三国

誰もが知っている

t-s.hatenablog.com 曹魏の最後の皇帝は陳寿『三国志』で「陳留王」と呼ばれているが、これは晋王司馬炎への禅譲後に晋皇帝より封建されたときの号である。 しかし、上記の以前の記事にあるように、陳寿『三国志』では魏帝だった曹奐が陳留王になったという…

ひとこと(孫権と曹操の違い)

何となくだが、孫権と曹操はどちらも後継者問題で色々と問題が起きている、というか起こしているが、孫権は「臣下からの突き上げによって後継者問題が起こった」タイプで、曹操は「君主自身が後継者問題を作りにいった」タイプじゃないだろうか、と思う。

暴君エレジー

三国呉の潘濬は孫権の雉狩りの趣味をやめるよう諫言し、孫権は最初は「ちょっとだけだから!先っぽだけだから!」などと言っていたが、潘濬の強硬手段に折れて雉狩りをやめるようになった、という話がある。 諫言などの話は、たいていはこのように「君主の不…

孫登と歩夫人

生二女、長曰魯班、字大虎、前配周瑜子循、後配全琮。 (『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主権歩夫人) (周)瑜両男一女。女配太子登。男循尚公主、拝騎都尉、有瑜風、早卒。 (『三国志』巻五十四、周瑜伝) 周瑜の男子の周循は、孫権の歩夫人との間の娘、い…

ひとこと

昨日の話を前提に置くと、世間で言うところの二宮事件頃の陸遜は、前段でものすごくガッツリと後継者争いに絡んでいた存在だった、ということになるなあ。 それまではその時の陸遜は皇太子孫和や陸胤あたりが何かやらかした巻き添え、みたいに思ってたんだが…

二宮は二つあったッ!

昨日の私の仮説を前提とすればの話だが、孫権が孫登を太子としたのは、孫権本人の意思よりは陸遜以下臣下などへの配慮などによる部分の方が大きかったことになる。 言い換えれば孫権は積極的ではなかったことになる。元々正妻から廃するつもりの徐氏を母とし…

太子孫登の逆転

昨日の続き的な話。 孫権が呉王になる時点では嫡子扱いじゃなくなってたように思える孫登が、なぜ復権したのか?あくまで仮説ではあるが、考えてみる。 当時の情勢を考えると、ちょうどその寸前に孫権は陸遜を中心として関羽を破り荊州南部をわが物としてい…

庶子孫登の憂鬱

昨日の続きのようなもの。 孫権が呉王になったころの孫登(まだ少年)は、長子という点では後継者候補と言うべき存在だったはずだが、その割に孫権からも魏からもそういう扱いをされていないように見える。 (徐)琨生夫人、初適同郡陸尚。尚卒、(孫)權為…

一転残留

帝欲封(孫)權子登、權以登年幼、上書辭封、重遣西曹掾沈珩陳謝、幷獻方物。 (『三国志』巻四十七、呉主伝) 孫權欲遣子登入侍、不至。 (『三国志』巻十三、王朗伝) 魏黄初二年、以(孫)權為呉王、拝登東中郎將、封萬戸侯、登辭疾不受。 (『三国志』巻…

疑問

孫権が魏帝曹丕から封建されたときの「呉王」は、どれくらいの領域だったんだろうか? 支配圏全域ではなかったんじゃないかという風に思うんだが、今のところ確証はない。

ひとこと+2

先日の後漢末三互法についてだが、曹操や孫権が影響を受けたと思われる中、出身のお陰でその影響はほぼ受けていない劉備は強いな・・・。ワイルドカード状態だ。 何しろ実質が無いものの方が多いとはいえ、予・荊・益州牧と司隷校尉を全部名乗っていた時期が…

ひとこと+1

昨日孫権について言ったけど、同じようなことは曹操にも言えるかもしれない。 少なくとも建安初期からの曹操の本拠はどう考えても予州だったと思う(兗州は袁紹が攻めてきたときにすぐ大規模に離反する程度の定着度)んだが、曹操自身が予州の支配・監督権(…

ひとこと

もしかして孫権が揚州刺史、牧にならないのって、昨日紹介した制度に引っかかるからなのか?知らんけど。

三互

初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。 【注】 三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拜平原相」是也。 (『後漢書』列伝第…

父の出身

そういえば昨日の記事なんだけど、雁門の人范隆の父とされる范方は雁門太守だったとされている。 ただ、一般にこのあたりの時代は自分の出身郡の太守にはならないのが普通だったらしい。 范隆の父とされる范方が雁門郡の人なら雁門太守になるのは(ありえな…

出生秘話

范隆字玄嵩、雁門人。父方、魏雁門太守。隆在孕十五月、生而父亡。年四歳又喪母、哀號之聲、感慟行路。單孤無緦功之親、疏族范廣愍而養之、迎歸教書、為立祠堂。隆好學修謹、奉廣如父。博通經籍、無所不覽、著春秋三傳、撰三禮吉凶宗紀、甚有條義。 (『晋書…

