曹操臨終の変心

太祖崩洛陽、(賈)逵典喪事。時鄢陵侯彰行越騎將軍、從長安來赴、問逵先王璽綬所在。逵正色曰「太子在鄴、國有儲副。先王璽綬、非君侯所宜問也」遂奉梓宮還鄴。
(『三国志』賈逵伝)

太祖東還、以彰行越騎將軍、留長安。太祖至洛陽、得疾、驛召彰、未至、太祖崩。
(『三国志』任城威王彰伝)

魏の太祖曹操が洛陽で病を得た際、彼は息子の一人曹彰長安から緊急に召し出したという。
曹彰曹操臨終に間に合わなかったが、曹操の遺体を奉じる賈逵に対して曹操の璽綬のありかを尋ね、逆に賈逵に一喝された。


これについて、『魏略』では曹彰はこう言ったと伝えている。

魏略曰、彰至、謂臨菑侯植曰「先王召我者、欲立汝也」植曰「不可。不見袁氏兄弟乎!」
(『三国志』任城威王彰伝注引『魏略』)

曹彰によれば、曹操が臨終に際して自分を呼んだのは、曹植を後継に立てるためだという。
これが曹操から直接命じられたことなのか、それとも曹操の命令を自分で解釈したものなのかははっきりしないが、曹彰曹操の璽綬のありかを知りたがったのも曹植を後継にするためだったと考えられる。
曹植に王位を継がせるには、王位の象徴である璽綬を占有する必要があるからだ。


もし曹彰の言うように曹操曹植を後継にしようとして曹彰を呼んだのだとすれば、魏はこの時最大の危機を迎えていたと言える。
曹植が言ったように、またかつて賈詡をはじめとする多くの大臣も指摘していたように、敢えて年少の子を立てるという行為は勢力の継承という観点では極めて危険である。
まして、魏の場合は曹丕はすでに王太子に決定されているのだ。

曹植を今さら後継者にするなどというのは、血迷ったとしか言えない。袁紹の後継者選びや孫権の悪名高い二宮事件も目じゃないような大混乱が起こることは確実である。


曹操が本気で曹植を後継にしようとして曹彰を呼んだのであれば、危うくここまで築いたものを自ら台無しにしそうになったということになり、曹操は晩節を汚したと言わざるを得ない。
お堅い賈逵と冷静な曹植のお陰で助かったのである。


もし曹彰が勝手に「曹植後継」という曹操の遺志を「解釈」したのだとしたら、曹彰は愚かしいと言わざるを得ない。