三国

ひとこと(異姓養子)

昨日の話の後で思ったんだが、三国時代はどの国でも皇帝の一族内に異姓養子がいるんだな。 曹魏では曹操自身(曹嵩)、曹真、烈祖様といるし、蜀漢では記事にした劉封が、孫呉には孫桓らの一家がいる。 全体的には割と異姓養子への心理的ハードルが低い時代…

異姓養子禁止令その3

そういえば、蜀漢で異姓養子と言えば劉封がいるんだった。 あるいは、「兄劉封」がいたことになる皇帝劉禅としては、本当は異姓である劉封の存在を消して自分の皇帝としての地位を固めたい、という意図があったのかもしれない。 劉封自身は既に死んでいるが…

異姓養子禁止令その2

昨日の話だが、そういえば王平も同じ養子先から旧姓に戻ったクチだった。 どうやら王平も馬忠も少なくとも諸葛亮がいた時代は「何平」「狐忠」と呼ばれていたっぽい。 ということは、異姓養子禁止は諸葛亮死後になって行われたものということか?

異姓養子禁止令

馬忠字徳信、巴西閬中人也。少養外家、姓狐、名篤、後乃復姓、改名忠。 (『三国志』巻四十三、馬忠伝) 蜀漢の馬忠はもともとは狐氏の養子となっていたという。つまり生まれた時点では馬氏だったが、「狐篤」「狐忠」と名乗っていた時期があったのである。 …

母の姓

劉邦の母の実家の姓は不明だったと思う。 王莽の母の実家の姓も不明だったと思う。 曹操の母の実家の姓も同様に不明である。父曹嵩の正妻は丁氏とされるが、だからといって曹操の母であったかどうかは不明である(その可能性が高いとは思うが)。 つまり、漢…

ひとこと(孫堅と孫和)

そういえば、かの韋昭は皇帝号を追贈された孫和の本紀を立てるのを拒絶したというが、生前皇帝ではなく後から追贈されたという点では同じ孫堅については本紀を立てていたのだろうか?それとも立ててなかったのだろうか? もし孫堅の本紀は立てていたとするな…

曹嵩夫人丁氏2

文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。 (『三国志』巻十九、陳思王植伝) 昨日の話だが、曹丕が魏王になってすぐに曹嵩の夫人丁氏は王后とされたのに、数か月後の皇帝即位後には追尊から外されたのだとしたら、理由は上の「丁儀一族誅滅」が関係しているのだ…

曹嵩夫人丁氏

戊申、追尊高祖大長秋曰高皇帝、夫人呉氏曰高皇后。 (『三国志』巻三、明帝紀、太和三年四月) 曹魏の明帝こと烈祖様は、名目上の先祖に当たる宦官曹騰を「高皇帝」、その夫人呉氏を「高皇后」と追尊した。 五月戊寅、天子命王追尊皇祖太尉曰太王、夫人丁氏…

皇帝号の閉店セール

曹魏は初代皇帝曹丕の3代前の曹騰まで皇帝号を贈っている。 晋は初代皇帝司馬炎の2代前の司馬懿まで皇帝号を贈っている。 これ、晋の時は「魏はやりすぎだったな・・・」って思われてて自重したんじゃ・・・。 あと、初代皇帝曹丕との血縁(少なくとも父系…

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

ひとこと

あれ?実際に皇帝になっていない人物に「皇帝」号を贈った最初って曹丕だったりする? 哀帝・桓帝・霊帝の父などには「恭皇」などの号を贈られているが、「皇帝」ではなかったようだからな・・・。 ちゃんと調べてないから違うかもしれない。

バッタに生まれ変わればいいのに

類稀な文学的才能と類稀な人格を兼ね備えた曹操・曹丕親子のことを、「3世紀の石川啄木親子」と呼んではどうだろうか。

昨日の続き

昨日の蜀漢の王の話だが、劉永・劉理は当初はどちらも予州管内の王だったんだな。 それが変更後は冀州管内になっている。 当初は劉備に最も関係が深いと言ってもいい予州から選ばれ、変更後は魏にとって最も関係が深いと言ってもいい冀州から選ばれた、とい…

格下げ

徙魯王永為甘陵王。梁王理為安平王。皆以魯・梁在呉分界故也。 (『三国志』巻三十三、後主伝、建興八年) 蜀漢は呉との修好により、劉永・劉理の領地を呉の領域とされた魯・梁から変更した。 この際、劉永は甘陵王、劉理は安平王になったという。 これ、名…

ひとこと

孫権の子供たちは魯王、琅邪王、南陽王、斉王と、いずれも実際の領国は支配圏外の遥領だな。 王としての実質の領地は持たせないという方針だったのだろう。これは蜀漢も同様。

