2011-09-01から1ヶ月間の記事一覧
武帝時、使上林苑中官奴婢及天下貧民貲不滿五千、徙置苑中養鹿、因收撫鹿矢、人日五錢、到元帝時七十億萬、以給軍撃西域。 (衛宏『漢官旧儀』) 漢の武帝の頃、皇帝の巨大庭園(お狩場)である上林苑に官有の奴婢や貧民を連れてきて鹿を育てさせ、鹿のフン…
尚書四員、武帝置、成帝加一為五。有常侍曹尚書、主丞相御史事。二千石尚書、主刺史・二千石事。戸曹尚書、主人庶上書事。主客尚書、主外國四夷事。成帝加三公尚書、主斷獄事。 (応劭『漢官儀』) 初秦代少府、遣吏四人在殿中主發書、故號尚書。尚猶主也。…
武帝太初元年、初置建章營騎、後更名羽林。以天有羽林之星、故取名焉。又取從軍死事之子孫養羽林官、教以五兵、號曰羽林孤兒。光武中興、以征伐之士勞苦者為之、故曰羽林士。羽林者、言其為國羽翼、如林盛也。皆冠鶡冠。一名為嚴郎、言其禦侮嚴窅。其後簡取…
ブルボン「くだもの習慣 こゆず」。ゆずだった。美味しかったけど季節モノだからすぐ消えるだろうな。それが残念。 マルハニチロ「国産甘夏」。これも旬のモノ。個人的にはこゆずよりも好み。ほのかな甘さと苦さのハーモニーが心地よい。 たらみ「薫るライチ…
孝成皇帝好詩・書、通覽古今、間習朝廷儀禮、尤善漢家法度故事。常見中壘校尉劉向、以世俗多傳道、孝文皇帝、小生於軍、及長大有識、不知父所在、日祭於代東門外、高帝數夢見一兒祭己、使使至代求之、果得文帝、立為代王。及後徴到、後期、不得立、日為再中…
俗言、東方朔太白星精、黄帝時為風后、堯時為務成子、周時為老聃、在越為范蠡、在齊為鴟夷子皮。言其神聖能興王霸之業、變化無常。 (応劭『風俗通』正失) 後漢末の応劭の頃のことなんだと思うが、俗に前漢武帝の頃の東方朔は太白星のアバターで、黄帝の時…
獻帝建安四年、始置左右僕射、以執金吾營郃*1為左僕射、衛臻為右僕射。 (応劭『漢官儀』) 漢の献帝の建安四年、尚書左僕射・右僕射が置かれた。 この右僕射衛臻は、おそらく『三国志』巻二十二に立伝されている衛臻だろう。 *1:『続漢書』百官志三、尚書僕…
侍中冠武弁大冠、亦曰惠文冠。加金璫、附蟬為文、貂尾為飾、謂之貂蟬。侍中金蟬左貂、金取堅剛、百錬不秏、蟬居高食潔、目在腋下、貂内勁悍而温潤。 貂蟬不見傳記、説者因物生義、予覽戰國策、乃知趙武靈王胡服也。其後秦始皇破趙、得其冠以賜侍中。高祖滅秦…
元帝時、丞相于定國條州大小、為設吏員、治中・別駕・諸部從事、秩皆百石、同諸郡從事。 (応劭『漢官儀』) 前漢の時代、刺史には専門の属官が特に無かった。それが後漢末頃によく名前を聞く「治中従事」「別駕従事」などの従事、つまり属官はついたのはい…
幘者、古之卑賤執事不冠者之所服也。 孝武時、天子以下未有幘。元帝額上有壮髮、不欲使人見、乃使進幘、群寮隨焉。 幘本無巾、如今半幘而已。王莽無髮、因為施巾、故里語曰「王莽頭禿施幘屋」 (応劭『漢官儀』) 「幘」、これはまあ頭を包む頭巾というとこ…
ああ、いつのまにか通算1000日になってた。
弘、大也、所以廣大農業也。 (応劭『漢官儀』) 弘農郡という地名の由来らしい。京兆尹とかはよく見かけるが弘農郡は珍しいと思ったのでメモ。
孝武皇帝南平百越、北攘夷狄、置交阯・朔方之州、復徐・梁之地、改雍曰梁、改梁曰益、凡十三州。所以交・朔獨不稱州、明示帝王未必相襲、始開北方、遂交南方、為子孫基阯也。 (応劭『漢官儀』) 「交阯(交趾)」という名の由来について。 もう一つの説につ…
宮人擇官婢年八歳以上、侍皇后以下、年三十五出嫁。乳母取官婢。 (衛宏『漢官旧儀』) 漢の後宮に仕える者は、八歳以上の官婢(刑罰等により官有奴隷とされた女性)から選び出されて皇后以下の後宮の女性の世話をした。彼女たちは35歳になると後宮を出さ…
皇后一人。婕簱以至貴人、皆至十數。美人比待詔、無數、元帝・成帝皆且千人。 (衛宏『漢官旧儀』) 前漢の後宮の称号の中に、「美人」というものがあった。 しかしこれはあまり高い地位ではなく、朝廷では「待詔」つまり皇帝のお召しを待ち続けるという状態…
