三国

アンタッチャブル

孫権が正式に立てた皇后って潘氏しかいないはずなんだが、その潘氏が明らかに不自然に死んだのにも関わらずイマイチ扱いが薄い気がする。 『三国志』孫亮伝では母潘氏が皇后になったことは書くのに死んだことは書いてないし・・・。 これものすごく闇を感じ…

ひとこと(孫呉の暴君)

孫呉の皇帝孫休って、実は内心嫌っていた者が多かったんじゃないだろうか。 言動にところどころ暴君風味なところがあるし。 後継者を変更されたのは、太子が若かったからというばかりではなく、孫休自身が臣下たちから嫌われて、「反孫休」的空気が強かった…

ひとこと

『三国志』本紀の本文を見ていると、特段王や皇帝を非難するような文言を記さないが、実際に読んだ当時の人々からすると「おかしなことやってる」って印象をちゃんと持てるように計算して作ってるんだろうな、って思う。なんとなく。

烈祖様、二代前によって印象づけられた説

烈祖様こと魏明帝曹叡は、『三国志』においては、始皇帝になぞらえられる等、「暴君」として意識された書かれ方をしている。 彼は魏武こと曹操によってじきじきに後継者指名された、といったような話が残っている。 曹操といえば「才能あれば人格は二の次と…

どの夏侯氏

昨日の続き。 曹爽らと共に名前の出てくる領軍将軍夏侯献は、周囲が曹氏などであるためについ「沛の夏侯氏」だと思ってしまうが、実は「出世して要職に就けた魯の夏侯氏」説。

夏侯氏2系統説

『三国志』に出てくる曹操や夏侯惇らとの血縁関係が分からない夏侯氏は「沛の夏侯氏」ではなく「魯の夏侯氏」説。 『漢書』に載る儒者の夏侯勝らは「魯の夏侯氏」である。

ひとこと

曹操の元で、曹氏の一族は曹操の近親というだけでなく、「曹氏」という3代以上高級官僚を多数輩出している官僚一家として高い家格として扱われ、夏侯氏は実際には曹操とかなり親しいものの、官僚一家といったバックボーンが無い、いわば山賊が帰順したとか…

ひとこと(曹操配下の加増)

曹操の配下の将たちの多くは亭侯・郷侯に割と早くなっているが、そこからはどうもなかなか上がっていかない。 袁氏に勝っても盛大には加増・昇進している感じではない。 この辺はまだ統一まで行っていないから、っていうのが大きいとは思うのだが、一方で曹…

恭王の子孫2

先日の記事で、「劉焉の先祖は前漢の魯恭王余ではなく、後漢初期の城陽恭王祉ではないか」と述べた。 だが、「まさか『三国志』や『後漢書』が劉氏の王の記述についてそんな間違いをするだろうか」みたいな疑問もあるだろう。 しかし、実際にこういう例もあ…

恭王の子孫

劉焉字君郎、江夏竟陵人也。漢魯恭王之後裔、章帝元和中徙封竟陵、支庶家焉。 (『三国志』巻三十一、劉二牧伝) (劉)平後坐與諸王交通、國除。永平五年、顯宗更封平為竟陵侯。平卒、子真嗣。真卒、子禹嗣。禹卒、子嘉嗣。 (『後漢書』列伝第四、城陽恭王…

ひとこと

献帝の時の司徒趙温は曹丕を幕下に招いたことを曹操におもねるものとされたわけだが、曹丕をしかるべき官に就けるための手続きとしての辟召をするにふさわしい相手ってのは三公とかなんだろうから、まさか父自身がやるわけにもいかないと考えると、趙温がや…

『三国志』の配分

陳寿『三国志』って、支配領域の人口なり州の数なりで考えてみると、「蜀書」部分の比重が大きくて、「魏書」が軽いんじゃないか、と思わなくもない。 魏の方が多くの人物、多くのエピソードが残っているような気もするが、注の『魏略』などの引用が多いので…

魏公国と晋公国の違い

昨日の補足だけど、そもそも晋公国の場合、魏になってから郡が細分化されていたので、後漢の単位なら10郡分にも満たないんだよな。 そのうえ、成立の経緯から考えるとどこまでまともな郡として機能していたか怪しく感じるような新興郡まで含まれてるし。 …

魏公国の3割

司馬昭の晋公国は、「太原・上党・西河・楽平・新興・雁門・河東・平陽・弘農・馮翊」の10郡からなる。 『続漢書』郡国志によれば、各郡の戸数は以下の通り。 太原:30,902戸上党:26,222戸西河:5,698戸楽平:上党郡から分離新興:15…

ひとこと(晋国と魏国)

そういえば、司馬昭の晋国って、太原・上党・西河・楽平・新興・雁門・河東・平陽・弘農・馮翊で10郡なんだな。 同じ10郡でも曹氏の魏国とは人口の稠密度がかなり違うような気がするな・・・。

