劉備の即位についての戯言

光武帝劉秀は元々は更始帝劉玄の将であった。

光武帝は兄劉伯升の死などを経て更始帝との関係が険悪になり、更始2年(西暦24年)には光武帝は河北で独立状態になっていた。

そしてその翌年6月、光武帝は臣下の言を聞き入れて皇帝の位に就き建武改元した。


この時、更始帝はまだ健在だった。
大集団赤眉の軍勢が迫る危機的状況ではあったが、いまだ地位を追われてもいなければ殺害されてもいない。

建武元年春正月、平陵人方望立前孺子劉嬰為天子、更始遣丞相李松撃斬之。
(『後漢書光武帝紀上)

光武帝即位の直前、王莽によって平帝の次の皇帝ということに決められていたかの孺子嬰は、方望という人物によって皇帝に立てられたが更始帝によって鎮圧されて殺された。


仮に、前漢の公式化された皇統に全面的に依拠するなら、王莽が死んだ後の漢の帝位には孺子嬰があるべきだろう。
だが、更始帝も周囲の人間もそんなことは考えなかったし、光武帝だって他の当時の有名人だって孺子嬰に帝位を返還しろなどと言った形跡は無い。

王莽に立てられた傀儡に配慮してやる必要などは無い、というのが彼らの正直な思いなのではないだろうか。
と同時に、一度地位を失った者をわざわざ元の地位にしてやる必要も無いということだろう。唯一の劉氏でもないのだから。


本項は別に光武帝更始帝の不義理を糾弾するとか、正統性に疑問を付けるとかしたいわけではない。

後漢初めにおいて先帝がこのような手続きを取った以上、後漢末の劉氏たちがそれを模倣することを道義的な面では否定できないということだ。
その手法の否定は光武帝批判になってしまう。後漢王朝に連なる者にはたやすくできる事では無い。


袁紹らが劉虞を即位させようとした際には劉虞を光武帝即位に重ね合わせた。
西に皇帝が居るのに東に別の皇帝が立つ。これは更始帝光武帝の関係そのままだ。
しかも西の皇帝は専権者が立てた傀儡で、しかも劉氏ではないという疑惑もある(噂を流しただけだとしても)。
献帝孺子嬰や呂氏政権の少帝といった、過去の正統を失った皇帝たちにも重ね合わせられているのだ。
劉虞が乗ればどう転んだか分からない、案外練られた策だったのではないだろうか。


もう一つ、後漢末劉氏の即位といえば劉備の皇帝への即位がある。
劉備が即位したのは献帝が魏文帝に地位を明け渡したことが明らかになってからである。
つまり、劉備献帝を正統な皇帝と認め、あくまでもその次として即位しているのだ。
少なくとも記録上では、この点では劉備献帝のことを否定していない。
否定するのはあくまでも魏の文帝の所業なのである。
光武帝更始帝の帝位を否定したのとは対照的である。

また、劉備献帝が死んだという伝聞に基づいているが、万が一後に生きていることが明らかになったとしても大した問題では無い。
更始帝が生きていた孺子嬰に位を返したりはしなかったように、相応の地位は与えるにしても皇帝の位を返したりする必要など無いのだ。
後漢初めに先帝が行ったことに準拠すればそうなる。


あくまでも記録上、書類上というレベルかもしれないが、劉備の即位はなかなかスジが通っていると思う。