歴代諸侯王制度

後漢の諸侯王は一応は郡と同等(実際には郡未満だが)の領地を支配した。ただし一部の例外を除き仕官はできなかったと思われる。 魏の諸侯王は後漢よりも明らかに狭い領地しか与えられず、かといって仕官もできなかった。司馬氏に軟禁状態にされる前から出来…

ひとこと

真面目な話、後漢の宗室だったと言えそうな劉氏は魏王朝では仕官してないかもしれないな。 劉曄も子孫というだけで宗室ではなかった可能性も無くはないが、彼が特例だった可能性の方が高いんじゃないかと思う。

悪評の原因

劉曄は「佞諛不忠」つまりおべっかクソ野郎みたいに言われることがあったようなのだが、この一因に、魏王朝では漢の宗室は禁錮つまり出仕禁止の措置を受けていたのに彼は堂々出仕している、ということもあったのかもしれない。 アイツは上へのおべっかで漢の…

長いものには巻かれろ

袁氏世紀曰、(呂)布之破也、陳羣父子時亦在布之軍、見太祖皆拝。(袁)渙獨高揖不為禮、太祖甚嚴憚之。 (『三国志』巻十一、袁渙伝) かの袁渙とあの陳群親子は呂布の元にいたが、呂布が曹操に敗れると彼らも解放された。 その際、陳群親子は曹操に拝礼を…

挙主の死を喜ぶ男

t-s.hatenablog.com かつて劉備が死んだという虚報が流れた時に、かつて劉備に仕え、劉備が挙主でもあった袁渙だけは慶賀しなかった、という話がある(ほぼ同様な境遇だった陳群は慶賀したのだろう)。 及先主薨問至、魏羣臣咸賀、而(黄)權獨否。 (『三国…

諸葛亮の初任官

赤壁後に諸葛亮は「以(諸葛)亮為軍師中郎將、使督零陵・桂陽・長沙三郡、調其賦税、以充軍實。」(『三国志』諸葛亮伝)となったとされる。 それまで官に就いた形跡がないのにこういった職に就けられるというのは大抜擢だ。 よく考えると「郡の督」つまり…

廬江太守李術

孫策に従って揚州刺史厳象を殺し、孫権には従わず討伐された廬江太守李術、部曲3万人を有していたのか・・・。 孫権があの赤壁の時に動員した(できた)兵がそれくらいなんだから、当時の孫権にとっては3万人はかなりの規模だったのではないか。 そりゃ孫…

ひとこと

梁の儒者に「皇侃」という者がいる。 この姓「皇」をもし「おう」と読むなら呉の「皇象」(皇侃の子孫とされる)は「おうしょう」と読むべきだろうし、皇象を「こうしょう」と読むなら皇侃の姓も「こう」と読むべきじゃないだろうか。

生まれる前から滅んでいた

靈帝熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺曰「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年亦當復見天事恒象、此其徴也。」 (『宋書』巻二十七、符瑞志上) 漢元・成之世、先識之士有言曰「魏年有和、當有開石於西三千餘里、繫五馬、文曰討曹…

御史から執法

曹魏では「御史」のことを「執法」と改称したらしいと述べたが、同様に「御史」を「執法」と改称した王朝がある。 改郡太守曰大尹、都尉曰太尉、縣令長曰宰、御史曰執法、公車司馬曰王路四門、長樂宮曰常樂室、未央宮曰壽成室、前殿曰王路堂、長安曰常安。 …

執法と御史

文帝即王位、賜爵關内侯。及踐阼、為督軍糧御史、封武平亭侯、更為督軍糧執法、入為尚書。 (『三国志』巻二十三、杜襲伝) 及魏、又置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史掌律令、二官俱置。 (『晋書』巻二十四、職官志) 『晋書』によれば曹魏では「治書執法…

ひとこと

孫休が息子の名はあれほど気にしていたのに自分の名が「休」という割と避けにくそうな字なのに変更しようとした話が見えないというのは興味深い。 どういう理由、理屈だったんだろう。

ちょっとした疑問

孫休がわが子たちに君だけのオリジナル文字を命名したのは有名だが、その子たちは命名されるまでは何と呼ばれてたんだろうか?

アルハラ

(孫)晧毎饗宴、無不竟日。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) 呉の孫晧の時の宴会は「午前様」にならなかったことがなかった、のだそうだ。 皇帝陛下の饗宴であって強制参加で抜け出す手段も無いことを考えると、人によってはかなりの苦行だったんじゃないだ…

誰が殺した周昭恭遠

周昭者字恭遠、與韋曜・薛瑩・華覈並述呉書、後為中書郎、坐事下獄。 (『三国志』巻五十二、步騭伝) 呉にいた周昭という人物は韋昭らとともに『呉書』編纂に携わったが、後に法に触れて獄に入れられ、同僚の助命嘆願にも皇帝は助けることなく、彼は死んで…