袁尚が曹操と黎陽で戦っていた頃ということは建安七年秋から八年春にかけてのことだろうか。
この時期、袁尚は河東方面へも手を伸ばしたらしい。
この時に袁尚が河東太守として郭援を独自に任命したということは、元から居る河東太守王邑とは競合することになる。
王邑はこの時点では曹操の側だったということだろう。
しかし、前回の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100718/1279384944)で書いたように、王邑と河東郡はその後曹操の送り込んだ杜畿を拒絶する態度を取り、衛固の反乱を招いた。
曹操・鍾繇は杜畿を送り込む過程で河東郡の離反を招いたとも言えるし、河東郡の事情など斟酌せず力で押さえ込んだとも言える。
また、見方を変えると、郭援の時には曹操はまだ河東郡を本当の意味で自分の勢力下には置いていなかったとも言えるかもしれない。