曹操最後の行軍

魏略曰、時太子在鄴、鄢陵侯未到、士民頗苦勞役、又有疾癘、於是軍中騷動。群寮恐天下有變、欲不發喪。逵建議為不可祕、乃發哀、令内外皆入臨、臨訖、各安叙不得動。而青州軍擅撃鼓相引去、衆人以為宜禁止之、不從者討之。逵以為「方大喪在殯、嗣王未立、宜因而撫之」乃為作長檄、告所在給其廩食。
(『三国志』賈逵伝注引『魏略』)

曹操が洛陽で死亡した時のこと。
前に話題にしたように賈逵が曹操亡き軍を取り仕切り、更には曹彰の璽綬への色目を一喝したわけだが、当時の困難はそれだけではなかったらしい。


曹彰が到着する前は、軍中は労役に苦しみ、更に病気も蔓延し、動揺が起こっていたという。

これは、「曹操の死去によって起こった」動揺ではない。
何故なら、『魏略』にあるようにこれは曹操の喪を発表、つまり死亡を発表する前のことだからである。
もちろん噂が広まっていたというのはあるだろうが、曹操が生きているか死んだのか分からないというシュレジンガーの猫状態でありながら、曹操直属の軍内は動揺をきたしていたのである。
労役への不満や病気の蔓延が原因というから、例の青州兵が曹操死亡の噂を聞いて動揺した、というだけのものではなさそうだ。むしろそれ以外の大多数の兵卒の間に不穏な空気が流れていたと見るべきではないだろうか。


この時の曹操の軍は、曹操が生きていた時から、我々が思う以上にコンディションが悪い状態だったように思える。


思えば、この時の曹操は死亡する前年五月に利なくして漢中から長安へ戻り、その年十月に洛陽へ到着し、そこから関羽討伐のため南征し、翌年正月にはまた洛陽へ戻っているのである。
もちろん長安と洛陽ではある程度休養を取るとか人員を入れ替えるとかしたかもしれないが、基本的に同一の軍が行軍したと考えると、なかなかにハードワークではないかと思う。
兵士たちの疲労は限界だったのだろう。


この動揺を賈逵が適切に処理したお陰で反乱や暴発を避けられたということのようである。
喪を発表すると動揺が収まるということは、兵士たちは「やった、これで帰れる!当分服喪期間だから軍役無い!」と喜んだと言う事なのかもしれない。
曹操の死を隠した方が「俺達まだ戦うの・・・?」と不満が蓄積していた、ということなのだろうか。
(もしそうだとすると、曹操がずっと元気だった方がもっと不満が強かったんじゃないかとも思えてくる。それと、もしかすると曹彰を呼び寄せたのは自分の軍中の動揺を抑えるためなのかもしれない)


一歩間違えれば、曹操はその死と共に今までの栄光に泥を塗るような事態を招いてしまうところだったのかもしれない。