三公荀彧<完結編>

魏氏春秋曰、太祖饋(荀)彧食、發之乃空器也、於是飲藥而卒。咸熙二年、贈彧太尉。 (『三国志』巻十、荀彧伝注引『魏氏春秋』) ふと思ったが、先日の記事で記した荀彧が曹操より三公に推薦されたという件、荀彧が司馬氏の代になって太尉を追贈されたこと…

三公荀彧

太祖欲表(荀)彧為三公、彧使荀攸深讓、至于十數、太祖乃止。 (『三国志』巻十、荀彧伝注引『荀彧別伝』) 『荀彧別伝』では、袁氏に勝ったあたりで曹操が荀彧を三公にしようとするという動きがあったとされている。 まあこの話自体の信憑性が怪しいのでは…

夏侯氏と曹氏の待遇

曹魏の夏侯氏は夏侯惇・夏侯淵を含め郷侯・亭侯で、県侯に基本なっていないんだな。 曹氏はある程度の功績がある者は県侯に至っているらしいから、曹魏(曹操)の中で夏侯氏と曹氏は、ともに親戚、宗室といった扱いが共通しているように思えるが、実際の待遇…

ひとことメモ(SS)

曹操の私兵と後漢末の郡兵の関係は、ドイツの国民社会主義ドイツ労働者党の政権時代における武装親衛隊とドイツ国防軍の関係の相似形・・・という説をさっき思いついた。 今のところ特にそれ以上の広がりは無いが、いつか思い出したくなるかもしれないので、…

後漢末の名文

建安十五年十二月己亥令を改めて見てみたが、曹操は「人の力で成し遂げられた勝利ではない。天が漢を助けたのだ」と言いながら、その同じ令の中で「自分(曹操)がいなかったら天下に僭称者が何人いたことか」と、自分自身の功績を誇るような言葉を述べてい…

魏公に反対した荀彧の心理

曹丞相はね 劉備なんて恐れないし 守りに入らないし やる戦全部がめちゃくちゃ勝てなきゃいけないの それなにの・・・董昭は何もわかってないのに・・・安定を選んで曹丞相を魏公にしようとした・・・ 荀彧、曹操の厄介ファン説。

ひとこと(曹操夫人について)

曹操って宋皇后の事件で失脚するまでの方が曹氏全体の羽振りが良かった(それ以降は失脚を経ている)位のはずなので、若い頃の妻、つまり最初の正妻と思われる劉夫人がそういった時期に結婚した相手なんじゃないかと思う。 つまり、劉夫人が最も家格の高い家…

劉夫人の子

曹操の子の相殤王鑠って、早死にだったとは言われるが子供がいたようだし、いつ亡くなったのかよく分からないし、微妙に何か隠されてる感じがあるよな・・・。 おそらくは最初の正妻であろう劉夫人の子、つまり嫡子だろうし、年齢も曹丕以上じゃないかと思う…

ひとこと

曹操の正妻は丁氏であったが、この丁氏というのは曹操の父曹嵩の妻と同じ姓である。 まあ同族、なんなら近親の可能性が高いだろう。曹操とその正妻は従兄弟の関係でもおかしくない。 そう思えば、丁氏が曹操を一方的に離縁できたのも、それでも曹操が丁氏の…

ひとこと

個人的には烈祖様や曹丕や曹操に対してことさらに悪感情を抱いているわけでもなければ、特に貶めようと思ってもいないのだが、見つけた話などを積み重ねていくたびに彼らの微妙なポイントや失点が加算されている気がする。 気がするだけならいいが。

一人加増せず

華嶠譜敍曰、文帝受禪、朝臣三公已下並受爵位。(華)歆以形色忤時、徙為司徒而不進爵。魏文帝久不懌、以問尚書令陳羣曰「我應天受禪、百辟羣后莫不人人悦喜、形于聲色、而相國及公獨有不怡者、何也?」羣起離席長跪曰「臣與相國曾臣漢朝、心雖悦喜、義形其…

王祥理論の淵源

t-s.hatenablog.com t-s.hatenablog.com そういえば、華歆が曹丕即位時に不満げな顔をしていたために不興を買ったという件と、王祥が司馬炎に対して敢えて拝礼を行わなかった件は、ある意味では同じような意味合いなんだろうな。 あと司馬孚などが高貴郷公の…

ひとこと

ふと思っただけだが、かの有名な曹操の「唯才」、つまり実力さえあれば人格に少々難があっても採用する、って話は、誰よりも体現してるのは曹操や曹丕自身かもなあ・・・。

廃位黙示録セイオウ

帝言『我作天子。不得自在邪?太后何與我事!』使人燒鐵灼(令狐)景、身體皆爛。 (『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平六年、注引『魏書』) この皇帝は曹魏の斉王芳。 斉王芳が自分に楯突いた(諫言した)令狐景にした仕打ち、これって「焼き土下座」じゃない…

ヘッドショット

帝常喜以彈彈人、以此恚(令狐)景、彈景不避首目。 (『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平六年、注引『魏書』) この「帝」は曹魏の斉王芳。 斉王芳は人に向けてBB弾を発射するのが好きだったそうだ。自分の気に食わない清商令令狐景に対しては顔に向けて撃っ…