三国

ひとこと

昨日の話でふと思ったが、劉備だったり袁術だったり袁紹だったりが故吏になっている者が曹操の元に落ち着いた場合、その後の言動によっては「故吏に対して冷たい恩知らず」みたいな印象になりかねないところがあったのかもしれないな。 曹操の元ではその沈ん…

劉備、死す

時有傳劉備死者、羣臣皆賀。(袁)渙以嘗為備舉吏、獨不賀。居官數年卒、太祖為之流涕。 (『三国志』巻十一、袁渙伝) この「劉備が死んだという報告を聞いた曹操の臣下たちはみな慶賀したが、かつて劉備の推挙という恩を受けた袁渙だけは慶賀しなかった」…

畜将

曹魏の青州刺史、征北将軍の程喜は、田予と杜恕を陥れていて当時そういう人物として有名だったようだが、そんな彼が結構出世し、逆に杜恕に至っては処刑されかかったという。 田予は田予で幽州刺史王雄の関係者に讒言されたというし、なんというか・・・畜生…

魏文帝評の評価

昨日の記事から考えると、陳寿は『三国志』の中で魏文帝曹丕を人徳に欠けた暴君として扱った、と言ってもいいのだろうと思う。 この陳寿評が晋の当時どう受け止められたのかは想像するしかないが、こういった証言があるのは参考になるのかもしれない。 夏侯…

亡国の君主とは

(韓)歆字翁君、南陽人。以從攻伐有功、封扶陽侯。好直言、無隠諱、帝毎不能容。嘗因朝會、聞帝讀隗囂・公孫述相與書、歆曰「亡國之君皆有才、桀・紂亦有才。」帝大怒、以為激發。歆又證歳將飢凶、指天畫地、言甚剛切、坐免歸田里。帝猶不釋、復遣使宣詔責…

近場で済ませる

(黄初)六年春二月、遣使者循行許昌以東盡沛郡、問民所疾苦、貧者振貸之。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初六年) 魏文帝は使者を遣わし、民が苦しんでいることを聴取し、貧しい者へは施しを行った、という。 これ、許昌(そのころ文帝がいた)から沛郡まで…

格差社会

張遼は魏文帝が即位して1,000戸加増されて2,600戸になったのか。 つまり魏になる前は最大で1,600戸か。 それに対して曹植は昨日の仮説が正しければ当初から5,000戸で、その後魏になる前の時点で10,000戸まで加増。 いくら丞相の息…

領土返上の裏側

何度か話題にしている建安十五年十二月己亥令だが、この中で言っていたように令の翌年である建安16年に息子たちが封建されている。 詳しくはここの記事を参照してもらえばいいと思う。 建安十六年、封平原侯。 十九年、徙封臨菑侯。 太祖征孫權、使植留守…

返上宣言と2万戸の行方

昨日の話の後、もう少し考えてみた。 よくよくあの建安十五年十二月己亥令について考えてみると、あれは「公」の「令」とされている。 つまり曹操による命令、布告ということになる。 だが、よくよく考えてみると、曹操の武平侯3万戸は形式上は皇帝から封建…

ひとこと

『後漢紀』は曹操の武平侯の戸数の増加について割と詳しく書いている。 だが、建安15年については何も書かれておらず、曹操による2万戸返上の事が記録されていないようだ。 たまたまかもしれないし、何か意図や理由があるのかもしれないが、なかなか面白…

計算外

是後、太祖拒袁紹於官渡、紹遣人招(張)繡、并與(賈)詡書結援。繡欲許之、詡顯於繡坐上謂紹使曰「歸謝袁本初、兄弟不能相容、而能容天下國士乎?」繡驚懼曰「何至於此!」竊謂詡曰「若此、當何歸?」詡曰「不如從曹公。」繡曰「袁彊曹弱、又與曹為讎、從…

無力な皇帝

董承女為貴人、(曹)操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有𡜟、累為請、不能得。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后) 董承の娘は献帝の側室(貴人)であったが、董承らの曹操暗殺計画が発覚し董承が殺される時、曹操は一緒にこの董貴人も殺すつもりで…

ひとこと

曹操が劉表を攻める段階では、孫権は基本敵対的ではなかったはずだし、遼東の公孫氏も益州の劉璋も同様。 関中は司隷校尉の元小康状態ではあったと言えそうだし、涼州にしても州牧韋氏はある程度均衡を保っていたように思われる。 つまり曹操に明確に敵対し…

