西安侯

及(樊)崇等欲立帝、求軍中景王後者、得七十餘人、唯(劉)盆子與茂及前西安侯劉孝最為近屬。 (『後漢書』列伝第一、劉盆子伝) かの劉盆子がくじ引きで皇帝に選ばれる際、城陽景王(劉章)に特に近い血筋として劉盆子兄弟の他に「前西安侯劉孝」なる人物…

ひとこと(南陽の劉氏)

新末の南陽の劉氏、そもそもが王莽の元々の領国もあるところなのにやけに反抗的なのスゲーって思う。 しかも安衆侯とか舂陵侯とかの本家筋が反王莽ガチ勢っぽいし。 既得権を奪われるという危機感があったからにしても、中々荒々しい。 先祖が景帝の子の中で…

長安留学

順陽懷侯嘉字孝孫、光武族兄也。父憲、舂陵侯敞同産弟。嘉少孤、性仁厚、南頓君養視如子、後與伯升倶學長安、習尚書・春秋。 (『後漢書』列伝第四、順陽懐侯嘉伝) へえ、後漢の初代皇帝の兄劉伯升(劉縯)は長安で学問を修めたのか。 皇帝になった弟の方が…

常に少ない

(公孫)述省書歎息、以示所親太常常少・光祿勳張隆。隆・少皆勸降。 (『後漢書』列伝第三、公孫述伝) 蜀の皇帝公孫述の大臣に「常少」という姓名の者がいたらしい。 「少」という名は珍しいし、それに「常」という姓が加わると文章の一部のように見えてく…

ハム子

(公孫)述夢有人語之曰「八厶子系、十二為期。」覺、謂其妻曰「雖貴而祚短、若何?」妻對曰「朝聞道、夕死尚可、況十二乎!」 會有龍出其府殿中、夜有光耀、述以為符瑞、因刻其掌、文曰「公孫帝」。 建武元年四月、遂自立為天子、號成家。 (『後漢書』列伝…

ひとこと(琅邪)

琅邪郡(国)って、新から後漢の時も、後漢から三国にかけての時も、割と特別な立ち位置だったんだな。 新の時は赤眉関係の発祥の地だし、後漢末の時は曹嵩の疎開、おなじみ諸葛亮の出身と、これはこれでまあまあ特殊な立ち位置に思える。 どうもその後ずっ…

120人の彼女

郎陽成脩獻符命、言繼立民母、又曰「黄帝以百二十女致神僊。」(王)莽於是遣中散大夫・謁者各四十五人分行天下、博采郷里所高有淑女者上名。 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇二年) 王莽は臣下の「黄帝は彼のことが大大大大大好きな120人の彼女に…

二枚舌外交の犠牲者

t-s.hatenablog.com 厭難將軍陳欽言、捕虜生口虜犯邊者皆孝單于咸子角所為。(王)莽怒、斬其子登於長安、以視諸蠻夷。 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国四年) 先日の王莽の先生陳欽の転機。 新を攻めていた匈奴から「この攻撃は孝単于の子の角がや…

鄭と魯

t-s.hatenablog.com 前漢は周王の末裔を封建していたが、王莽の頃にその諸侯を「鄭公」と改称していた。 周王朝時代の鄭は確かに周王の血族が封建された国なので、それを踏まえたものだろうとは思う。 ほぼ同時期に、殷王の末裔とされる者の国は周が殷王の末…

悲しき教師

(胡)常授黎陽賈護季君、哀帝時待詔為郎、授蒼梧陳欽子佚、以左氏授王莽、至將軍。 (『漢書』巻八十八、儒林伝) 前漢末期、蒼梧の人陳欽なる人物は左伝を王莽に教えた人物で、将軍になったという。 遣五威將軍苗訢・虎賁將軍王況出五原、厭難將軍陳欽・震…

王会宗

(王)莽曰「(王)宗屬為皇孫・・・(中略)・・・宗本名會宗、以制作去二名、今復名會宗。・・・(後略)」 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、天鳳五年) 王莽の孫の王宗は、元は「王会宗」という名だったという。 封(王)宇子六人。千為功隆公、壽為功明…

王莽の子

會(王)莽妻病困、(王)臨予書曰「上於子孫至嚴、前長孫・中孫年倶三十而死。今臣臨復適三十、誠恐一旦不保中室、則不知死命所在!」 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇二年正月) 王莽の子の王臨によると、王臨の兄二人(長孫・中孫)は30歳で死ん…

ひとこと(新嘉辟)

そういえば、王莽の子の王安が新王朝で最初になっていたと思われる「新嘉辟」って、公・侯・伯・子・男の五等爵の中に位置づけられていないのだと思うが、これはもしかして五等爵より上の存在を意味する厚遇ではなく、五等爵より下の地位という意味合いの称…