思い付き

「ほら!すぐ帝位が欲しいなら殺してみろよ!その気になれば一瞬だろ!ほら!やってみろって!ただ初代皇帝がそんなことする王朝は碌なことにはならないぞ!ほらやってみろって!」みたいな心境であったという点では、建安末期の献帝と挙兵の時の高貴郷公は…

ただの思い付き

後漢献帝が曹操が死んだ途端に帝位を曹丕に禅譲したの、「もはや天命が失われているのは認めているが、自分から権力を奪い皇后や皇子を奪い多数の臣下を奪った憎い曹操だけは絶対に皇帝にさせない。曹操でさえなければいい」という気持ちだった説。

ひとこと

そういえば先日の記事だけど、献帝の子の中で魏になってから一人だけ公主扱いされた子は、まあまず確実に曹操の娘の生んだ子だろうなあ・・・。 魏王朝においては現役皇帝と元皇帝の双方と血が繋がる人物になるんだろうから、特別扱いも当然と言えるかもしれ…

ひとこと

魏の長楽郡、どこにあったのかよくわからないな・・・。晋の長楽郡は冀州にあったようだが・・・。 魏郡に長楽県があったようなので、これが郡扱いされていたのかもしれない。 まあでも結局はよくわからない。

2つの長楽

魏書曰、(黄初四年)十二月丙寅、賜山陽公夫人湯沐邑、公女曼為長樂郡公主、食邑各五百戸。 (『三国志』巻二、文帝紀注引『魏書』) どうやら魏王朝の早い段階で「長楽郡」が生まれていたようだ。『晋書』でもしばしば「長楽太守」の存在が記されている。 …

ひとこと

そういえばかの魏諷の乱の時に魏国の「長楽衛尉」が出てくる。 長楽衛尉は少なくとも漢代では皇太后の宮殿「長楽宮」の衛尉と言うことになるので、この時の魏国には王太后=曹操の母は存在していなかったと思うが宮殿はあったということのようだ。 まあ次の…

魏諷の所在

(建安二十四年)九月、丞相掾魏諷謀殺曹操、發覺伏誅。 (『後漢紀』孝献帝紀巻第三十) かの魏諷について、『後漢紀』では「丞相掾」としている。 (建安二十四年)九月、相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。 【注】 世語曰、諷字子京、沛人。有惑衆才、傾動鄴都、…

幻の曹丕廃嫡

曹操が死に際になって後継者を曹丕から曹植に替えようとしたのだとして、一方的に廃嫡するだけの落ち度が曹丕にあったのだろうか? 言い換えると、廃嫡できる口実があったのだろうか? と思ったが、一つ心当たりがある。 いわゆる魏諷の事件(魏諷の乱)であ…

昨日の続き

昨日の話からすると、曹彰は臨終の曹操から呼び出されたことになっており、注引『魏略』ではその理由が「曹植を後継者にするため」だと曹彰自ら言ったとされている。 実際、曹操が死に際してわざわざ太子曹丕以外の王子を呼び出すという時点で、そういった勘…

自壊寸前

太祖東還、以(曹)彰行越騎將軍、留長安。太祖至洛陽、得疾、驛召彰、未至、太祖崩。 文帝即王位、彰與諸侯就國。 【注】 魏略曰、彰至、謂臨菑侯植曰「先王召我者、欲立汝也。」植曰「不可。不見袁氏兄弟乎!」 (『三国志』巻十九、任城威王彰伝) 今まで…

危険な発言

魏の文帝曹丕が郭氏を皇后に立てようとしたとき、中郎棧潜なる者が「妾を正妻にするなどとんでもない」的な反対をした。 これ、文帝の母にして武帝の正妻である皇太后卞氏がはっきりと「妾」だったと書かれていることを考えると、相当ヤバい発言だな・・・。…

もうひとこと

昨日のことの続きになるが、劉備が襄陽も江陵も占拠できること前提なの、結局は「曹操に降伏したかった者は荊州の中でいえば思ったより少数派である」ということなのかもしれない。 逆に言えば劉備こそ荊州においては多数派、主流派だったのでは。 曹操に降…

ひとこと

荊州で劉備が曹操から逃げる時、劉備たちは襄陽も江陵も占拠できることを前提に語っているのって、よく考えると不思議な話じゃないだろうか。 諸葛亮の勧めに対し劉備は「吾不忍也」とは言っているが、軍事的な不可は言っていない。 襄陽は劉琮らがいたはず…

不自然な空白期間

昨日の王淩の話、「とんとん拍子に出世して支店長にまでなったが、社長に抜擢されて社長秘書室の係員になった」みたいなところか。 秘書室の係員は普通なら支店長が就くような職ではないのだが、彼の場合は実は「元居た会社が傾いた時にライバル社に引き抜か…