三国

蜀漢3代目(仮)

後主立太子(劉)璿、以(霍)弋為中庶子、璿好騎射、出入無度、弋援引古義、盡言規諫、甚得切磋之體。 (『三国志』巻四十一、霍弋伝) 蜀漢の霍弋は皇太子劉璿(劉禅の子)が狩猟好きでやたらと出かけるのを諫めたという。 つまり皇太子劉璿は魏の文帝のよ…

ひとこと

列侯の国(県)の長官は「相」なのだが、曹操の「武平侯」にも「相」がいたんだろうか? どうも『三国志』等にはその存在を示す記事が無いように思うが、実際にはいたんだろうな・・・。 あと最大4県分の侯になってたわけだが、それぞれに「県令」または「…

ひとこと

曹操が最初の挙兵の時に兵5000を集めたのも多分かなりのものなのだが、サラッと「家兵1000以上」を持っていた曹洪ってかなりすごいのでは・・・。下手すると戦乱の前からそれくらいの家兵(隷民)を抱えていたということになるのかもしれない。 曹操…

ひとこと

しかし、かつての恩への対価として贔屓した琅邪王が、詳細不明ながら最終的には背く形になっているの、何というか無常感がある。 建安21年か22年頃の事らしいので、魏公や魏王になったことで心が離れたか?

私物化

(建安十一年)秋八月、公東征海賊管承、至淳于、遣樂進・李典撃破之、承走入海島。割東海之襄賁・郯・戚以益瑯邪、省昌慮郡。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安十一年) 初、(劉)邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。建安十一年、復立(劉…

白馬県民の立場

袁紹と曹操の争奪の対象となった白馬県だが、袁紹が占領した場合には、ある程度の乱暴狼藉は起こるだろうが、占領行政のため、ある程度平穏に占領を進める可能性は大いにあるだろう。 そもそも、袁紹だって今後支配を固めていく上では、漢王朝に属する民を手…

白馬の民

使張遼・關羽前登、撃破、斬(顔)良。遂解白馬圍、徙其民、循河而西。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安五年) 曹操は袁紹に包囲された白馬県の民を移住させた、という。 袁紹に取られないようにしたということだろう。 ところで、この移住した(させられた…

同一人物説

(曹)仁果遣其子泰攻濡須城、分遣將軍常雕・督諸葛虔・王雙等、乗油船別襲中洲。中洲者、部曲妻子所在也。仁自將萬人留橐皋、復為泰等後拒。(朱)桓部兵將攻取油船、或別撃雕等、桓等身自拒泰、燒營而退、遂梟雕、生虜雙、送武昌、臨陳斬溺、死者千餘。(…

消滅州

曹操の時、建安18年に涼州と并州は合併によって消滅したとされる。 (馬)超果率諸戎以撃隴上郡縣、隴上郡縣皆應之、殺涼州刺史韋康、據冀城、有其衆。超自稱征西將軍、領并州牧、督涼州軍事。 (『三国志』巻三十六、馬超伝) その前年頃、天水郡冀県を占…

ひとこと

今ふと思っただけだし、ちゃんと前後関係とか調べてないんだけど、官渡直前に劉備が徐州で曹操に背いた時に曹操は劉備をすぐ叩いているが、結局徐州の反乱を鎮圧してもなお兗州方面には袁紹側の兵が攻め寄せていて現地に駐屯する程昱は防戦もままならない状…

はい出てくる過去

そういえば、王朗・王粛の出自である東海郡は曹操の殺戮行で被害を受けた地域の一つだな。 つまり司馬昭の正妻王氏は「曹氏の過去の所業に含むところがあったかもしれない一族」ということだ。 荀彧の子孫たちや王祥、鄧艾などもそうだろう。司馬炎の正妻楊…

曹植と曹彰

續漢書曰「人有白(楊)脩與臨淄侯曹植飲醉共載、從司馬門出、謗訕鄢陵侯(曹)章。太祖聞之大怒、故遂收殺之、時年四十五矣。」 (『後漢書』列伝第四十四、楊修伝注引『続漢書』) 『続漢書』によれば、かの楊修が命を落とすことになった直接の原因は、「…

ひとこと

三国時代は呉に偽降して長期間にわたって尻尾出さずに信頼された隠蕃みたいなのがいることを思えば、あの孟達も実は最初から偽降だったと考えることも出来なくも無いな・・・。

ひとこと

なんで賈逵は魏王朝から一貫して忠臣扱いされてきたんだろう? 宗室の重鎮曹休にはかなり嫌われていたのに。 曹休の方が逆恨みだと認識する者が多かったんだろうか。

ひとこと(異姓養子)

昨日の話の後で思ったんだが、三国時代はどの国でも皇帝の一族内に異姓養子がいるんだな。 曹魏では曹操自身(曹嵩)、曹真、烈祖様といるし、蜀漢では記事にした劉封が、孫呉には孫桓らの一家がいる。 全体的には割と異姓養子への心理的ハードルが低い時代…

