三国
昨日の記事書いた後に思った。 行く先行く先で要人の娘やら未亡人やらと懇ろになって出世していく「劉備島耕作」っていうのが見てみたい。
魏略曰、太祖始有丁夫人、又劉夫人生子脩及清河長公主。劉早終、丁養子脩。子脩亡於穰、丁常言「將我兒殺之、都不復念!」遂哭泣無節。太祖忿之、遣歸家、欲其意折。後太祖就見之、夫人方織、外人傳云「公至」、夫人踞機如故。太祖到、撫其背曰「顧我共載歸…
曹公表先主為鎮東將軍、封宜城亭侯、是歳建安元年也。先主與術相持經月、呂布乗虚襲下邳。下邳守將曹豹反、閒迎布。布虜先主妻子、先主轉軍海西。楊奉・韓暹寇徐・揚閒、先主邀撃、盡斬之。先主求和於呂布、布其妻子。先主遣關羽守下邳。先主還小沛、復合兵…
曹操の正妻だった丁氏は沛の人だったんじゃないかと思われる。 劉備の正妻だった甘氏は沛の人だと記録されている。 曹操の正妻と劉備の正妻は同じ土地の出身という事だ。 そこはかとなく胸が熱くなる関係性を妄想できるではないか。
赤烏六年卒、子(胡)沖嗣。沖平和有文幹、天紀中為中書令。 【注】 呉録曰、沖後仕晉尚書郎・呉郡太守。 (『三国志』巻六十二、胡綜伝) 呉暦六卷、胡沖撰。 (『旧唐書』巻四十六、経籍志上、乙部史録、雑史類) 『三国志』注でしばしば引用されている『…
孫策・孫権に仕えて中郎将、校尉、将軍を歴任。 あの赤壁の戦いの時など、軍を率いて戦った。 魏の使者が無礼であった時には「呉にはヤッパが無いとでも思っとるんかのう?」と脅しの言葉を吐いて魏の使者をビビらせた。 かなりの武闘派、よく言えば武人とい…
楚王彪字朱虎。建安二十一年、封壽春侯。黄初二年、進爵、徙封汝陽公。三年、封弋陽王。其年徙封呉王。五年、改封壽春縣。 (『三国志』巻二十、楚王彪伝) 魏の曹彪(曹操の子)は、黄初3年に呉王になっている。 是月、孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南…
『建康実録』を見てみたんだが、孫権が曹丕から呉王に封建される時に群臣が「上将軍・九州伯」を称して魏の封建を受けるべきでない、との議論をしたという(『三国志』注の『江表伝』に同種の記述がある。)。 これ、江表や交州の実質的な支配を認めていなが…
あれ? 孫権が魏の曹丕から「呉王」に封建された時の「呉王国」の領土って、どこかに明記されてたっけ・・・? 孫権の支配域全域、あるいは旧揚州全域って事で良かったのだろうか・・・? どこかに書いてたかもしれないけど、調べるの面倒なので、いつかの自…
初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。 【注】 三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拝平原相」是也。 (『後漢書』列伝第…
賀齊字公苗、會稽山陰人也。 ・・・(中略)・・・ 後四年卒、子達及弟景皆有令名、為佳將。 (『三国志』巻六十、賀斉伝) 賀邵字興伯、會稽山陰人也。孫休即位、從中郎為散騎中常侍、出為呉郡太守。孫晧時、入為左典軍、遷中書令、領太子太傅。 (『三国志…
王沈字處道、太原晉陽人也。祖柔、漢匈奴中郎將。父機、魏東郡太守。沈少孤、養於從叔司空昶、事昶如父、奉繼母寡嫂以孝義稱。 (『晋書』巻三十九、王沈伝) 『晋書』によれば王沈の「従叔」は魏の王昶だという。 其為兄子及子作名字、皆依謙實、以見其意、…
t-s.hatenablog.com 劉禅は晋に降伏して安楽公になった。 その安楽公劉禅は後継ぎとして当時の長子ではなく中子の劉恂を敢えて選んだらしい。 だがその二代目安楽公は「驕暴」「淫乱無道」であったとされ、蜀ゆかりの者たちが廃位を願い出ようとまで思ったそ…
鄭沖字文和、滎陽開封人也。起自寒微、卓爾立操、清恬寡欲、耽玩經史、遂博究儒術及百家之言。有姿望、動必循禮、任真自守、不要郷曲之譽、由是州郡久不加禮。 (『晋書』巻三十三、鄭沖伝) 魏から晋にかけての儒者、滎陽郡開封県の鄭沖。彼は晋草創期の大…
劉隗字大連、彭城人、楚元王交之後也。父砥、東光令。隗少有文翰、起家祕書郎、稍遷冠軍將軍・彭城内史。避亂渡江、元帝以為從事中郎。 隗雅習文史、善求人主意、帝深器遇之。遷丞相司直、委以刑憲。 (『晋書』巻六十九、劉隗伝) 及有變、司直彈劾衆官、元…
呉録曰、’(隠)蕃有口才、魏明帝使詐叛如呉、令求作廷尉職、重案大臣以離閒之。既為廷尉監、衆人以(朱)據、(赫)普與蕃親善、常車馬雲集、賓客盈堂。及至事覺、蕃亡走、捕得、考問黨與、蕃無所言。呉主使將入、謂曰「何乃以肌肉為人受毒乎?」蕃曰「孫君…
今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡、封君為魏公。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安十八年) 曹操が魏公になった時、その領有する郡は10とされた。 獻帝起居注曰「建安十八年三月庚寅、省州并郡、復禹貢之九州。…
曹操は十三あった州を九州制に変更し、その時に冀州を特に拡張した。 その結果、元々幽州だったところは全域が冀州になったようだ。 ちなみに冀州牧は曹操である。 つまり、劉備の出身である涿郡は九州制の元では曹操が州牧である。 一方、曹操の出身である…
赤兔、王者徳盛則至。 (『宋書』巻二十八、符瑞志中) へえ、「赤兎」ってのは王者の徳が盛んな時に出現する瑞祥なのか。 例のウッマはこれにあやかって名付けられたのか?
