魏郡と冀州の膨張

割河內之蕩陰・朝歌・林慮。東郡之衛國・頓丘・東武陽・發干。鉅鹿之廮陶・曲周・南和、廣平之任城、趙之襄國・邯鄲・易陽以益魏郡。
(『三国志武帝紀、建安十七年)

今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡、封君為魏公。
(『三国志武帝紀、建安十八年)


かの曹操が魏公になる時のこと。
曹操が魏公になる前年の建安十七年、魏郡に属する県の数を隣郡から移管して倍増するという命令が下された。
まあ、誰が見ても曹操が封建を受ける際の中心となるのが魏郡であろうことは明らかである。そこを増強しようということだろう。

この命令が発布された時点では、あの魏公反対者荀紣はまだ死んでいないと思われる。
荀紣は建安十七年末頃に死亡したと推定される)
明らかに魏公への封建の前段としか思えない魏郡拡大命令を、荀紣はどう思ったのだろうか。
魏公になることさえ止めれば他は小さな事だと思っていたのだろうか。
それとも、荀紣が侍中・守尚書令を解任されて実権を失ってから裁可された事案なのだろうか。


もう一つ、建安十八年、曹操が魏公になる際の皇帝の策命の中では、何故か河東、河内、平原郡が冀州ということになっている。
『続漢書』郡国志あたりを見れば分かるように、河東と河内は司隷、平原は青州に属する郡のはずである。
いつの間にやら、冀州は拡大しているのである。

これについては、『三国志荀紣伝にこんな話がある。

九年、太祖拔鄴、領冀州牧。
或説太祖「宜復古置九州、則冀州所制者廣大、天下服矣」
太祖將從之、紣言曰「若是、則冀州當得河東・馮翊・扶風・西河・幽・并之地、所奪者衆。前日公破袁尚、禽審配、海內震駭、必人人自恐不得保其土地、守其兵衆也。今使分屬冀州、將皆動心。且人多説關右諸將以閉關之計。今聞此、以為必以次見奪。一旦生變、雖有守善者、轉相脅為非、則袁尚得𥶡其死、而袁譚懷貳、劉表遂保江・漢之間、天下未易圖也。願公急引兵先定河北、然後修復舊京、南臨荊州、責貢之不入、則天下咸知公意、人人自安。天下大定、乃議古制、此社稷長久之利也」太祖遂寢九州議。
(『三国志荀紣伝)

曹操が一度は施行しようとした九州制においては、当時の現行制度よりも冀州の領域が広がることになる。
それが冀州曹操に利するという策略だというのだが、荀紣は逆に動揺を招くとして反対した。


荀紣が死ぬ事によって実行されたのは魏公封建だけではない。
古の九州制度復活に名を借りた曹操の支配領域拡大策も蘇っているのである。