三国

ひとこと

與討呉護軍張翰・揚州刺史周浚成陳相對。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝注引干寶『晉紀』) 張翰字季鷹、呉郡呉人也。父儼、呉大鴻臚。翰有清才、善屬文、而縱任不拘、時人號為「江東歩兵」。 (『晋書』巻九十二、張翰伝) 呉が滅ぼされる時の晋の討呉護軍…

消された経歴

執金吾滕循為司空、未拝、轉鎮南將軍、假節領廣州牧、率萬人從東道討(郭)馬、與族遇于始興、未得前。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀三年八月) 滕脩字顯先、南陽西鄂人也。仕呉為將帥、封西鄂侯。 孫晧時、代熊睦為廣州刺史、甚有威惠。徴為執金吾。…

仲長

へえ、日本人の姓に「仲長」さんってのがあるのか・・・。 仲長統の「仲長」以外にもあるんだなあ。 あと桓範の妻「仲長」って仲長統と同じ「仲長」氏なんだろうな。

ダブルスタンダード

先日の記事やかつて記事にした寡婦狩りの件など、後漢末や魏では再婚強制と思われることが大々的に行われていたらしい。主に兵戸でのことかもしれないが。 一方で、後漢でも三国時代の各国でも夫の死後の再婚を拒む「貞婦」の話がいくつか残っている。 つま…

再婚義務免除規定

聽君父已沒、臣子得為理謗、及士為侯、其妻不復配嫁、(鍾)毓所創也。 (『三国志』巻十三、鍾毓伝) 鍾毓は「士が侯になったなら、その妻が再婚することはない」という制度を作った、という。 たぶんこの「士」とは兵士のことだろう。兵戸か。 また、それ…

孫権北上

(建安)二十五年春正月、曹公薨、太子丕代為丞相魏王、改年為延康。秋、魏將梅敷使張儉求見撫納。南陽陰・酇・筑陽・山都・中盧五縣民五千家來附。冬、魏嗣王稱尊號、改元為黄初。 (『三国志』巻四十七、呉主伝) ふと思っただけだが、孫権の元に南陽郡の…

最強の妻

犍為盛道妻者、同郡趙氏之女也、字媛姜。 建安五年益部亂、道聚衆起兵、事敗。夫妻執繫、當死。媛姜夜中告道曰「法有常刑、必無生望、君可速潜逃、建立門戸、妾自留獄、代君塞咎。」道依違未從。媛姜便解道桎梏、為齎粮貨。子翔時年五歳、使道攜持而走。媛姜…

疑問

父為利漕、利漕民郭恩兄弟三人皆得躄疾、使(管)輅筮其所由。 (『三国志』巻二十九、方技伝、管輅) ここの管輅の父がなっていたという「利漕」「利漕民」とは何なんだろうか。 なんでも曹操が作ったという運河が「利漕渠」というそうだが、そこの官吏ある…

幻の元号

(太元)二年春正月、立故太子(孫)和為南陽王、居長沙、子(孫)奮為齊王、居武昌、子(孫)休為瑯邪王、居虎林。 二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。 夏四月、(孫)權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。秋七月、葬蔣陵。 (『…

ひとこと

あくまでも印象だが、孫権の「息子を失った悲しみ」の度合いが孫登より孫慮の時の方が上に思える。あくまで印象。 もちろん孫慮の方が先だったとか年が若かったとかの理由だったのかもしれないが、「本当は後継者にしたかった子」と「本当は後継者から降ろし…

ひとこと

孫権が臣下に言われても最後まで王には立てなかった孫慮と、皇太子と限りなく同格に近くはしていたが王として分家独立させた孫覇。 孫権にとって、どちらがより「本当はコイツを皇太子にしたい」という気持ちが強かったのか・・・。 自分としては、孫慮の方…

南陽文氏

呉主(孫)權王夫人、南陽人也。以選入宮、嘉禾中得幸、生(孫)休。及(孫)和為太子、和母貴重、諸姫有寵者、皆出居外。夫人出公安、卒、因葬焉。休即位、遣使追尊曰敬懐皇后、改葬敬陵。王氏無後、封同母弟文雍為亭侯。 (『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主…

孫権の皇子

昨日の続き。 孫権が死に孫亮が皇帝になってから、孫権の皇子たちのうち南陽王孫和はほどなくして自殺、斉王孫奮も廃位されている。 つまり孫亮時代には諸侯王は琅邪王孫休だけになっていた。 その孫休は次の皇帝になっていて、孫休時代に新たに王が立てられ…

孫権と皇子

改めて孫権の皇子たちの諸侯王への封建を見てみると、そもそも孫慮は王になっておらず、その後に初めて王になったのがあの魯王孫覇。 で、その魯王孫覇が死に、孫亮が皇太子となった2年後、太元2年に生きていた皇子全員である孫和・孫休・孫奮が王になって…

孫奮の子たち

実は、昨日の記事について以下のような見解がある。 臣松之案、建衡二年至(孫)奮之死、孫晧即位、尚猶未久。若奮未被疑之前、兒女年二十左右、至奮死時、不得年三十四十也。若先已長大、自失時未婚娶、則不由晧之禁錮矣。此雖欲増晧之惡、然非實理。 (『…

禽獣皇子

建衡二年、孫晧左夫人王氏卒。晧哀念過甚、朝夕哭臨、數月不出、由是民間或謂晧死,訛言(孫)奮與上虞侯奉當有立者。奮母仲姫墓在豫章、豫章太守張俊疑其或然、掃除墳塋。晧聞之、車裂俊、夷三族、誅奮及其五子、國除。 【注】 江表傳曰、豫章吏十人乞代俊…

宰相多すぎ問題

孫晧の頃、「丞相」と「大司馬」が左右に分かれて2人ずつ任命され、さらに同時に「太尉」「司徒」「司空」の三公も置かれていた時期があるのか・・・。 宰相以上の官が多すぎない?

