2024-10-01から1ヶ月間の記事一覧
昨日話題にした薛悌は22歳にして泰山太守になった。 張遼は魯相(太守と同格)になった時に28歳だったと記録される。 李典は官渡の戦いの頃に離狐太守になったというが、彼の没年36歳から考えると、この太守になった時はまず確実に20代だろう。 つま…
先日来記事にしている合肥を統率していたのは護軍薛悌だったと思われるが、この護軍薛悌はあの兗州最大の危機(曹操が徐州に行っている間に呂布に攻められて負けそうになり、夏侯惇が人質になったりしたヤツ)の時の兗州従事で、その後も22歳にして泰山太…
昨日の続きのようなもの。 合肥の戦いについて、別の面から考えてみる。 張遼と李典に共通するのは、自前の兵を持っていたのではないか、という点だ。 張遼は呂布に従っていた時からの兵をそのまま率いていた可能性があると思う(だから強かったのではないか…
昨日の続きみたいなもの。あるいはもう一つの考え。 太祖既征孫權還、使(張)遼與樂進・李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯、教與護軍薛悌、署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬眾圍合肥、乃共發教、教曰「若孫權至者、張・李將軍出戰。樂將軍守護軍、勿得…
太祖既征孫權還、使(張)遼與樂進・李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯、教與護軍薛悌、署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬眾圍合肥、乃共發教、教曰「若孫權至者、張・李將軍出戰。樂將軍守護軍、勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰「公遠征在外、比救至、彼破…
「検事正」の「正」って、もしかして秦漢の廷尉の属官の「廷尉正」から来てたりする?
あれ、今日はまだ何も書いてなかったか・・・。まあしゃーない。
昨日の話の続きになるけど、鍾繇の方が司馬懿より先に太尉や太傅になっているんだった。 司隷校尉として功績を立てたのも、司馬懿が本格的に曹操の元で頭角を現すよりずっと先と言っていい。 こういったところから、鍾繇の息子鍾会からしたら、司馬懿の息子…
父は要職を歴任し、三公である太尉を経てその上の太傅にまで至った。 兄も父に負けずに要職を歴任し、弟も負けじと要職に就いて最終的には蜀を征服することとなった。 あれ?思った以上に司馬氏なのか鍾氏なのかわからなくなったぞ?
鍾会からすると、父は関中を抑えた司隷校尉で、兄も青州・徐州・荊州の刺史や都督で、自分は都督関中となって征蜀の司令官ということになる。 2代3人で要職を占めてきたという、司馬氏と似たような経歴になっていたわけだ。 蜀の空気を吸うだけで高く跳べ…
そういえば、鍾毓が死ぬ直前まで在官だったとしたら、西では鍾会が都督関中、東では鍾毓が荊州都督と、東西でまあまあ重要そうな都督を兄弟で占めていたことになるのか・・・。 地味になかなかないことのような気がする。 兄弟揃ってとなると、この時代には…
今まで正直言って鍾会の方に目が行ってて、兄の鍾毓も諸葛誕の反乱後の青州刺史となり、都督徐州諸軍事に転任し、最終的には都督荊州に至っていた。 これ、どこも係争の地であることを考えるとなかなかの要職ではないか。 都督荊州といえば後に晋皇帝と関係…
明日、というか今日は少々忙しいので今宵は寝る。お休み。
漢では実際に帝位に就かなかった者は皇帝の父であっても称号や諡は「皇」であって「帝」は付けていなかった。 魏では曹操・曹嵩・曹騰に「帝」号を贈っており、明らかに漢と違っている。 劉協(献帝)にすら「帝」を贈らないことを提案する者(王粛)すらい…
