魏王朝の作詩

五月辛未、帝幸辟雍、會命群臣賦詩。侍中和逌・尚書陳騫等作詩稽留、有司奏免官。詔曰「吾以暗昧、愛好文雅、廣延詩賦、以知得失、而乃爾紛紜、良用反仄。其原逌等。主者宜勅自今以後、群臣皆當玩習古義、脩明經典、稱朕意焉」
(『三国志』高貴郷公紀、甘露二年)

三国時代、魏の後期においては、高官にとって作詩は身につけていて当然のたしなみであったらしい。
魏に限らない当時の流行だったのか、魏の武帝・文帝が作詩大好きだったことから定例化した魏のローカルルールだったのかわからないが。
侍中和逌・尚書陳騫らは作詩をもたもたしていたという理由で罷免されそうになった。

皇帝の高貴郷公は「いや古の経典(五経)の方が大事だし」と作詩よりも大事なものがあると言った。
当時の作詩を流行らせたかもしれない武帝・文帝の子孫だというのが面白い。