河東郡聞喜県の裴氏

太常廣漢鐔承・光祿勳河東裴儁等、年資皆在光後、而登據上列、處(孟)光之右、蓋以此也。

【注】
傅暢裴氏家記曰、儁字奉先、魏尚書令潛弟也、儁姉夫為蜀中長史、儁送之、時年十餘歲、遂遭漢末大亂、不復得還。既長知名、為蜀所推重也。子越、字令緒、為蜀督軍。蜀破、遷還洛陽、拜議郎。
(『三国志』孟光伝)

蜀の孟光はずけずけモノを言い過ぎて出世できず、鐔承や裴儁に追い抜かれたという。

その裴儁だが、彼は河東の人であった。
注の『裴氏家記』によれば魏の裴潜の弟だという。
若い頃にたまたま蜀に行っていて戦乱に遭遇し戻るに戻れなくなったのだという。


この時代、兄弟で別の国に仕えたというと諸葛亮の兄弟などの例が有名だが、こんな例もあったのだ。