信遷公

襃新 侯(王)安、元始四年四月甲子、以(王)莽功侯、二千戸。莽篡位、為信遷公、病死。 (『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表、新都侯) 初、(王)莽妻宜春侯王氏女、立為皇后。本生四男。宇・獲・安・臨。二子前誅死、安頗荒忽、乃以臨為皇太子、安為新嘉辟。…

賞金首

大赦天下、然猶曰「故漢氏舂陵侯羣子劉伯升、與其族人婚姻黨與妄流言惑衆、悖畔天命、及手害更始將軍廉丹・前隊大夫甄阜・屬正梁丘賜、及北狄胡虜逆輿洎南僰虜若豆・孟遷、不用此書。有能捕得此人者、皆封為上公、食邑萬戸、賜寶貨五千萬。」 (『漢書』巻九…

同じ郡2

t-s.hatenablog.com そういや、項羽と劉邦が同じ郡の人間だったように、王莽と後漢世祖もまた同じ南陽郡の人間だった。 厳密には王莽のいわゆる本貫は魏郡元城だが、王莽の領国で数年間実際に住んでいた新都侯国は南陽郡新野県を分割したものなのである。 し…

ひとこと(王を置かず)

t-s.hatenablog.com 昨日の話だが、王を置かずに五等爵だけでやろうとしていたのは、王莽もそうだった気がする。 あの当時の思想的な背景には王莽と同じものがあったのだろうか?なんとなく。

宗卿師

父(李)守、身長九尺、容貌絶異、為人嚴毅、居家如官廷。初事劉歆、好星歴讖記、為王莽宗卿師 。 【注】 平帝五年、王莽攝政、郡國置宗師以主宗室、蓋特尊之、故曰宗卿師也。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 後漢初の李通の父李守は「宗卿師」と呼ばれてい…

始祖

孫堅って「始祖」という廟号なのか。 「烈祖」と同じく、これまで無かったオリジナル廟号だと思う。 ただ、王莽が先祖の「九廟」として「帝虞始祖昭廟」というのを決めているようなので、全く前例がないわけでもないか。

王莽と伊尹

王莽は皇帝になった直後、漢・周・殷・夏の天子、五帝の子孫の他に、孔丘先生と周公旦と伊尹の子孫を諸侯として封建している。 孔丘先生と周公旦については王莽からすると尊重して当然なのだろうが、天子の廃立を行ったとされる伊尹も同列というのはちょっと…

母の姓

劉邦の母の実家の姓は不明だったと思う。 王莽の母の実家の姓も不明だったと思う。 曹操の母の実家の姓も同様に不明である。父曹嵩の正妻は丁氏とされるが、だからといって曹操の母であったかどうかは不明である(その可能性が高いとは思うが)。 つまり、漢…

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

先進事例

王莽は漢の元帝に「高宗」、成帝に「統宗」、平帝に「元宗」という廟号を贈っている。 これにより、前漢の皇帝は特別な廟号を持たない者の方が少ない状態になっている。 後の時代に皇帝廟に残らず廟号が贈られるようになるのは、王莽が嚆矢だと言えるのでは…

御史から執法

曹魏では「御史」のことを「執法」と改称したらしいと述べたが、同様に「御史」を「執法」と改称した王朝がある。 改郡太守曰大尹、都尉曰太尉、縣令長曰宰、御史曰執法、公車司馬曰王路四門、長樂宮曰常樂室、未央宮曰壽成室、前殿曰王路堂、長安曰常安。 …

反対の理由2

荀彧の反対について考えるといつも思うのだが、数県分の戸数だったとはいえ名目上は県侯だった曹操がいきなり10郡を領土とするというのは数足飛びと言うほか無く、荀彧のように懸念を表するのも無理からぬことではないだろうか。 これだけの領土や戸数を一…

王莽と曹操の共通点

初、侍中高堂隆論郊祀事、以魏為舜後、推舜配天。(蔣)濟以為舜本姓媯、其苗曰田、非曹之先、著文以追詰隆。 (『三国志』巻十四、蔣濟伝) へえ、高堂隆は魏の曹氏を舜の子孫と認定しようとしたのか。 公式には魏の曹氏は邾に封建された黄帝の末裔というこ…

王莽か袁術か

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」 (『三国志』巻…

ひとこと

王莽が数え38歳にして三公になったというの、これたぶん当時としては異例の若さなんじゃないかなあ・・・。 霍去病みたいな例もあるから前例がないわけじゃないだろうが。 その後の董賢といい、前漢末期には「若くてイキのいい奴を三公にしてみよう」みた…

王莽時代の交阯太守

初、平帝時、漢中錫光為交阯太守、教導民夷、漸以禮義、化聲侔於延。王莽末、閉境拒守。建武初、遣使貢獻、封鹽水侯。 (『後漢書』列伝第六十六、循吏列伝、任延) 魏興郡、本漢中西城縣。哀平之世、縣民錫光、字長冲、為交州刺史、徙交阯太守。王莽簒位、…

ふと思っただけ

又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘凡戸萬地方百里為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命徳茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国元年正月) そういえば、…