公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

武皇帝

新たな王朝の号(王莽の「新」とか曹氏の「魏」とか)については、ほとんどの場合、その王朝の開祖が皇帝になる時点でなっていた諸侯の国号から取るのが通例であるようだ。 「漢王」劉邦が皇帝になると「漢」王朝となるし、「新都侯」王莽が皇帝になると「新…

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

謝と射

三輔決録注曰、(射)援字文雄、扶風人也。其先本姓謝、與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征、天子以謝服非令名、改為射、子孫氏焉。兄堅、字文固、少有美名、辟公府為黄門侍郎。獻帝之初、三輔饑亂、堅去官、與弟援南入蜀依劉璋、璋以堅為長史。劉備代璋、…

小泉

王莽時代の銭「小泉直一」は「日本人の人名に思えるけど全く意味の違う言葉」ランキング1位じゃないかと思う。

最初の禅譲

いわゆる五帝、『史記』五帝本紀によると「黄帝」「帝顓頊」「帝嚳」「帝堯」「帝舜」。 『史記』五帝本紀による限り、顓頊は黄帝の孫とされている。 帝嚳は黄帝の曽孫とされている。 堯は帝嚳の子とされている。 舜は顓頊の七代目の子孫とされている。 つま…

ブダペスト

太后留(劉)歆為右曹太中大夫、遷中壘校尉、羲和、京兆尹、使治明堂辟雍、封紅休侯。典儒林史卜之官、考定律暦、著三統暦譜。 (『漢書』巻三十六、劉歆伝) かの王莽の腹心劉歆は「紅休侯」に封建された。 初、休侯富既奔京師、而王戊反、富等皆坐免侯、削…

造義侯

萬脩字君游、扶風茂陵人也。更始時、為信都令、與太守任光・都尉李忠共城守、迎世祖、拝為偏將軍、封造義侯。及破邯鄲、拝右將軍、從平河北。建武二年、更封槐里侯。 (『後漢書』列伝第十一、万修伝) 後漢最初期の将だった万修なる人物は、最初に「造義侯…

寿良

又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月) 王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。 東郡。秦置。…

幻の列侯

是歲廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。 京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。 十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不…

王莽時代の列侯

『漢書』外戚恩沢侯表などを見ていると、それまで列侯は一応地名に沿った名(「宜陵侯」「長平侯」のように)なのだが、平帝つまり王莽の時代になると急速に「扶徳侯」「広陽侯」「明統侯」といった、嘉名や何らかの意味を持たせた名の列侯が増えてきている…

二文字名禁止令

立故東平王雲太子開明為王、故桃郷頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號、守經法、不阿指從邪、右將軍孫建爪牙大臣、大鴻臚(左)咸前正議不阿、後奉節使迎中山王、及宗正劉不惡・執金吾任岑・中郎將…

あのキャラは実在した

夙夜連率韓博上言「有奇士、長丈、大十圍、來至臣府、曰欲奮撃胡虜。自謂巨毋霸、出於蓬萊東南、五城西北昭如海瀕、軺車不能載、三馬不能勝。即日以大車四馬、建虎旗、載霸詣闕。霸臥則枕鼓、以鐵箸食、此皇天所以輔新室也。願陛下作大甲高車、賁育之衣、遣…

忠孝侯の正体

(王)莽欲依霍光故事以女配帝、太后意不欲也。莽設變詐、令女必入、因以自重、事在莽傳。太后不得已而許之、遣長樂少府夏侯藩・宗正劉宏・少府宗伯鳳・尚書令平晏納采、太師(孔)光・大司徒馬宮・大司空甄豐・左將軍孫建・執金吾尹賞行太常事・太中大夫劉…

忠孝侯

太常常山張顥為太尉。 【注】 顥字智明。搜神記曰「顥為梁相、新雨後、有鵲飛翔近地、令人擿之、墯地化為圓石、顥命椎破、得一金印、文曰『忠孝侯印』。」 (『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、光和元年三月) 後漢霊帝の時の太尉張顥は、カササギを打ち落とした…

不遇な人生

(永始二年)十二月、詔曰「前將作大匠(解)萬年知昌陵卑下不可為萬歲居、奏請營作、建置郭邑、妄為巧詐、積土增高、多賦斂繇役、興卒暴之作。卒徒蒙辜、死者連屬、百姓罷極、天下匱竭。常侍(王)閎前為大司農中丞、數奏昌陵不可成。侍中衞尉(淳于)長數…

翁主と郷主の間に

封王氏齊縗之屬為侯、大功為伯、小功為子、緦麻為男、其女皆為任。男以「睦」、女以「隆」為號焉、皆授印韍。 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建國元年正月) 王莽の時、皇室である王氏の女性の称号は「任」といったらしい。 後に王莽は侍女に産ませて隠…