呉の太尉3

呉録曰、(范)慎字孝敬、廣陵人、竭忠知己之君、纏緜三益之友、時人榮之。著論二十篇、名曰矯非。後為侍中、出補武昌左部督、治軍整頓。孫晧移都、甚憚之、詔曰「慎勳徳倶茂、朕所敬憑、宜登上公、以副衆望。」以為太尉。慎自恨久為將、遂託老耄。軍士戀之…

呉の太尉2

昨日の記事で、「呉に太尉がいたんじゃないか、たぶん」みたいな事を書いた。 (寶鼎)三年春二月、以左右御史大夫丁固・孟仁為司徒・司空。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝) それについて、よく考えてみると呉末(孫晧の時)には「司徒」と「司空」がいたこ…

呉の太尉

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。年八歳、詣呉太尉戴昌、昌贈詩以觀之、彦於坐答之、辭甚慷慨。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、盛彦) 昨日紹介したママがカブトムシ食べた盛彦の記事の中では、「呉太尉戴昌」なる人物が登場する。 戴若思、廣陵人也、名犯高…

メイドさんの手作りご飯

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。・・・(中略)・・・母王氏因疾失明、彦毎言及、未嘗不流涕。於是不應辟召、躬自侍養、母食必自哺之。母既疾久、至于婢使數見捶撻。婢忿恨、伺彦暫行、取蠐螬炙飴之。母食以為美、然疑是異物、密藏以示彦。彦見之、抱母慟…

諸侯王軟禁の理由

悉録魏諸王公置于鄴、命有司監察、不得交關 (『晋書』巻一、宣帝紀) 司馬懿は王淩の反乱を防いだ後、魏の諸侯王たちをみな鄴に置いて軟禁状態とした。 これは司馬懿が魏からの簒奪を図らんとしての行為に思えるし、確かにそういうつもりだったかもしれない…

ひとこと

昔から思っているし、このブログでもかつて書いてるかもしれないが、蜀漢の閻宇の「右大将軍」は「右将軍」の強化版だろうなあ。 「大将軍」を左右に分割したもの、ではないと思う。 閻宇が「大将軍」を左右に分けた「右大将軍」になっていたとするなら、当…

丁儀の転任

及太子立、欲治(丁)儀罪、轉儀為右刺姦掾、欲儀自裁而儀不能。乃對中領軍夏侯尚叩頭求哀、尚為涕泣而不能救。後遂因職事收付獄、殺之。 (『三国志』巻十九、陳思王植伝注引『魏略』) 曹丕が王になったとき、曹植立太子運動の中心人物丁儀を殺そうとし、…

皇覧その後

『皇覧』って『隋書』経籍志では繆襲らの撰とされていて、『旧唐書』『新唐書』ではその存在が埋もれてしまい、まず宋の何承天によるものが出てくるようになっているんだな。 曹丕の名が出てこないのは直接の撰者ということにならないだろうからいいとしても…

ひとこと

曹操が献帝の伏皇后と皇子を殺した件、完全に意図的で皇帝の意向をガン無視したものだったことを考えると、当時与えたインパクトでは司馬昭の皇帝高貴郷公殺しにも匹敵するような事件だったんじゃないのかなあ・・・。

曹丕の努力

魏有天下、拝(王)象散騎侍郎、遷為常侍、封列侯。受詔撰皇覽、使象領祕書監。象從延康元年始撰集、數歳成、藏於祕府、合四十餘部、部有數十篇、通合八百餘萬字。 (『三国志』巻二十三、楊俊伝注引『魏略』) 曹丕自らの命により編纂された『皇覧』は、延…

涙ぐましい暴君

t-s.hatenablog.com かの魏文帝曹丕は狩猟が大好きだったとされ、父の死から間もない頃から狩猟に出たりしており、うるさ型の臣下からはかなりガチ目に諫言されたりしている。 なぜ彼は皇帝になった頃から狩猟に特に力を入れるようになったのか。 思うに、曹…

王になるということ

不得已受其降、可進其將軍號、封十萬戸侯、不可即以為王也。夫王位、去天子一階耳、其禮秩服御相亂也。 (『三国志』巻十四、劉曄伝注引『傅子』) 曹丕が孫権を王にしようとするのを劉曄が反対したときの言葉。 これ、よく考えると「公からわざわざ王に変え…

ひとこと

孫権の侯が建安末期の南昌侯まで記録に出てこないのは、「実は持っていたが袁術からもらった形になっていたために記録から抹消されていたから」説。 孫堅・孫策が袁術と良好な関係だったのであれば、既に仕官していた孫策の弟にも何らかの侯を与えていたとし…