三国

尚広

干寶晉紀曰、王濬治船於蜀、吾彦取其流柹以呈孫晧、曰「晉必有攻呉之計、宜增建平兵。建平不下、終不敢渡江。」晧弗從。陸抗之克歩闡、晧意張大、乃使尚廣筮并天下、遇同人之頤、對曰「吉。庚子歳青蓋當入洛陽。」故晧不脩其政、而恆有窺上國之志。是歲也實…

甘延寿の封邑

甘延壽字君況、北地郁郅人也。少以良家子善騎射為羽林、投石拔距絶於等倫、嘗超踰羽林亭樓、由是遷為郎。・・・(中略)・・・車騎將軍許嘉薦延壽為郎中諫大夫、使西域都護騎都尉、與副校尉陳湯共誅斬郅支單于、封義成侯。薨、諡曰壯侯。傳國至曾孫、王莽敗…

リトルボーイ

短人國在康居西北、男女皆長三尺、人衆甚多、去奄蔡諸國甚遠。康居長老傳聞常有商度此國、去康居可萬餘里。 (『三国志』巻三十、烏丸鮮卑東夷伝注引『魏略西戎伝』) 『魏略西戎伝』によれば、西域の康居の更に西北にある「短人国」の住人は身長3尺であっ…

ビッグマン

車離國一名禮惟特、一名沛隸王、在天竺東南三千餘里、其地卑溼暑熱。其王治沙奇城、有別城數十、人民怯弱、月氏・天竺撃服之。其地東西南北數千里、人民男女皆長一丈八尺、乗象・橐駞以戰、今月氏役税之。 (『三国志』巻三十、烏丸鮮卑東夷伝注引『魏略西戎…

諸葛亮の秘めたる想い

待てよ、諸葛亮が昨日の記事で記したようなパワータイプの見た目と体格・体力だったとすれば、「敢えて軍服を着ずに軍を指揮していた」と言う話について、「単なる武辺者と思われたくなくて、敢えて軍人の格好を忌避していた」と考えられるな・・・。 巨体で…

力こそパワー

諸葛亮は身長「八尺」、劉備は「七尺五寸」。 陳寿『三国志』には関羽や張飛の身長自体は載ってないように見えるので、劉備・関羽・張飛・諸葛亮の身長は「諸葛亮>劉備>張飛>関羽」みたいな感じだった可能性が普通にあるのだろう。 また劉備は基本的にか…

ひとこと

漢で「都護」といえば西域都護であり、西域全体を「護」する存在なのだが、後漢末の曹操政権や蜀漢の「都護」「都護将軍」などは何を「護」する存在なのだろうか? わかるようなわからないようなモヤモヤした感じ。

受け継がれるもの

昨日の記事の後に思ったのだが、赤壁の敗戦を極力隠し、一切言及しないままに領土返上という「引責」だけはやるというスタンス、司馬昭の時に皇帝高貴郷公を殺した事について実態を極力隠し、皇太后と口裏を合わせて皇帝としてふさわしくなかった者扱いしな…

俺が悪い

(建安八年)己酉、令曰「司馬法『將軍死綏』。故趙括之母、乞不坐括。是古之將者、軍破于外、而家受罪于内也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」 (『三国志』巻一、武帝紀) 魏の武帝曹操は袁紹が死んだ…

思いつき

後漢末の元号「建安」が長々と続いたの、皇帝の意思により改元すべきところを皇帝の意思の発露がほとんど許されない状況に置かれたために改元も出来なくなった、みたいな事だったりしないだろうか? それなら、偉大に過ぎてほとんど皇帝と会ってなかったらし…

ふとした疑問

(初平四年)下邳闕宣聚衆數千人、自稱天子。徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華・費、略任城。秋、太祖征陶謙、下十餘城、謙守城不敢出。 (『三国志』巻一、武帝紀) 三年、舉高第、再遷、六年、拝太山太守。 初平二年、黄巾三十萬衆入郡界。(應)劭糾率文武連…

アルハラ平原君

平原君與子高飲、強子高酒曰「昔有遺諺。堯・舜千鍾、孔子百觚、子路嗑嗑、尚飲十榼。古之賢聖、無不能飲也。吾子何辭焉。」 子高曰「以穿所聞、賢聖以道徳兼人、未聞以飲食也。」 平原君曰「即如先生所言、則此言何生。」 子高曰「生於嗜酒者。蓋其勸厲奬戲…

感謝

昨日の記事の劉宝について、諸賢よりいくつか教えていただいた。 なるほど、司馬駿の下にいたり、王浚の前任者だったりした人で、字は「道真」つまり劉道真と。 西晋の人なわけだ。 やはり分からない事は素直に言ってみるものだ。 教えていただき、ありがと…

大虎だよ!孔丘先生

(孔)融集與(曹)操書云「酒之為徳久矣。古先哲王、類帝禋宗、和神定人、以濟萬國、非酒莫以也。故天垂酒星之燿、地列酒泉之郡、人著旨酒之徳。堯不千鍾、無以建太平。孔非百觚、無以堪上聖。・・・(後略)・・・ (『後漢書』列伝第六十、孔融伝注) あ…

孤高の胡康

先日の記事で、楊偉と並んで「胡康」なる人物の名も出てきていた(「胡康出壟畝」)。 素直に読むと農家の出(小作人、あるいは屯田民という事かもしれない)ということか。 廬江何氏家傳曰、明帝時、有譙人胡康、年十五、以異才見送、又陳損益、求試劇縣。…

