弘農楊氏と天水趙氏

武元楊皇后諱艷、字瓊芝、弘農華陰人也。
父文宗、見外戚傳。母天水趙氏、早卒。
后依舅家、舅妻仁愛、親乳養后、遣他人乳其子。及長、又隨後母段氏、依其家。
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、武元楊皇后)


晋の武帝司馬炎の正妻楊氏の母は「天水趙氏」だったそうな。




(皇甫)謐又載趙昂妻曰、趙昂妻異者、故益州刺史天水趙偉璋妻、王氏女也。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝注引『列女伝』)

この「天水趙氏」って、あのみんな大好き王異の嫁ぎ先の家の事じゃないのか。



無論楊皇后と趙昂・王異の関係は分からんけど。




そして、この注にある『列女伝』のこの部分は、編者である晋の皇甫謐にとってみれば「初代皇帝の皇后の実家」の話なわけか。




王氏と楊氏、あと司馬氏

王朗字景興、東海郯人也。以通經拝郎中、除菑丘長。師太尉楊賜、賜薨、棄官行服。
・・・(中略)・・・
黄初中、鵜鶘集靈芝池、詔公卿舉獨行君子。朗薦光祿大夫楊彪、且稱疾、讓位於彪。帝乃為彪置吏卒、位次三公。
(『三国志』巻十三、王朗伝)

王朗は太尉にまでなった楊賜を学問の師とし、楊賜が死ぬと官を捨てて喪に服した。



そして時代が下ると、楊賜の子楊彪を皇帝(曹丕)に推薦し、自分の位(司空)を彼に譲るとまで言った。





言うまでもなく楊賜・楊彪はいわゆる弘農楊氏であり、弘農楊氏は司馬炎の正妻楊皇后の実家である。






王朗の東海王氏は、泰山羊氏を通して司馬氏と繋がり、弘農楊氏を通して司馬氏と繋がっていた、のかもしれない。


后少聰慧、善書、姿質美麗、閑於女工。有善相者嘗相后、當極貴、文帝聞而為世子聘焉。
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、武元楊皇后)


司馬昭が楊皇后の事を知って司馬炎の妻にしたというのも、そもそも弘農楊氏が司馬昭の正妻王氏と関係の深い家であって、その司馬氏・王氏・楊氏の間の日ごろの付き合いの中で耳に入った、といった感じだったのかも。

王氏の母

帝以后母羊氏未崇諡號、泰始三年下詔曰・・・(中略)・・・故衛將軍・蘭陵景侯夫人羊氏・・・(後略)・・・
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、文明王皇后)

へえ、司馬昭の妻王氏(王元姫)の母は羊氏だったのか。



言い換えると羊氏は王粛(王朗の子)の妻。




羊氏といえば司馬師の正妻や初期の功臣羊祜の泰山羊氏。この王氏の母もこの一族かどうかはっきりしないが、司馬氏との関係を考えると、きっとそうなのだろう。



羊氏は司馬師だけではなく司馬昭自身にとっても縁戚だったのか。初めて知った。

恩赦

以(呂)蒙為南郡太守、封孱陵侯、賜錢一億、黄金五百斤。蒙固辭金錢、權不許。封爵未下、會蒙疾發、權時在公安、迎置内殿、所以治護者萬方、募封内有能愈蒙疾者、賜千金。時有鍼加、權為之慘慽、欲數見其顔色、又恐勞動、常穿壁瞻之、見小能下食則喜、顧左右言笑、不然則咄唶、夜不能寐。病中瘳、為下赦令、羣臣畢賀。後更增篤、權自臨視、命道士於星辰下為之請命。年四十二、遂卒於内殿。時權哀痛甚、為之降損。
(『三国志』巻五十四、呂蒙伝)

孫権は病に倒れた呂蒙が少し回復すると、恩赦を出したのだという。



この時の孫権はまだ王でもなかったと思ったが、領内では独自に(勝手に、とも言う)恩赦を出していたという事だろうか。しかも孫権にとって重要とはいえ一将の回復を理由にして。




まあ、どんな規模での恩赦なのか分からないので、当時の孫権が持ちうる権限で行ってもおかしくないものだった可能性も無くはないが、恩赦の類というと本来は皇帝が出すべきものという感じだと思うので違和感はある。

虎はなにゆえ強いと思う?

