孫登と歩夫人

生二女、長曰魯班、字大虎、前配周瑜子循、後配全琮。
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主権歩夫人)

(周)瑜両男一女。女配太子登。男循尚公主、拝騎都尉、有瑜風、早卒。
(『三国志』巻五十四、周瑜伝)


周瑜の男子の周循は、孫権の歩夫人との間の娘、いわゆる孫魯班を妻とした。


周瑜の女子は太子孫登の妻となった。




つまり、孫登と彼が拒絶した歩夫人一族との間は、周瑜の子を通して一応の関係があった、ということになる。



太子となった孫登に対し、周瑜遺族を通じて歩夫人との関係を改善するようにと孫権が取り計らったのだろうか。

ひとこと

昨日の話を前提に置くと、世間で言うところの二宮事件頃の陸遜は、前段でものすごくガッツリと後継者争いに絡んでいた存在だった、ということになるなあ。



それまではその時の陸遜は皇太子孫和や陸胤あたりが何かやらかした巻き添え、みたいに思ってたんだが、これについては少々見解を修正する必要が出てきたかもしれん。



陸遜は単に当時の朝廷の重鎮だとかではなく、「後継者問題において皇帝孫権ですら尊重せざるを得ない影響力を有する存在、というか孫登・孫和ラインの最大最強の後ろ盾」だったから、皇太子問題にガンガン嘴を突っ込んでいった、ということに・・・?

二宮は二つあったッ!

昨日の私の仮説を前提とすればの話だが、孫権が孫登を太子としたのは、孫権本人の意思よりは陸遜以下臣下などへの配慮などによる部分の方が大きかったことになる。


言い換えれば孫権は積極的ではなかったことになる。元々正妻から廃するつもりの徐氏を母としているから、むしろあまり乗り気じゃなかった可能性の方が高いのではないか。




その一方、孫権は次子孫慮を臣下から言われても王にせずにおく、という措置を取っている。




孫権からすると立太子にあまり乗り気ではなかった孫登と、孫権に寵愛されつつ王にはせずに「切り札を取っておく」という感じの孫慮。




この状態というのは、もしかすると「皇太子孫和とほぼ同格の魯王孫覇」と似た構図だったのではないか?



どちらも太子の側は弟が自分にとって代わるのではないかとの危惧を抱くことになり、弟の側は自分が太子になる目があるのではないかと期待する。





孫登と孫慮の時点で、既に「二宮」状態になっていたのではないだろうか。




太子孫登の逆転

昨日の続き的な話。



孫権が呉王になる時点では嫡子扱いじゃなくなってたように思える孫登が、なぜ復権したのか?あくまで仮説ではあるが、考えてみる。




当時の情勢を考えると、ちょうどその寸前に孫権陸遜を中心として関羽を破り荊州南部をわが物としている。




陸氏というと孫登が母とする徐氏の最初の夫の家であり、呉郡の人間同士ということで陸氏と徐氏はもとより比較的近い関係にあったのではないか、と考えられる。



つまり、そういった地縁や血縁からすれば、対関羽で一気に発言力を増したであろう陸遜は徐氏と繋がる孫登を支持する可能性が高い、ということになる。




断言はできないが、呉王を贈られる直前(関羽を破る前)ではまだ陸遜の発言力が低く、よって孫登は復権できていなかったが、関羽を破り荊州を手にすることで陸遜の地位が一気に向上すると、一緒に孫登の地位も向上し、復権を果たせたのではないだろうか。



その後は、劉備曹丕がいつ攻めてくるか、あるいはこちらから討って出るかという情勢であるから、孫権としては、もはや軍事的に欠かせない存在となった陸遜と真っ向対立する後継者選びが困難になってしまったのではないだろうか。




こうして、分家や魏送りを取りやめ、更には正式に太子に立てるという、孫登の逆転劇が起こったのではないか。



つまり、これは陸遜関羽に対する勝利が生んだ逆転劇ということになる。

庶子孫登の憂鬱

昨日の続きのようなもの。



孫権が呉王になったころの孫登(まだ少年)は、長子という点では後継者候補と言うべき存在だったはずだが、その割に孫権からも魏からもそういう扱いをされていないように見える。


