銀山

朱提銀重八両為一流、直一千五百八十。它銀一流直千。是為銀貨二品。 (『漢書』巻二十四下、食貨志下) 王莽の時に色々作った貨幣の中に銀もあった。 犍為郡朱提の銀は8両で銭1580枚相当、他の産地の銀は8両で1000枚相当とされたとのこと。 つま…

アイツが俺で俺は誰

中山國、高帝郡、景帝三年為國。莽曰常山。屬冀州。 (『漢書』巻二十八下、地理志下、中山国) 常山郡、高帝置。莽曰井關。屬冀州。 (『漢書』巻二十八上、地理志上、常山郡) 王莽は中山国を「常山」と改称し、常山郡を「井関」と改称した、らしい。 これ…

皇后史氏

三月辛巳朔、平林・新巿・下江兵將王常・朱鮪等共立聖公為帝、改年為更始元年、拝置百官。(王)莽聞之愈恐。欲外視自安、乃染其須髮、進所徴天下淑女杜陵史氏女為皇后、聘黄金三萬斤、車馬奴婢雜帛珍寶以巨萬計。 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下) 先日の…

王禁の評判

陽平 王稚君、家在魏郡。故丞相史。女為太子妃。太子立為帝、女為皇后、故侯、千二百戸。初元以來、方盛貴用事、游宦求官於京師者多得其力、未聞其有知略廣宣於國家也。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表) 『史記』建元以来侯者年表は宣帝・元帝頃までの…

二人の帰徳侯その2

建武初、彭寵反畔於漁陽、單于與共連兵、因復權立盧芳、使入居五原。光武初、方平諸夏、未遑外事。至六年、始令歸徳侯劉颯使匈奴、匈奴亦遣使來獻、漢復令中郎將韓統報命、賂遺金幣、以通舊好。而單于驕踞、自比冒頓、對使者辭語悖慢、帝待之如初。 (『後漢…

匈奴育ちの列侯たち

『漢書』景武昭宣元成功臣表によれば、神爵3年に帰徳侯先賢撣が、五鳳2年に信成侯王定が、五鳳3年に義陽侯厲温敦が、いずれも匈奴からの降伏者として列侯に封建されている。 呼韓邪單于左大將烏厲屈與父呼遬累烏厲温敦皆見匈奴亂、率其衆數萬人南降漢。封…

繍衣御史の明暗

文・景間、(王)安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。為武帝繡衣御史、逐捕魏郡羣盜堅盧等黨與、及吏畏懦逗遛當坐者、翁孺皆縱不誅。它部御史暴勝之等奏殺二千石、誅千石以下、及通行飲食坐連及者、大部至斬萬餘人、語見酷吏傳。翁孺以奉使不稱免、嘆曰…

広川王の謎

夏四月、立代孝王玄孫之子如意為廣宗王、江都易王孫盱台侯宮為廣川王、廣川惠王曾孫倫為廣徳王。 (『漢書』巻十二、平帝紀、元始二年) 前漢平帝の時(王莽の時)、「広宗王」「広川王」「広徳王」が新たに建てられたのだという。 廣世 元始二年四月丁酉、…

爵位の法則性

帝高(竇)融功、下詔以安豐・陽泉・蓼・安風四縣封融為安豐侯、弟友為顯親侯。遂以次封諸將帥。武鋒將軍竺曾為助義侯、武威太守梁統為成義侯、張掖太守史苞為襃義侯、金城太守厙鈞為輔義侯、酒泉太守辛肜為扶義侯。 (『後漢書』列伝第十三、竇融伝) 河西…

3人の妹

平帝年二歳、孝王薨、代為王。 哀帝崩、無嗣、太皇太后與新都侯(王)莽迎中山王立為帝。莽欲顓國權、懲丁・傅行事、以帝為成帝後、母衛姫及外家不當得至京師。乃更立宗室桃郷侯子成都為中山王、奉孝王後、遣少傅左將軍甄豐賜衛姫璽綬、即拜為中山孝王后、以…

王莽時代の生存戦略

中山 元始元年二月丙辰、王成都以思王孫桃郷頃侯宣子立、奉中山孝王後。八年、王莽篡位、貶為公、明年、獻書言莽徳、封列侯、賜姓王。 (『漢書』巻十四、諸侯王表、東平思王宇) 王莽時代に王莽におべっかを使った元王は、昨日の魯王以外にもいた。 この中…

魯の神書

魯恭王餘以孝景前二年立為淮陽王。呉楚反破後、以孝景前三年徙王魯。好治宮室苑囿狗馬、季年好音、不喜辭。為人口吃難言。二十八年薨。 子安王光嗣、初好音樂輿馬、晚節遴、唯恐不足於財。四十年薨。 子孝王慶忌嗣、三十七年薨。 子頃王勁嗣、二十八年薨。 …

特異点

孔丘先生の子孫が「聖人の分家は本家になる」という理論で殷王の子孫として封建された綏和元年。 この年は、あの王莽が叔父たちを差し置いて初めて三公(大司馬)になった年で、あの哀帝が分家の王から皇太子に立てられた年でもあるんだな。 なんというか、…

芸は身を助ける

包咸字子良、會稽曲阿人也。少為諸生、受業長安、師事博士右師細君、習魯詩・論語。 王莽末、去歸郷里、於東海界為赤眉賊所得、遂見拘執。十餘日、咸晨夜誦經自若、賊異而遣之。 (『後漢書』列伝第六十九下、儒林列伝、包咸) 前漢末から後漢初にかけての儒…