老子者、楚苦縣厲郷曲仁里人也、姓李氏、名耳、字耼。周守藏室之史也。
【注】
正義、朱韜玉札及神仙傳云「老子、楚國苦縣瀬郷曲仁里人。姓李、名耳、字伯陽、一名重耳、外字耼、身長八尺八寸、黄色美眉、長耳大目、廣額疏齒、方口厚脣、額有三五達理、日角月懸、鼻有雙柱、耳有三門、足蹈二五、手把十文。周時人、李母八十一年而生。」又玄妙内篇云「李母懷胎八十一載、逍遙李樹下、迺割左腋而生。」又云「玄妙玉女夢流星入口而有娠、七十二年而生老子。」又上元經云「李母晝夜見五色珠、大如彈丸、自天下、因吞之、即有娠。」張君相云「老子者是號、非名。老、考也。子、孳也。考教衆理、達成聖孳、乃孳生萬理、善化濟物無遺也。」
(『史記』巻六十三、老子韓非列伝)


いわゆる老子は名を李耳といい、『神仙伝』などでは身長8尺8寸(漢の尺で考えると2メートル以上)であったという。




言うまでもなくかなりの巨体である。




ところで、どうも漢代頃には虎のことを「李耳」と呼ぶことがあったらしいのだが、この老子=李耳の巨体の事を考えると、「老子=李耳=巨体=強い=虎」という連想からそういった呼び名が出来たのではないか、などという憶測をしたくなる。




老子といい、孔子こと孔丘先生といい、どうもこの時代の知の巨人たちは比喩ではなく巨人たちだったらしい。




漢の昭帝の身長

及曾孫壯大、(張)賀欲以女孫妻之。是時、昭帝始冠、長八尺二寸。
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后)

漢の昭帝は身長が8尺2寸(約189センチくらいか)だったらしい。




(項)籍長八尺二寸、力扛鼎、才氣過人。
(『漢書』巻三十一、項籍伝)


ちなみにこの身長はあの項羽と同じ。当時として巨体の域だったのだろう。

宣帝の皇后の一族

(許)后姊平安剛侯夫人謁等為媚道祝謯後宮有身者王美人及(王)鳳等、事發覺、太后大怒、下吏考問、謁等誅死、許后坐廢處昭臺宮、親屬皆歸故郡山陽、后弟子平恩侯旦就國。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成許皇后)

漢の成帝の皇后許氏の姉の「平安剛侯夫人謁」は当時の権力者王鳳(王莽の伯父)を呪詛したとされた。



この「平安剛侯夫人謁」の夫「平安剛侯」とは誰の事か?




漢書』景武昭宣元成功臣表、外戚恩沢侯表に「平安侯」は出てこないように思われる。


安平夷侯(王)舜
初元元年癸卯以皇太后兄侍中中郎將封、千四百戸、十三年薨。
建昭四年、剛侯章嗣、十四年薨。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表)

中少府安平侯王章子然為執金吾、三年遷。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、竟寧元年)

執金吾王章為太僕、五年病免。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、建始二年)

太僕王章為右將軍。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、河平三年)

右將軍王章為光祿勳、數月薨。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年)

だが、「安平剛侯王章」という人物が同時期に居る。しかも、『史記』漢興以来将相名臣年表では「平安侯王章」と書かれているので、何故か当時から「安平侯」なのか「平安侯」なのか混乱してたらしい。



となると、許皇后の姉というのはまず確実にこの「安平剛侯王章」の事だろう。なおこの王章は宣帝の皇后王氏の一族である。




宣帝の皇后の一族王氏と宣帝(と成帝)の皇后の一族許氏の間で通婚が行われていたらしい。まあ、おそらく他の外戚同士でも同じように通婚していたんじゃないかと思うが、宣帝の皇后の家同士という関係というのが少々面白い。