河内の苟氏

左曹水衡都尉河内苟參威神。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年) 前漢成帝の時の水衡都尉に河内の苟参なる者がいた。 (王)翁孺生禁、字稚君。少學法律長安、為廷尉史。 本始三年、生女政君、即元后也。 禁有大志、不修廉隅、好酒色、多取傍妻、…

尚書令鄧馮

尚書令南陽鄧馮君侯為右扶風。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年) へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。 つまり南陽の鄧氏。 「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安で詩経を学…

辛と幸

中郎將幸成子淵為水衡都尉。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始二年) (辛)慶忌居處恭儉、食飲被服尤節約、然性好輿馬、號為鮮明、唯是為奢。為國虎臣、遭世承平、匈奴・西域親附、敬其威信。年老卒官。 長子通為護羌校尉、中子遵函谷關都尉、少子茂…

オススメ漫画

matogrosso.jp しちみ楼先生の漫画『キンとケン』が終了した。 董賢や漢の哀帝や王莽の話。 少しでも興味があったら是非読んでみてほしい。 王莽が史実通りの姿になったりしてた。 お疲れさまでした。

竇融の従祖父

(竇)融見更始新立、東方尚擾、不欲出關、而高祖父嘗為張掖太守、從祖父為護羌校尉、從弟亦為武威太守、累世在河西、知其土俗、獨謂兄弟曰「天下安危未可知、河西殷富、帯河為固、張掖屬國精兵萬騎、一旦緩急、杜絶河津、足以自守、此遺種處也。」兄弟皆然…

王莽の服喪

王莽少與(班)穉兄弟同列友善、兄事斿而弟畜穉。 斿之卒也、修緦麻、賻賵甚厚。 (『漢書』巻一百上、叙伝上) あれ?もしかして王莽って班斿(班固の親族)の死に対して喪に服したという事か・・・? やっぱこれ王莽と班氏の間には血縁(姻戚)関係があっ…

王莽の母の実家は

t-s.hatenablog.com これまで何度か王莽と金氏(金日磾の一族)と班氏(班固の一族)の関係について書いてきた。 (金)當母南即莽母功顯君同産弟也。 (『漢書』巻六十八、金日磾伝) それらによると、王莽の母と金日磾の子孫金当の母は姉妹である。つまり…

班氏と王莽

哀帝即位、出(班)穉為西河屬國都尉、遷廣平相。 王莽少與穉兄弟同列友善、兄事斿而弟畜穉。斿之卒也、修緦麻、賻賵甚厚。 平帝卽位、太后臨朝、莽秉政、方欲文致太平、使使者分行風俗、采頌聲、而穉無所上。 琅邪太守公孫閎言災害於公府、大司空甄豐遣屬馳…

最年少三公

(王)根因乞骸骨、薦(王)莽自代、上遂擢為大司馬。是歳、綏和元年也、年三十八矣。 (『漢書』巻九十九上、王莽伝上) あの王莽は38歳で三公(大司馬)になったという。 ふと思ったが、この時点では漢の三公就任者最年少だったのが王莽だったりしない?

玉印

衛宏曰、「秦以前以金・玉・銀為方寸璽。秦以來天子獨稱璽、又以玉、羣下莫得用。其玉出藍田山、題是李斯書、其文曰『受命于天、既壽永昌』、號曰傳國璽。漢高祖定三秦、子嬰獻之、高祖即位乃佩之。王莽篡位、就元后求璽、后乃出以投地、上螭一角缺。及莽敗…

銀山

朱提銀重八両為一流、直一千五百八十。它銀一流直千。是為銀貨二品。 (『漢書』巻二十四下、食貨志下) 王莽の時に色々作った貨幣の中に銀もあった。 犍為郡朱提の銀は8両で銭1580枚相当、他の産地の銀は8両で1000枚相当とされたとのこと。 つま…

アイツが俺で俺は誰

中山國、高帝郡、景帝三年為國。莽曰常山。屬冀州。 (『漢書』巻二十八下、地理志下、中山国) 常山郡、高帝置。莽曰井關。屬冀州。 (『漢書』巻二十八上、地理志上、常山郡) 王莽は中山国を「常山」と改称し、常山郡を「井関」と改称した、らしい。 これ…

皇后史氏

三月辛巳朔、平林・新巿・下江兵將王常・朱鮪等共立聖公為帝、改年為更始元年、拝置百官。(王)莽聞之愈恐。欲外視自安、乃染其須髮、進所徴天下淑女杜陵史氏女為皇后、聘黄金三萬斤、車馬奴婢雜帛珍寶以巨萬計。 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下) 先日の…