嘘と沈黙

少し前に読んでみた「建安十五年十二月己亥令」について、孫権や劉備の事は「江湖未靜」といった表現でしか言及されていない。 公至赤壁、與(劉)備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。 (『三国志』巻一、武帝紀) そこで思うのは、曹操が赤壁で戦…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

曹操と司馬氏の戸数

司馬懿は曹爽排除後に領土2万戸とされ、死ぬ直前には5万戸と郡公を与えられたとされているんだな。 郡公は辞退したとされるが。 司馬師は3万1千戸から9千戸の加増で4万戸とされている。 なんだか曹操の武平侯時代よりも多いようにも感じるが、復興によ…

100万戸の男

曹操の魏公国は「河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原」の10郡からなる。 『続漢書』郡国志によれば、各郡の戸数は以下の通り。 河東:93,543戸河内:159,770戸魏:129,310戸趙:32,719戸中山:97,…

ひとこと

『三国志』って曹操の武平侯国の戸数まるで書いてないんじゃ・・・。 ついでに二度加増受けて一度2/3返上したことも書いてないんじゃ・・・。 隠蔽の類というよりは、『三国志』全体の方針かもしれんけど。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その5

その4の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その4

その3の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その3

その2の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その2

その1の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その1

唐突だが、後漢末建安15年に曹操が出した「十二月己亥令」について検討してみようと思う。 まず前提として、この年はあの赤壁の戦いから2年ほど経っている時期であり、また数年前に曹操は「負けた将は罰を与え爵位を奪う」との命令を出している、というこ…

ひとこと

いわゆる孫呉において、「呉侯」は「孫策の子孫」、「太子孫登の子孫」、「魯王孫覇の子孫」という順で封建されてるのか。 前の系統が取り潰しになると、その時において「当時の天子から見て特別扱いすべき血統」に対して贈られる、みたいになってたのかもし…

ひとこと

(天紀)三年夏、郭馬反。・・・(中略)・・・晧又遣徐陵督陶濬將七千人從西道、命交州牧陶璜部伍所領及合浦・鬱林諸郡兵、當與東西軍共撃馬。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀三年) 徵為執金吾。廣州部曲督郭馬等為亂、(孫)晧以(滕)脩宿有威惠、…

拷問酒造

書奏、(孫)晧深恨之。(賀)邵奉公貞正、親近所憚。乃共譖邵與樓玄謗毀國事、倶被詰責、玄見送南州、邵原復職。 後邵中惡風、口不能言、去職數月、晧疑其託疾、收付酒藏、掠考千所、邵卒無一語、竟見殺害、家屬徙臨海。并下詔誅玄子孫。是歲天冊元年也、邵…

消された子

會稽典録曰、謝淵字休徳。少修徳操、躬秉耒耜、既無慼容、又不易慮、由是知名。舉孝廉、稍遷至建武將軍、雖在戎旅、猶垂意人物。 駱統子名秀、被門庭之謗、衆論狐疑、莫能證明。淵聞之歎息曰「公緒早夭、同盟所哀。聞其子志行明辯、而被闇昧之謗、望諸夫子烈…

愛妾の実家

九州春秋曰、司隸馮方女、國色也、避亂揚州、(袁)術登城見而悦之、遂納焉、甚愛幸。諸婦害其寵、語之曰「將軍貴人有志節、當時時涕泣憂愁、必長見敬重。」馮氏以為然、後見術輒垂涕、術以有心志、益哀之。諸婦人因共絞殺、懸之廁梁、術誠以為不得志而死、…

王なき国の主

成立二年薨、子愍王意嗣。陽嘉元年、封意弟八人為郷・亭侯。中平元年、意遭黄巾、弃國走。賊平復國、數月薨。立五十七年、年九十。 子哀王宜嗣、數月薨、無子、建安十一年國除。 (『後漢書』列伝第四十、下邳惠王衍伝) 後漢末の「下邳王」劉意は、中平年間…

泰山郡変遷

(中平)三年、舉高第、再遷、六年、拝太山太守。初平二年、黄巾三十萬衆入郡界。(應)劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千両、賊皆退却、郡内以安。興平元年、前太尉曹嵩及子徳從琅邪入太山、劭遣兵迎之、未到、而徐州牧陶謙…