初、任城棧潛、太祖世歴縣令、嘗督守鄴城。 【注】 潛字彦皇、見應璩書林。 (『三国志』巻二十五、高堂隆伝) 魏の棧潜、字は「彦皇」というのか。 何と言うか「皇」と入ってるやけにカッコよく見える字だな。
明悼毛皇后、河内人也。 黄初中、以選入東宮、明帝時為平原王、進御有寵、出入與同輿輦。 及即帝立、以為貴嬪。太和元年、立為皇后。后父嘉、拝騎都尉、后弟曾、郎中。 (『三国志』巻五、后妃伝、明悼毛皇后) 魏の曹叡こと烈祖様の皇后毛氏。 彼女は文帝の…
鄖郷令。本錫縣、二漢舊縣、屬漢中、後屬魏興、魏・晉世為郡、後省。武帝太康五年、改為鄖郷。何志晉惠帝立、非也。 錫縣令。前漢長利縣、屬漢中、後漢省。晉武帝太康四年復立、屬魏興。五年、改長利為錫。 (『宋書』巻三十七、州郡志三、梁州刺史、魏興太…
錫。有錫、春秋時曰錫穴。 (『続漢書』郡国志五、漢中郡) 後漢の漢中郡に「錫」という県があった。三国時代には郡になったりもしている。 「有錫」とあるので、金属としての「錫」を産出したから「錫」という県名になったという事だろうか? 鍚、莽曰鍚治…
漢代、「上郡」という郡があった。 あの李広などが太守になった事がある。 ところで、ある太守や国相の事を「姓+郡国名」で表記する事がある。 沛相袁忠を「袁沛」と表記するように。 それで行くと、「上郡太守李広」は「李上」になるのか?
(鄧)孔山名方、南郡人也。以荊州從事隨先主入蜀。蜀既定、為犍為屬國都尉、因易郡名、為朱提太守、選為安遠將軍・庲降都督、住南昌縣。章武二年卒。失其行事、故不為傳。 (『三国志』巻四十五、楊戯伝) 昨日記事にした銀山のある「朱提」は、『漢書』に…
昨日の記事によると、項羽が封建した翟王董翳の子孫は隴西に定住した、という。 また、董仲舒の子孫も隴西に定住したように書かれている。 とにかく、隴西の董氏は董翳や董仲舒をルーツに持ってきている事になる。 董卓字仲穎、隴西臨洮人也。性麤猛有謀。 …
昨日の記事を書いたあと、そこの命乞いシーンに既視感みたいなのがあったんだが、やっとわかった。 本来できるはずなのだ・・・!本当に夫を助けたいという気持ちで・・・胸がいっぱいなら・・・!たとえそれが・・・公卿賓客でいっぱいの堂内でも・・・! …
(董)祀為屯田都尉、犯法當死、(蔡)文姫詣曹操請之。時公卿名士及遠方使驛坐者滿堂、操謂賓客曰「蔡伯喈女在外、今為諸君見之。」及文姫進、蓬首徒行、叩頭請罪、音辭清辯、旨甚酸哀、衆皆為改容。操曰「誠實相矜、然文狀已去、柰何?」文姫曰「明公廐馬…
武元楊皇后諱艷、字瓊芝、弘農華陰人也。 父文宗、見外戚傳。母天水趙氏、早卒。 后依舅家、舅妻仁愛、親乳養后、遣他人乳其子。及長、又隨後母段氏、依其家。 (『晋書』巻三十一、后妃伝上、武元楊皇后) 晋の武帝司馬炎の正妻楊氏の母は「天水趙氏」だっ…
王朗字景興、東海郯人也。以通經拝郎中、除菑丘長。師太尉楊賜、賜薨、棄官行服。 ・・・(中略)・・・ 黄初中、鵜鶘集靈芝池、詔公卿舉獨行君子。朗薦光祿大夫楊彪、且稱疾、讓位於彪。帝乃為彪置吏卒、位次三公。 (『三国志』巻十三、王朗伝) 王朗は太…