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王莽が数え38歳にして三公になったというの、これたぶん当時としては異例の若さなんじゃないかなあ・・・。 霍去病みたいな例もあるから前例がないわけじゃないだろうが。 その後の董賢といい、前漢末期には「若くてイキのいい奴を三公にしてみよう」みた…
初、平帝時、漢中錫光為交阯太守、教導民夷、漸以禮義、化聲侔於延。王莽末、閉境拒守。建武初、遣使貢獻、封鹽水侯。 (『後漢書』列伝第六十六、循吏列伝、任延) 魏興郡、本漢中西城縣。哀平之世、縣民錫光、字長冲、為交州刺史、徙交阯太守。王莽簒位、…
又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘凡戸萬地方百里為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命徳茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国元年正月) そういえば、…
黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年) 又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戸萬、地方百里、為定安公國。…
そういえば、王莽の母(功顕君)って、姓(実家)わかってたかな・・・。 血族王氏を重用していたように、母の一族すなわち外戚も重用しそうなもの。 それともワイが忘れてるだけかな・・・?
李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 『後漢書』李通伝に、後漢明帝が宛に行幸した時、宛の李氏たちに対して安衆県の劉氏たち(先…
劉隆字元伯、南陽安衆侯宗室也。王莽居攝中、隆父禮與安衆侯崇起兵誅莽、事泄、隆以年未七歳、故得免。 及壯、學於長安、更始拝為騎都尉。謁歸、迎妻子置洛陽。聞世祖在河内、即追及於射犬、以為騎都尉、與馮異共拒朱鮪・李軼等、軼遂殺隆妻子。建武二年、封…
初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。 休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以…
李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 【注】 安衆、縣、屬南陽郡。故城在鄧州東。謝承書曰「安衆侯劉寵、長沙定王五代孫、南陽宗室也。與宗人討莽安功、隨光武河北…
前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。 侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。 侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。 建武十三年、侯松嗣。 今見。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹) この安衆侯は後漢最初期に復興されてい…
舂陵侯や安衆侯らの前漢長沙王系統、かの更始帝劉玄、斉王劉縯(伯升)、反乱者翟義の親族と繋がっていた舂陵侯劉敞(舂陵侯本家)、敵討ちが原因で官吏に殺された兄の仇を討った安成侯劉賜、ガチの反乱者安衆侯劉崇など、なぜか前漢末や新の時代にやけに血…
性勤於稼穡、而兄伯升好俠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。 (『後漢書』紀第一上、光武帝紀上) 後漢初代皇帝は農業にいそしみ、反社勢力に両足突っ込んでいた兄からは馬鹿にされていたのだ、という話がある。 t-s.hatenablog.com このあたりの話だ…
漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…
新たな王朝の号(王莽の「新」とか曹氏の「魏」とか)については、ほとんどの場合、その王朝の開祖が皇帝になる時点でなっていた諸侯の国号から取るのが通例であるようだ。 「漢王」劉邦が皇帝になると「漢」王朝となるし、「新都侯」王莽が皇帝になると「新…
建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…
三輔決録注曰、(射)援字文雄、扶風人也。其先本姓謝、與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征、天子以謝服非令名、改為射、子孫氏焉。兄堅、字文固、少有美名、辟公府為黄門侍郎。獻帝之初、三輔饑亂、堅去官、與弟援南入蜀依劉璋、璋以堅為長史。劉備代璋、…
王莽時代の銭「小泉直一」は「日本人の人名に思えるけど全く意味の違う言葉」ランキング1位じゃないかと思う。
いわゆる五帝、『史記』五帝本紀によると「黄帝」「帝顓頊」「帝嚳」「帝堯」「帝舜」。 『史記』五帝本紀による限り、顓頊は黄帝の孫とされている。 帝嚳は黄帝の曽孫とされている。 堯は帝嚳の子とされている。 舜は顓頊の七代目の子孫とされている。 つま…
太后留(劉)歆為右曹太中大夫、遷中壘校尉、羲和、京兆尹、使治明堂辟雍、封紅休侯。典儒林史卜之官、考定律暦、著三統暦譜。 (『漢書』巻三十六、劉歆伝) かの王莽の腹心劉歆は「紅休侯」に封建された。 初、休侯富既奔京師、而王戊反、富等皆坐免侯、削…
萬脩字君游、扶風茂陵人也。更始時、為信都令、與太守任光・都尉李忠共城守、迎世祖、拝為偏將軍、封造義侯。及破邯鄲、拝右將軍、從平河北。建武二年、更封槐里侯。 (『後漢書』列伝第十一、万修伝) 後漢最初期の将だった万修なる人物は、最初に「造義侯…
又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月) 王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。 東郡。秦置。…
是歲廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。 京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。 十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不…
『漢書』外戚恩沢侯表などを見ていると、それまで列侯は一応地名に沿った名(「宜陵侯」「長平侯」のように)なのだが、平帝つまり王莽の時代になると急速に「扶徳侯」「広陽侯」「明統侯」といった、嘉名や何らかの意味を持たせた名の列侯が増えてきている…
立故東平王雲太子開明為王、故桃郷頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號、守經法、不阿指從邪、右將軍孫建爪牙大臣、大鴻臚(左)咸前正議不阿、後奉節使迎中山王、及宗正劉不惡・執金吾任岑・中郎將…
夙夜連率韓博上言「有奇士、長丈、大十圍、來至臣府、曰欲奮撃胡虜。自謂巨毋霸、出於蓬萊東南、五城西北昭如海瀕、軺車不能載、三馬不能勝。即日以大車四馬、建虎旗、載霸詣闕。霸臥則枕鼓、以鐵箸食、此皇天所以輔新室也。願陛下作大甲高車、賁育之衣、遣…
(王)莽欲依霍光故事以女配帝、太后意不欲也。莽設變詐、令女必入、因以自重、事在莽傳。太后不得已而許之、遣長樂少府夏侯藩・宗正劉宏・少府宗伯鳳・尚書令平晏納采、太師(孔)光・大司徒馬宮・大司空甄豐・左將軍孫建・執金吾尹賞行太常事・太中大夫劉…
太常常山張顥為太尉。 【注】 顥字智明。搜神記曰「顥為梁相、新雨後、有鵲飛翔近地、令人擿之、墯地化為圓石、顥命椎破、得一金印、文曰『忠孝侯印』。」 (『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、光和元年三月) 後漢霊帝の時の太尉張顥は、カササギを打ち落とした…
(永始二年)十二月、詔曰「前將作大匠(解)萬年知昌陵卑下不可為萬歲居、奏請營作、建置郭邑、妄為巧詐、積土增高、多賦斂繇役、興卒暴之作。卒徒蒙辜、死者連屬、百姓罷極、天下匱竭。常侍(王)閎前為大司農中丞、數奏昌陵不可成。侍中衞尉(淳于)長數…
封王氏齊縗之屬為侯、大功為伯、小功為子、緦麻為男、其女皆為任。男以「睦」、女以「隆」為號焉、皆授印韍。 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建國元年正月) 王莽の時、皇室である王氏の女性の称号は「任」といったらしい。 後に王莽は侍女に産ませて隠…
左曹水衡都尉河内苟參威神。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年) 前漢成帝の時の水衡都尉に河内の苟参なる者がいた。 (王)翁孺生禁、字稚君。少學法律長安、為廷尉史。 本始三年、生女政君、即元后也。 禁有大志、不修廉隅、好酒色、多取傍妻、…