若き県令

原渉字巨先。祖父武帝時以豪桀自陽翟徙茂陵。渉父哀帝時為南陽太守。 天下殷富、大郡二千石死官、賦斂送葬皆千萬以上、妻子通共受之、以定産業。時又少行三年喪者。 及渉父死、讓還南陽賻送、行喪冢廬三年、繇是顯名京師。禮畢、扶風謁請為議曹、衣冠慕之輻…

宋弘の妻その2

昨日の記事の主役、宋弘。 この人物は「糟糠の妻」の話で有名な人物でもある。 宋弘は主君である皇帝から、今の妻から皇帝の姉に乗り換えてはどうか、というMNPの誘いを「貧しい時を共にした妻を捨てるなんてとんでもない」と言って断った。 ところで、こ…

グッド・バイ

宋弘字仲子、京兆長安人也。父尚、成帝時至少府。哀帝立、以不附董賢、違忤抵罪。弘少而温順、哀平閒作侍中、王莽時為共工。赤眉入長安、遣使徴弘、逼迫不得已、行至渭橋、自投於水、家人救得出、因佯死獲免。 (『後漢書』列伝第十六、宋弘伝) 前漢末から…

ひとこと

後漢、魏、晋の皇帝で一番長寿だったのが光武帝で、その次が晋の武帝司馬炎なのか・・・。 蜀漢・呉や生前即位していない者も含めるとまた変わってくるけど。 なお新も含めると王莽がトップ。

烈祖様の先人

景初元年春正月壬辰、山茌縣言黄龍見。於是有司奏、以為魏得地統、宜以建丑之月為正。 三月、定暦改年為孟夏四月。服色尚黄、犧牲用白、戎事乗鄢首白馬、建大赤之旂、朝會建大白之旗。改太和暦曰景初暦。 (『三国志』巻三、明帝紀) 魏の明帝曹叡様こと烈祖…

初始と延康

三月、改元延康。 冬十月乙卯、皇帝遜位、魏王丕稱天子。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀) 建安25年、曹操が死んで曹丕が魏王になった直後、「建安」の元号が「延康」と改められた。 即皇帝位於成都武擔之南。為文曰「惟建安二十六年四月丙午、皇帝備敢用…

『漢書』成帝紀を読んでみよう:その16

その15(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180410/1523286276)の続き。

現代の巨無覇

ハンバーガーではなくhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170830/1504071564 拙ブログをトラックバックしていただいた。 そこで恥ずかしながら初めて知ったのだけれど、現代中国で「マクドナルドのビッグマック」のことを「巨无霸(巨無覇)」って言うんだそ…

情けは人のためならず

文・景間、(王)安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。 為武帝繡衣御史、逐捕魏郡羣盜堅盧等黨與、及吏畏懦逗遛當坐者、翁孺皆縱不誅。 它部御史暴勝之等奏殺二千石、誅千石以下、及通行飲食坐連及者、大部至斬萬餘人、語見酷吏傳。 翁孺以奉使不稱免、嘆…

謝らない県令

後特徴為洛陽令。時湖陽公主蒼頭白日殺人、因匿主家、吏不能得。及主出行、而以奴驂乗、(董)宣於夏門亭候之、乃駐車叩馬、以刀畫地、大言數主之失、叱奴下車、因格殺之。 主即還宮訴帝、帝大怒、召宣、欲箠殺之。宣叩頭曰「願乞一言而死。」帝曰「欲何言?…

酒は百薬の長

昨日とかの記事の後に思ったが、「酒は素晴らしい」と言いながら禁制を敷いた人物が他にも居たわ。 王莽。 「酒は百薬の長やから政府で管理して価格統制するやで〜」といった感じのことを言っていた。 で思ったが、曹操の(劉備のも同様だろうが)禁酒政策と…

五色の鳥

王莽時有大鳥如馬、五色龍文、與衆鳥數十、集于沛國蘄縣。 宣帝時鳳皇集于地、高五尺、與言「如馬」身高同矣。文章五色、與言「五色龍文」物色均矣。衆鳥數十、與言「倶集」「附從」等也。 如以宣帝時鳳皇體色、衆鳥附從安知鳳皇、則王莽所致鳥、鳳皇也。如…

王莽の瞳

虞舜重瞳、王莽亦重瞳。晉文駢脅、張儀亦駢脅。如以骨體毛色比、則王莽・虞舜、而張儀・晉文也。 (『論衡』講瑞) かの五帝のひとり舜は「重瞳」であったというが、王莽も「重瞳」であったのだ*1、と『論衡』は記す。 本当かどうかとかは何とも言えないが興…

巨無覇を超える巨人

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170509/1494255901 王莽の時代、「巨毋覇(巨無覇・巨母覇)」という名の大巨人(身長一丈)がいた、という話がある(架空の存在とも疑われているが)。 「身長2メートル以上とかあの時代にあるの?王莽はこれだから・・・」な…

元后の結婚相手

夫二相不鈞而相遇、則有立死。若未相適、有豫亡之禍也。 王莽姑正君許嫁、至期當行時、夫輒死。如此者再。乃獻之趙王、趙王未取又薨。清河南宮大有與正君父稺君善者、遇相正君曰「貴為天下母。」 是時、宣帝世、元帝爲太子、稺君乃因魏郡都尉納之太子、太子…

三か百か

漢伐亡新、光武將五千人、王莽遣二公將三萬人、戰于昆陽、雷雨晦冥、前後不相見。漢兵出昆陽城、撃二公軍、一而當十、二公兵散。 (『論衡』恢国篇) かの漢の世祖は王莽が派遣した王尋・王邑(二公)らの大軍を破った。 良く知られたこの話であるが、『論衡…