母の姓

劉邦の母の実家の姓は不明だったと思う。 王莽の母の実家の姓も不明だったと思う。 曹操の母の実家の姓も同様に不明である。父曹嵩の正妻は丁氏とされるが、だからといって曹操の母であったかどうかは不明である(その可能性が高いとは思うが)。 つまり、漢…

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

先進事例

王莽は漢の元帝に「高宗」、成帝に「統宗」、平帝に「元宗」という廟号を贈っている。 これにより、前漢の皇帝は特別な廟号を持たない者の方が少ない状態になっている。 後の時代に皇帝廟に残らず廟号が贈られるようになるのは、王莽が嚆矢だと言えるのでは…

御史から執法

曹魏では「御史」のことを「執法」と改称したらしいと述べたが、同様に「御史」を「執法」と改称した王朝がある。 改郡太守曰大尹、都尉曰太尉、縣令長曰宰、御史曰執法、公車司馬曰王路四門、長樂宮曰常樂室、未央宮曰壽成室、前殿曰王路堂、長安曰常安。 …

反対の理由2

荀彧の反対について考えるといつも思うのだが、数県分の戸数だったとはいえ名目上は県侯だった曹操がいきなり10郡を領土とするというのは数足飛びと言うほか無く、荀彧のように懸念を表するのも無理からぬことではないだろうか。 これだけの領土や戸数を一…

王莽と曹操の共通点

初、侍中高堂隆論郊祀事、以魏為舜後、推舜配天。(蔣)濟以為舜本姓媯、其苗曰田、非曹之先、著文以追詰隆。 (『三国志』巻十四、蔣濟伝) へえ、高堂隆は魏の曹氏を舜の子孫と認定しようとしたのか。 公式には魏の曹氏は邾に封建された黄帝の末裔というこ…

王莽か袁術か

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」 (『三国志』巻…

ひとこと

王莽が数え38歳にして三公になったというの、これたぶん当時としては異例の若さなんじゃないかなあ・・・。 霍去病みたいな例もあるから前例がないわけじゃないだろうが。 その後の董賢といい、前漢末期には「若くてイキのいい奴を三公にしてみよう」みた…

王莽時代の交阯太守

初、平帝時、漢中錫光為交阯太守、教導民夷、漸以禮義、化聲侔於延。王莽末、閉境拒守。建武初、遣使貢獻、封鹽水侯。 (『後漢書』列伝第六十六、循吏列伝、任延) 魏興郡、本漢中西城縣。哀平之世、縣民錫光、字長冲、為交州刺史、徙交阯太守。王莽簒位、…

ふと思っただけ

又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘凡戸萬地方百里為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命徳茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国元年正月) そういえば、…

元皇帝の処遇

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年) 又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戸萬、地方百里、為定安公國。…

ひとこと

そういえば、王莽の母(功顕君)って、姓(実家)わかってたかな・・・。 血族王氏を重用していたように、母の一族すなわち外戚も重用しそうなもの。 それともワイが忘れてるだけかな・・・?

宛の李氏と安衆の劉氏

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 『後漢書』李通伝に、後漢明帝が宛に行幸した時、宛の李氏たちに対して安衆県の劉氏たち(先…

安衆侯一族

劉隆字元伯、南陽安衆侯宗室也。王莽居攝中、隆父禮與安衆侯崇起兵誅莽、事泄、隆以年未七歳、故得免。 及壯、學於長安、更始拝為騎都尉。謁歸、迎妻子置洛陽。聞世祖在河内、即追及於射犬、以為騎都尉、與馮異共拒朱鮪・李軼等、軼遂殺隆妻子。建武二年、封…

劉宣と劉寵

初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。 休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以…

功臣安衆侯

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 【注】 安衆、縣、屬南陽郡。故城在鄧州東。謝承書曰「安衆侯劉寵、長沙定王五代孫、南陽宗室也。與宗人討莽安功、隨光武河北…

安衆侯と舂陵侯

前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。 侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。 侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。 建武十三年、侯松嗣。 今見。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹) この安衆侯は後漢最初期に復興されてい…

武骨者の一族

舂陵侯や安衆侯らの前漢長沙王系統、かの更始帝劉玄、斉王劉縯(伯升)、反乱者翟義の親族と繋がっていた舂陵侯劉敞(舂陵侯本家)、敵討ちが原因で官吏に殺された兄の仇を討った安成侯劉賜、ガチの反乱者安衆侯劉崇など、なぜか前漢末や新の時代にやけに血…

兄の嘲笑

性勤於稼穡、而兄伯升好俠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。 (『後漢書』紀第一上、光武帝紀上) 後漢初代皇帝は農業にいそしみ、反社勢力に両足突っ込んでいた兄からは馬鹿にされていたのだ、という話がある。 t-s.hatenablog.com このあたりの話だ…

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

武皇帝

新たな王朝の号(王莽の「新」とか曹氏の「魏」とか)については、ほとんどの場合、その王朝の開祖が皇帝になる時点でなっていた諸侯の国号から取るのが通例であるようだ。 「漢王」劉邦が皇帝になると「漢」王朝となるし、「新都侯」王莽が皇帝になると「新…

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

謝と射

三輔決録注曰、(射)援字文雄、扶風人也。其先本姓謝、與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征、天子以謝服非令名、改為射、子孫氏焉。兄堅、字文固、少有美名、辟公府為黄門侍郎。獻帝之初、三輔饑亂、堅去官、與弟援南入蜀依劉璋、璋以堅為長史。劉備代璋、…

小泉

王莽時代の銭「小泉直一」は「日本人の人名に思えるけど全く意味の違う言葉」ランキング1位じゃないかと思う。

最初の禅譲

いわゆる五帝、『史記』五帝本紀によると「黄帝」「帝顓頊」「帝嚳」「帝堯」「帝舜」。 『史記』五帝本紀による限り、顓頊は黄帝の孫とされている。 帝嚳は黄帝の曽孫とされている。 堯は帝嚳の子とされている。 舜は顓頊の七代目の子孫とされている。 つま…

ブダペスト

太后留(劉)歆為右曹太中大夫、遷中壘校尉、羲和、京兆尹、使治明堂辟雍、封紅休侯。典儒林史卜之官、考定律暦、著三統暦譜。 (『漢書』巻三十六、劉歆伝) かの王莽の腹心劉歆は「紅休侯」に封建された。 初、休侯富既奔京師、而王戊反、富等皆坐免侯、削…

造義侯

萬脩字君游、扶風茂陵人也。更始時、為信都令、與太守任光・都尉李忠共城守、迎世祖、拝為偏將軍、封造義侯。及破邯鄲、拝右將軍、從平河北。建武二年、更封槐里侯。 (『後漢書』列伝第十一、万修伝) 後漢最初期の将だった万修なる人物は、最初に「造義侯…

寿良

又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月) 王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。 東郡。秦置。…

幻の列侯

是歲廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。 京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。 十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不…

王莽時代の列侯

『漢書』外戚恩沢侯表などを見ていると、それまで列侯は一応地名に沿った名(「宜陵侯」「長平侯」のように)なのだが、平帝つまり王莽の時代になると急速に「扶徳侯」「広陽侯」「明統侯」といった、嘉名や何らかの意味を持たせた名の列侯が増えてきている…