(徐)琨生夫人、初適同郡陸尚。尚卒、(孫)權為討虜將軍在呉、聘以為妃、使母養子登。後權遷移、以夫人妒忌、廢處呉。
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主權徐夫人)

初、(孫)登所生庶賤、徐夫人少有母養之恩、後徐氏以妒廢處呉、而歩夫人最寵。歩氏有賜、登不敢辭、拝受而已。徐氏使至、所賜衣服、必沐浴服之。登將拝太子、辭曰「本立而道生、欲立太子、宜先立后。」權曰「卿母安在?」對曰「在呉。」權默然。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)

何故かと考えると、まず彼が既に失寵していた徐夫人を母と慕い、同時に孫権が寵愛し正妻にと考えていた歩氏には敢えて礼に差を付けるという、若くして少々可愛げの無いことをするような子だったことがあるのではないだろうか。

孫慮字子智、登弟也。少敏惠有才藝、(孫)權器愛之。
(『三国志』巻五十九、孫慮伝)


そして、孫権の次子孫慮は既に生まれている。



つまり、どんなに可愛げが無かろうが家に波乱を起こしそうだろうが「ただ一人の子だから」と確実に後継者になれる状態ではないのである。



そうなったら、正妻にしたい歩氏との関係などで問題が生じたという気配が無い(というか、孫登にとっての徐氏と同じように、孫慮とずっと正妻扱いされ続けたという歩氏の間には母養の関係があったかもしれない)孫慮の方を選ぶという選択肢が有力になってくる。



こうなると、呉王封建の際に「魏から命じられた」という形で孫登を分家として後継者第一候補から下ろし、さらに魏に送り込むという方が孫権からしても都合がいいことになってくる。




呉王封建の直前、孫登を取り巻く環境はそのようになっていたのではないだろうか。


この時期は、少なくとも後継者の座が約束された世子という扱いは実質的にはされていなかったのではないかと思う。

一転残留

帝欲封(孫)權子登、權以登年幼、上書辭封、重遣西曹掾沈珩陳謝、幷獻方物。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)

孫權欲遣子登入侍、不至。
(『三国志』巻十三、王朗伝)

魏黄初二年、以(孫)權為呉王、拝登東中郎將、封萬戸侯、登辭疾不受。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)

呉の孫権が魏帝曹丕によって呉王に封建されたとき、孫権の長子孫登は列侯に封じられようとし、同時に孫権は孫登を魏へ入朝させようと思っていたらしい。



よくよく考えると、普通は皇帝でも王でも列侯でも、後継ぎ扱いされている子は父と別個に封建されることはないのが通例であるようなので(曹丕が好例)、この孫登への扱いは実は「彼を後継ぎと思っていない」という措置だということになる。


また魏王朝に向かうというのも、まあ普通に考えて危険が伴うし、簡単に戻ってこれない人質のようなものと思われるわけだから、これもまた「彼を後継ぎと思っていない」からこそ出てくる計画ではないだろうか。



つまり魏からしても孫権からしても、この段階では孫登は絶対的な後継ぎという風には見られておらず、むしろ「後継ぎ扱いではなく、分家して人質にしてもいいという存在」だったのではないか?*1





この孫登への封建は辞退され、入朝も果たされず、それと共に孫登が王太子となるわけだが、これはそれまでの魏・孫権双方の「分家し人質としても構わない庶子」という扱いを太子へと逆転させるものと言えると思う。



実はこの時の措置は、人質として魏に事実上放逐されようとしていた孫登を王太子として恒久的に残留させるという、孫登とその一派による一種の政変だったのではないだろうか?

*1:ただし、後継ぎになりうる長子ではあるから、魏からすると呉で何かあった場合に傀儡として立てるには最適な存在と言えるので、魏にとって価値は十分あるだろう。遼東公孫氏における公孫晃がそれに当たると思う。