鍾繇の子が鍾毓・鍾会以外ほとんど名前すら残っていない理由、上の子供やその母である当時の正妻一族がかの魏諷の事件で関わってしまって廃嫡・離縁になり、ほとんど存在しないもの扱いになってしまった説。
何か疲れて眠いので・・・お休み・・・。 最近は気温の変化が大きいせいか、体調がいいような悪いような微妙な感じ。
鍾毓の字って「稚叔」だそうで、一般的な事例からすると兄が何人かいそうだな。 つまり、鍾繇にとっての長男ではなかったのだろう。 兄は先に死んだのか、それとも兄は庶子、鍾毓は嫡子という扱いになったのか。 そう考えてみると、鍾会の養子となっていた「…
昨日の話だが、よくよく考えてみると、鍾会の「兄子」が鍾毓を指すとは限らないかもしれないな。 鍾会には鍾毓以外にも兄がいたかもしれないからだ。鍾会の父というとあの畜生鍾繇なので、庶子が他にいてもさほどおかしくもないだろう。 助命されたのは「鍾…
(鍾)會兄子邕、隨會與倶死。 會所養兄子毅及峻・辿等下獄、當伏誅。司馬文王表天子下詔曰「峻等祖父繇、三祖之世、極位台司、佐命立勳、饗食廟庭。父毓、歴職内外、幹事有績。昔楚思子文之治、不滅鬭氏之祀。晉録成宣之忠、用存趙氏之後。以會・邕之罪、而…
帝患之、使主簿師纂為(鄧)艾司馬以喻之、艾乃奉命。 (『晋書』巻二、文帝紀) 鄧艾の蜀攻めの時の司馬師纂は鄧艾の子飼いではなく、司馬昭から蜀攻めに同意させるために送り込まれた人物なんだな。 司馬昭による「お目付け役」であるとも言える。 鍾會・…
議郎段灼上疏理(鄧)艾曰「艾心懷至忠而荷反逆之名、平定巴蜀而受夷滅之誅、臣竊悼之。惜哉、言艾之反也!艾性剛急、輕犯雅俗、不能協同朋類、故莫肯理之。・・・(後略)・・・ (『三国志』巻二十八、鄧艾伝) 晋になってからの段灼による鄧艾の名誉回復…
今日はちょっとおやすみ・・・。
そういえば、鍾会は鄧艾の発言を偽る手紙を作ったというから、蜀漢における鄧艾の発言、進言とされるものの中には鍾会の創作や誇張もあったかもしれないな・・・。 ただ、すべて終わった後で検証もできたはずだし、蜀漢側の記録なども参照できたかもしれない…
鄧艾は諸葛瞻を降伏させようとして「お前も琅邪王にならないか?」と言ってみたり、司馬昭に対して劉禅を扶風王にしようと言ってみたりしたという。 この時期において宗室でもない人間の「王」というのは本来ありえない存在(孫権は曹丕から呉王に封建されて…
項伯即入見沛公。沛公奉卮酒為壽、約為婚姻。 (『史記』巻七、項羽本紀) 沛公劉邦はかの「鴻門の会」に際し、劉邦一行の危機を教えてくれた項伯との縁組を約束した、という。 この約束は果たされたのだろうか? というのは、項伯は項羽死後に「劉氏」を賜…
劉備が益州を平定した直後頃の広漢太守夏侯纂(『三国志』秦宓伝)とか、呂蒙を告発したという江夏太守蔡遺(『三国志』呂蒙伝)とか、事績とかがまるでないからよく分からないけれど、当時の勢力で考えると太守やってるヤツって結構高い地位なのではないだ…
劉備「このくそったれ魏王朝の首から下は、わしの先祖が作った漢王朝をのっとったものなのじゃあああーあああ!!」
「大河郡」とか「平干国」とかのレアな郡国名大好き。 平干国なんかは由来も良く分からないのがすごくいい。
父が大貴族の当主に恩を売った関係で、父の死後にその大貴族の家で育てられた。 その大貴族は彼の能力を見込んで大事に育てた。 しかしその大貴族には実子がいるので、自分がどれだけ優れていたとしても普通の方法で後継ぎになったりすることはない。 曹真と…
前漢の王はやらかすと大抵は房陵(漢中郡)に送られるんだな。 最終的には房陵は漢の諸侯王の子孫だらけになっていたのでは?