三国

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

ひとこと

そういえば、昨日言及した「監国使者」と「監国謁者」は基本的に同一なんだろうな。 おそらくは謁者が監国のための使者となる、といったことなのだろう。

諸侯王の監視

曹魏の諸侯王の元には「監国使者(謁者)」という官が付いていて、どうやら皇帝直属で諸侯王を監視していたらしい。 前漢の初期の初期は基本全ての官を諸侯王が自ら任命し、その後は諸侯王の相(丞相)や傅あたりだけが勅任で、彼らが監視の任を負っていたよ…

ひとこと

「『張南』南郡太守説」爆誕。

戯言

そういえば、「沛相袁忠」が「袁沛」と呼称されているという話をかつてしたことがあるが、その例でいくと「巴郡太守の劉●」は「劉巴」になるのでは? 後漢末の「劉巴」という名称のいくつかは字「子初」の人物ではなく、この名不明の「巴郡太守劉●」かもしれ…

ひとこと

色々考えていくと、王朝交代についてスタンダードと言える手順などが確立していたわけでもない後漢末において、殷周革命をトレースして放伐(後漢皇帝をぶっ●ろす)も視野に入れながら、太古の理想と王莽のプロトタイプしかなかった禅譲を改良して王朝交代の…

曹植、服喪の理由

昨日の記事に沿って考えるなら、曹操は夏侯惇らの重臣に対して、「自分は周の文王であり、息子が武王となるのであるから、殷の紂王たる漢の天子はいずれ紂王のように攻め滅ぼすことになるだろう」という主旨の発言をしたのだ、ということになる。 少なくとも…

放伐も可

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」 (『三国志』巻…

藁の家

『史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。 陳寿『三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。 それらに対し、いわゆる「正史」…

巻末のメッセージ

又(孫)晧欲為父和作紀、(韋)曜執以和不登帝位、宜名為傳。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) 呉の史家韋曜(韋昭)は、皇帝孫晧がその父で皇帝になれなかった孫和の「本紀」を立てるよう求めたとき、「皇帝にならなかったので「伝」とすべきです」と言っ…

思い付き

「新都侯」王莽の王朝が「新」になる。 では、「仲家」(「沖」という資料もあり)と称したという袁術は、「仲(沖)」という文字を含む侯だったのだろうか?

武皇帝

新たな王朝の号(王莽の「新」とか曹氏の「魏」とか)については、ほとんどの場合、その王朝の開祖が皇帝になる時点でなっていた諸侯の国号から取るのが通例であるようだ。 「漢王」劉邦が皇帝になると「漢」王朝となるし、「新都侯」王莽が皇帝になると「新…

メイドの土産

蜀漢時代の陳寿が父の服喪中に婢に薬を作らせていたことを見られて評判を落とした、という話がある(『晋書』陳寿伝)。 これ、「女性を近づけるなんてもってのほかのはずの服喪中に、(仮にいかがわしいことはしなかったとしても)婢という女性を近づけてい…

陳留王断絶

(咸和元年)冬十月、封魏武帝玄孫曹勱為陳留王、以紹魏。 (『晋書』巻七、成帝紀、咸和元年十月) 東晋においては、元帝から3代目の成帝の時になって魏武帝の玄孫曹勱なる者が魏を継ぐものとして陳留王にされたという。 この封建が普通の相続によるものな…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…

同等の行為かもしれない

毎與人談論、戲弄言誦、盡無所隠、及歡悦大笑、至以頭沒杯案中、肴膳皆沾汙巾幘、其輕易如此。 (『三国志』巻一、武帝紀注引『曹瞞傳』) 前々から上記のような行動について、現代に置き換えたらどれくらいの印象なのだろうか、とずっと考えていた。 礼儀作…

争いの種蒔く人

「長男を後継ぎと決めるが、その弟をことあるごとに寵愛して手柄立てさせようとまでしてる」というのは、もう完全に後継ぎ交代の流れだし、そのまま放置すれば確実に争いの種。国が割れても不思議じゃない。 「自分の後継ぎとした長男の子供のうち、庶子とし…

似た者同士

庶兄なのでイレギュラーが無かったら皇帝にはまずなれなかった、という点で曹叡こと烈祖様と孫晧は割と似たところがある。 暴君スタイルで王朝が滅ぶきっかけを作ったっぽいのも似ている。

提案

白起、項羽、曹操といった豪華メンバーが行ったことで知られる「降伏者の大量坑殺」のことを「坑殺(シズ)める」と呼ぶと、なんとなくそこまでエグイことじゃないんじゃないか・・・って気分になれそうな気がするのでオススメ。

孫晧と陸抗

孫晧とは何重もの婚姻や血縁の関係があって信頼厚く、彼の元で兵を預かり、反乱鎮圧など孫晧の治世を守り続けた陸抗。 こう考えると、陸抗ってのは、孫晧に早く退場してもらいたい呉の人間にとってはとてつもなく邪魔な存在だな。 あの時代に陸抗がどういう…

ひとこと

孫晧は自分の時代の王たちに兵を供給した、とされている。 しかし、孫晧自身の息子はまだ幼少の者が少なくなかったはずであり、王の代官(相)などが代わりに率いたのかもしれないが、本来期待したであろう「藩屏」としての役割はあまり期待できなかったので…

ひとこと

あれ?孫晧の実母の何姫(皇太后)、もしかして呉の降伏まで生きてたのか? 何か見落としてるかもしれないが。

孫晧の兄弟

呉歴曰(孫)和四子、晧・徳・謙・俊。孫休即位、封徳錢唐侯、謙永安侯、俊拜騎都尉。晧在武昌、呉興施但因民之不堪命、聚萬餘人、劫謙、將至秣陵、欲立之。未至三十里住、擇吉日、但遣使以謙命詔丁固・諸葛靚。靚即斬其使。但遂前到九里、固・靚出撃、大破…

ひとこと

孫晧の時の王たち、『三国志集解』で何か言ってないかと見てみたが、どうも特別何も書いてないっぽい・・・。 やっぱ、誰が王になったのか、よくわからないままか。 字が小さくて目が疲れるから全部見ていないかもしれんけど。

同じ4人か

呉録載(孫)休詔曰「人之有名、以相紀別、長為作字、憚其名耳。禮、名子欲令難犯易避、五十稱伯仲、古或一字。今人競作好名好字、又令相配、所行不副、此瞽字伯明者也、孤嘗哂之。或師友父兄所作、或自己為。師友尚可、父兄猶非、自為最不謙。孤今為四男作…

孫晧の王その2

(元興元年)十月、封(孫)休太子𩅦為豫章王、次子汝南王、次子梁王、次子陳王、立皇后滕氏。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (甘露元年)秋七月、(孫)晧逼殺景后朱氏、亡不在正殿、於苑中小屋治喪、衆知其非疾病、莫不痛切。又送(孫)休四子…

孫晧の王

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽・東平王。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (鳳凰二年)秋九月、改封淮陽為魯、東平為齊、又封陳留・章陵等九王、凡十一王、王給三千兵、大赦。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (天紀)二年秋七月…

ひとこと

孫晧は陳留王を立てているのか。 名前だけのことではあるが、晋における陳留王=かつての魏帝の存在を否定していたわけか。

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

降伏後の待遇

そういえば、呉の孫晧が晋に降伏した時に与えられた「帰命侯」は領土の戸数や封建された場所の記載がないので、決められた領土を持たない侯、つまり五等爵の侯ではなく名号侯じゃないかと思う。 また、少なくとも『三国志』やその注では死後に諡号を贈られた…