楊偉の出世

文章敍録曰、(杜)摯字徳魯。初上笳賦、署司徒軍謀吏。後舉孝廉、除郎中、轉補校書。摯與毌丘儉郷里相親、故為詩與儉、求仙人藥一丸、欲以感切儉求助也。其詩曰・・・(中略)・・・儉答曰「鳳鳥翔京邑、哀鳴有所思。才為聖世出、徳音何不怡!八子未遭遇、…

景初暦の創設者

明帝時、尚書郎楊偉制景初暦、施用至于晉・宋。古之為暦者、鄧平能修舊制新、劉洪始減四分、又定月行遲疾、 楊偉斟酌両端、以立多少之衷、因朔積分設差、以推合朔月蝕。 (『宋書』巻十二、律暦志中) 傅子百二十卷晉司隸校尉傅玄撰。默記三卷、呉大鴻臚張儼…

呉範の経歴

徐州刺史巴祇表功第一、當受遷賞、(趙趙)昱深以為恥、委官還家。徐州牧陶謙初辟別駕從事、辭疾遜遁。謙重令揚州從事會稽呉範宣旨、昱守意不移。欲威以刑罰、然後乃起。 (『三国志』巻八、陶謙伝注引『謝承後漢書』) 呉範字文則、會稽上虞人也。以治暦數…

親政という異常事態

あくまでも大体の話。 曹魏の皇帝が親政していたと言える文帝曹丕と烈祖様が即位していた年数は大体20年位。 魏自体は45年ほど続いてはいるので、それ以降の25年は斉王芳・高貴郷公・陳留王と、全員別の臣下によって政治が行われていた時代。 というか…

覚悟理論

自帝都許、守位而已、宿衛兵侍、莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策、曹操惡而殺之。其餘内外、多見誅戮。 操後以事入見殿中、帝不任其憤、因曰「君若能相輔、則厚。不爾、幸垂恩相捨。」操失色、俛仰求出。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏…

疑いの目

侯音・衛開等以宛叛、(龐)悳將所領與曹仁共攻拔宛、斬音・開、遂南屯樊、討關羽。 樊下諸將以悳兄在漢中、頗疑之。悳常曰「我受國恩、義在效死。我欲身自撃羽。今年我不殺羽、羽當殺我。」後親與羽交戰、射羽中額。時悳常乗白馬、羽軍謂之白馬將軍、皆憚之…

河南龐氏

議郎河南龐羲與(劉)焉通家、乃募將焉諸孫入蜀。 (『三国志』巻三十一、劉焉伝) 劉焉・劉璋の元で巴西太守などになっていた龐羲は河南の人だったのか。 龐參字仲達、河南緱氏人也。 (『後漢書』列伝第四十一、龐参伝) 河南郡の龐氏というと、この辺境で…

名と字

陳留王諱奐、字景明、武帝孫、燕王宇子也。 (『三国志』巻四、陳留王紀) 魏の皇帝陳留王曹奐には「景明」なる「字」(あざな)があったそうだ。 使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎北迎常道郷公璜嗣明帝後。 (『三国志』巻四、高貴郷公紀、甘露五年五月) 六…

皇族の字

ちゃんと調べてないけど、漢代って諸侯王や皇帝の子として生まれた皇子はまず確実に「字」(あざな)が伝わらないな。たぶんな。 献帝は例外というか、「生まれてから後宮にいなかったっぽい」ことや「帝位を退いた」ことが関係ありそうだ。 漢の成帝も「太…

劉備青春時代

先主不甚樂讀書、喜狗馬・音樂・美衣服。 (『三国志』巻三十二、先主伝) 劉備若き日の話。 盧植の元で学んでいても、読書はあまり好まず、イッヌ、ウッマ、音楽、衣装の事を好んだとされる。 これは勉学に不真面目だったようにしか思えないし、実際そうい…

長男だから耐えられた

孝獻皇帝諱協、靈帝中子也。 【注】 謚法曰「聰明睿智曰獻。」協之字曰合。張璠記曰「靈帝以帝似己、故名曰協。」帝王紀曰「協字伯和。」 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀) 後漢の献帝には「伯和」という字があったという。 「伯」というのは基本的に長男に用…

ひとこと

後主こと劉禅は安楽県公で封邑は一万戸。 献帝こと劉協は山陽県公で封邑は一万戸。 山陽公は諸侯王より席次が上とされているから格上ではあるのだろうが、山陽公と安楽公って思ったより差が無いんだな。

所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。 (『三国志』巻十一、王修伝) 三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。 王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒) だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県…

出身不明

董京字威輦、不知何郡人也。 初與隴西計吏倶至洛陽、被髮而行、逍遙吟詠、常宿白社中。時乞於市、得殘碎繒絮、結以自覆、全帛佳緜則不肯受。或見推排罵辱、曾無怒色。 (『晋書』巻九十四、隠逸伝、董京) 晋の董京なる者は、隠逸伝に記されるだけのことはあ…

曹操ウソップ説

曹操の小字は「阿瞞」といったとされている。 「瞞」というのは騙す、欺くといった意味だという。つまり嘘つきだ。 ということは、「阿瞞」という名を現代風に翻案すると、「嘘つき」の意味合いの人名という事になるので、もっともそれらしいのは「ウソップ…