするヤツなんているわけがない」みたいな反応を、皇后と皇子を実際に殺した高貴郷公の先祖曹操が完全に封殺する。 先祖に自分が仕える皇帝の皇后と皇子を実際に殺した…
昨日の話の後で思ったが、「儒林伝」や「酷吏伝」といった伝は立てない陳寿『三国志』も、「儒林伝」ではなく「儒宗伝」、「酷吏伝」ではなく「苛吏伝」と敢えてズラしてくる『魏略』も、前後のいわゆる正史などの形式からすると、どっちもなかなかに癖が強…
そうか、『三国志』は「儒林伝」みたいなのが無いから、昨日の董巴みたいな人物の事績がまるで記されてないんだな。 『魏略』には一応それらしいものがあったっぽいので、これは陳寿の編集態度なのかもしれない。
大漢輿服志一卷。魏博士董巴撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、儀注篇) 魏の博士董巴は『輿服志』を著していて、『後漢書』注などでしばしば引用されている。 おそらくこの書を司馬彪『続漢書』輿服志が大いに参考にしたのだと思う。 この董巴は『三…
曹操は兵書の類を作った(『三国志』武帝紀注引『魏書』)とされ、一方で諸葛亮は「八陣図」を作ったとされる(『三国志』諸葛亮伝)。 だが陳寿『三国志』自体に記されるのは後者のみのようだ。 陳寿の生きた晋の頃は諸葛亮のそれの方が重要視されていたの…
劉表によって交州刺史になり、劉備の元で太常になった頼恭。 交州に赴任してから益州で太常になるまでの詳しい経緯とか、交州からいなくなった契機とか、色々と知りたいことが多い。 省略されてる部分をぜひとも知りたくなる人物の一人。
諸葛亮の諡号は「忠武侯」だが、司馬師の諡号も当初は「忠武侯」だったんだな。 敢えて諸葛亮のそれを意識した可能性もあるだろうか。 諸葛亮は絶大な権力を持ちながら簒奪などの意思は示さなかった人物なので、司馬氏も同様なのだ、というメッセージを発信…
今日は何だか妙に疲れてるんだ・・・。 もう疲れたよパトラッシュ・・・。
そういや劉備自身も劉備の父も、兄弟順が何番目だったかって分からないよな、確か。 劉備に実は何人か兄がいたりしてもおかしいわけではない。史書に出てこないのは、劉備の覇業にまるで関わらなかったということだろうし。 曹操だって弟の存在は明らかなの…
あれ?劉備や公孫瓉が盧植の元で学んだという話、盧植はどこにいる時の話なんだろう? 盧植が地元涿郡にいた時というのが自然な気がするし、何かその根拠があるのかもしれないけど、その辺今のところ自分は分からないな。 盧植が洛陽または任地のどこかにい…
昨日の記事のコメントで指摘があったように、范県令になったのは劉備の父ではなく祖父だった。 そうなると昨日の記事の結論はそのままというわけにはいかないな。 劉備はあくまでも幽州で生まれ育った、という可能性の方が高いか。
先主祖雄、父弘、世仕州郡。雄舉孝廉、官至東郡范令。 (『三国志』巻三十二、先主伝) 昨日の続きみたいな。 劉備の父は孝廉となり、その後最終的には東郡范県令になった、ということらしい。 おそらくだが、劉備は母と共に父劉雄についていっていたんじゃ…
劉備の父が東郡范県令だった時って、劉備も東郡に住んでいたんじゃないだろうか。 だからといって何が変わるわけでもないが、劉備は幼少のころから色々な地に住んで見聞を広めていた、と言えるかもしれない。
今週は何か色々面倒ごとがあって疲れた・・・。最初は体調も良くなかったし。休む。
中国の百官による集議とか御前での朝議とか、諫官なんかが命がけっぽいカッコいい正論を述べて大臣や皇帝が言い負かされる、みたいな話があったりするが、あれも何割かは「あの諫臣を指名する」とか「あの列は指名しない」とか事前に決まっていたりしたんだ…
二子(淩)烈・封、年各數歳、(孫)權内養於宮、愛待與諸子同。賓客進見、呼示之曰「此吾虎子也。」及八九歳、令葛光教之讀書、十日一令乗馬、追録統功、封烈亭侯、還其故兵。 (『三国志』巻五十五、淩統伝) 淩統の遺児たちは孫権にたいそうかわいがられ…
あっ、まだ今日何も書いてなかった。まあ昨日は疲れてたし、特に書くこともなかったんだけどね・・・。
日曜だいたいずっと休んでいたら割と体調良くなってきた気がする。 明日どうなるか、まだ分からないけど・・・。