奉璽書使者乘馳傳。其驛騎也、三騎行、晝夜行千里爲程。 (衛宏『漢官旧儀』) 漢代、皇帝の勅書を奉じる使者は早馬の馬車に乗った。勅書を駅伝形式で速達する際は、3騎を同時に走らせ、昼夜合計千里を走ることとしていた。 当時の最速の文書伝達は一日千里…
衛太子嶽鼻、太子來省疾、至甘泉宮。江充告太子勿入、陛下有詔、惡太子嶽鼻、當以紙蔽其鼻。充語武帝曰、太子不欲聞天子膿臭、故蔽鼻。武帝怒太子、太子走還。 (唐『三輔旧事』) 武帝の太子である衛太子は鼻が高かった。 衛太子が病気になった父武帝の見舞…
平陵士孫奮、貲至一億七十*1萬、富聞京師而性儉木恡。從子瑞、辟梁冀掾、奮送絹五匹、食以乾魚。(『三輔決録』) 後漢の人、平陵の士孫奮は富豪だったが吝嗇家でも有名だった。 甥の士孫瑞が権力者梁冀の掾に招かれた際、彼はその甥のために絹五匹を贈り、…
秦始皇時、隠宮之徒至七十二萬、所割男子之勢高積成山。 (『三輔故事』) 始皇帝の時代、隠宮の徒(伝統的解釈によれば宦官*1)が72万人いた。72万人もいるものだから、去勢して取っちゃった男のアレが山のように積まれていたという。 なんとも恐ろしい…
婁敬曰、臣願爲高車使者持節往至匈奴庭與其分土定界、至曰、汝本處北土之濱、秦亂、汝侵其界、不居中國地。今昏姻已成、當還本牧、還我中國地。汝作丹書鐵券曰、自海以南冠蓋之士處焉、自海以北控弦之士處焉。割土盟子然後還。 (『三輔故事』) 『三輔故事…
按、三輔故事曰「楚漢相距於京索間六年、身被大創十二、矢石通中過者有四」。言漢王病創也。 (『史記』巻八高祖本紀索陰、漢王四年) 三輔故事によれば、漢の高祖劉邦は項羽との戦いの中で十二のいくさ傷を負い、そのうち四度は矢石が皮膚を貫き体内まで到…
漢諸陵皆屬太常、不屬郡縣。其人盗柏者棄市。 (晋『三輔故事』) 漢の皇帝陵は太常に属し、郡県には属していなかった。つまり、皇帝陵は通常の郡県で適用される律令の埒外、一種の治外法権ということである。 具体的には、柏の木を盗んだだけで処刑されたと…
或問揚雄為賦。雄曰讀千首賦。乃能為之。 (『西京雑記』巻二) 前漢末の有名な文人、揚雄。 ある人が彼に賦の作り方を訊ねた。すると揚雄は「俺、賦を読んでるうちに自然に作れるようになったんだよねー。読んだのは千首くらいかな?」と答えた。 こいつ、…
漢帝相傳以秦王子嬰所奉白玉璽、高帝斬白蛇劍。 劍上有七采珠・九華玉以為飾、雜廁五色琉璃為劍匣。劍在室中光景猶照于外與挺劍不殊。十二年一加磨瑩。刃上常若霜雪。開匣拔鞘輒有風氣光彩射人。 (『西京雑記』巻一) ずっと前に記事にしたことがある「霊金…
聖王之建百官也、皆以承天治地、牧養萬民者也。是故有號者必稱於典、名理者必效於實、則官無廢職、位無非人。 夫守相令長、效在治民。州牧刺史、在憲聰明。九卿分職、以佐三公。三公總統、典和陰陽。皆當考治以效實為王休者也。侍中・大夫・博士・議郎、以言…
乃者邊害震如雷霆、赫如日月、而談者皆諱之、曰猋并竊盜。淺淺善靖、俾君子怠、欲令朝廷以寇為小而不蚤憂、害乃至此、尚不欲救。 諺曰「痛不著身言忍之、錢不出家言與之。」假使公卿子弟有被羌禍、朝夕切急如邊民者、則競言當誅羌矣。 (『潜夫論』救辺第二…
茂陵少年李亨好馳駿狗、逐狡獸、或以鷹鷂逐雉兔、皆為之佳名。狗則有脩毫・釐睫・白望・青曹之名。鷹則有青翅・黄眸・青冥・金距之屬。鷂則有從風鷂・孤飛鷂。 (『西京雑記』巻四)
元后在家、嘗有白燕銜白石、大如指、墜后績筐中。后取之、石自剖為二、其中有文曰母天地。后乃合之、遂復還合。乃寶録焉。後為皇后、常并置璽笥中、謂為天璽也。 (『西京雑記』巻五) 漢の元帝の皇后王氏、すなわち王莽の伯母「元后」。彼女がまだ実家にい…
捜神記曰、建安初、荊州童謠曰「八九年間始欲衰、至十三年無孑遺。」言自中平以來、荊州獨全、及劉表為牧、民又豐樂、至建安八年九年當始衰。始衰者、謂劉表妻死、諸將並零落也。十三年無孑遺者、表當又死、因以喪破也。 是時、華容有女子忽啼呼云「荊州將有…
初、太和中、中護軍蔣濟上疏曰「宜遵古封禪」。詔曰「聞濟斯言、使吾汗出流足」事寝歴歲、後遂議脩之、使(高堂)隆撰其禮儀。帝聞隆沒、歎息曰「天不欲成吾事、高堂生舍我亡也。」 (『三国志』巻二十五、高堂隆伝) 魏の明帝は中護軍蔣済より「古にならっ…