魏郡東西部都尉

冬十月、分魏郡為東西部、置都尉。
(『三国志武帝紀、建安十八年)

曹操が魏公になった直後、魏郡は東西に領域を分けて都尉を置いた。
郡内の軍事、防衛を司る官である。
魏郡が膨れ上がった直後の話であるので、分割する事自体は不思議ではない。

尉一人、典兵禁、備盜賊、景帝更名都尉。武帝又置三輔都尉各一人、譏出入。邊郡置農都尉、主屯田殖穀。又置屬國都尉、主蠻夷降者。中興建武六年、省諸郡都尉、并職太守、無都試之役。省關都尉、唯邊郡往往置都尉及屬國都尉、稍有分縣、治民比郡。安帝以羌犯法、三輔有陵園之守、乃復置右扶風都尉、京兆虎牙都尉。
(『続漢書』百官志五)

しかし不思議な事が一つある。
後漢光武帝は郡の都尉を原則廃止しており、都尉が残されたのは辺境の郡だけであった。
三輔で復活した都尉も、羌の反抗に対処するためであり、事実上辺境と変わらない。
また後漢末にも都尉が新たに置かれた事例がいくつかある(例えば李通の陽安都尉)が、これも敵対勢力や反乱者の強い地域での事例がほとんどのはずである。


当時の魏郡は曹操の魏公国の都がある、いわば本拠地ということになると思うが、辺境やそういった不穏な地域と同様の措置を取る必要がある危険地帯だったのだろうか。