異姓養子禁止令その3

そういえば、蜀漢で異姓養子と言えば劉封がいるんだった。 あるいは、「兄劉封」がいたことになる皇帝劉禅としては、本当は異姓である劉封の存在を消して自分の皇帝としての地位を固めたい、という意図があったのかもしれない。 劉封自身は既に死んでいるが…

異姓養子禁止令その2

昨日の話だが、そういえば王平も同じ養子先から旧姓に戻ったクチだった。 どうやら王平も馬忠も少なくとも諸葛亮がいた時代は「何平」「狐忠」と呼ばれていたっぽい。 ということは、異姓養子禁止は諸葛亮死後になって行われたものということか?

異姓養子禁止令

馬忠字徳信、巴西閬中人也。少養外家、姓狐、名篤、後乃復姓、改名忠。 (『三国志』巻四十三、馬忠伝) 蜀漢の馬忠はもともとは狐氏の養子となっていたという。つまり生まれた時点では馬氏だったが、「狐篤」「狐忠」と名乗っていた時期があったのである。 …

母の姓

劉邦の母の実家の姓は不明だったと思う。 王莽の母の実家の姓も不明だったと思う。 曹操の母の実家の姓も同様に不明である。父曹嵩の正妻は丁氏とされるが、だからといって曹操の母であったかどうかは不明である(その可能性が高いとは思うが)。 つまり、漢…

ひとこと(孫堅と孫和)

そういえば、かの韋昭は皇帝号を追贈された孫和の本紀を立てるのを拒絶したというが、生前皇帝ではなく後から追贈されたという点では同じ孫堅については本紀を立てていたのだろうか?それとも立ててなかったのだろうか? もし孫堅の本紀は立てていたとするな…

曹嵩夫人丁氏2

文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。 (『三国志』巻十九、陳思王植伝) 昨日の話だが、曹丕が魏王になってすぐに曹嵩の夫人丁氏は王后とされたのに、数か月後の皇帝即位後には追尊から外されたのだとしたら、理由は上の「丁儀一族誅滅」が関係しているのだ…

曹嵩夫人丁氏

戊申、追尊高祖大長秋曰高皇帝、夫人呉氏曰高皇后。 (『三国志』巻三、明帝紀、太和三年四月) 曹魏の明帝こと烈祖様は、名目上の先祖に当たる宦官曹騰を「高皇帝」、その夫人呉氏を「高皇后」と追尊した。 五月戊寅、天子命王追尊皇祖太尉曰太王、夫人丁氏…

皇帝号の閉店セール

曹魏は初代皇帝曹丕の3代前の曹騰まで皇帝号を贈っている。 晋は初代皇帝司馬炎の2代前の司馬懿まで皇帝号を贈っている。 これ、晋の時は「魏はやりすぎだったな・・・」って思われてて自重したんじゃ・・・。 あと、初代皇帝曹丕との血縁(少なくとも父系…

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

ひとこと

あれ?実際に皇帝になっていない人物に「皇帝」号を贈った最初って曹丕だったりする? 哀帝・桓帝・霊帝の父などには「恭皇」などの号を贈られているが、「皇帝」ではなかったようだからな・・・。 ちゃんと調べてないから違うかもしれない。

バッタに生まれ変わればいいのに

類稀な文学的才能と類稀な人格を兼ね備えた曹操・曹丕親子のことを、「3世紀の石川啄木親子」と呼んではどうだろうか。

昨日の続き

昨日の蜀漢の王の話だが、劉永・劉理は当初はどちらも予州管内の王だったんだな。 それが変更後は冀州管内になっている。 当初は劉備に最も関係が深いと言ってもいい予州から選ばれ、変更後は魏にとって最も関係が深いと言ってもいい冀州から選ばれた、とい…

格下げ

徙魯王永為甘陵王。梁王理為安平王。皆以魯・梁在呉分界故也。 (『三国志』巻三十三、後主伝、建興八年) 蜀漢は呉との修好により、劉永・劉理の領地を呉の領域とされた魯・梁から変更した。 この際、劉永は甘陵王、劉理は安平王になったという。 これ、名…

ひとこと

孫権の子供たちは魯王、琅邪王、南陽王、斉王と、いずれも実際の領国は支配圏外の遥領だな。 王としての実質の領地は持たせないという方針だったのだろう。これは蜀漢も同様。

歴代諸侯王制度

後漢の諸侯王は一応は郡と同等(実際には郡未満だが)の領地を支配した。ただし一部の例外を除き仕官はできなかったと思われる。 魏の諸侯王は後漢よりも明らかに狭い領地しか与えられず、かといって仕官もできなかった。司馬氏に軟禁状態にされる前から出来…