将軍か使君か

會(董)卓西入關、(袁)紹還軍延津、因馥惶遽、使陳留高幹・潁川荀諶等説(韓)馥曰「公孫瓚乗勝來向南、而諸郡應之、袁車騎引軍東向、此其意不可知、竊為將軍危之。」馥曰「為之奈何?」諶曰「公孫提燕・代之卒、其鋒不可當。袁氏一時之傑、必不為將軍下。夫冀州、天下之重資也、若両雄并力、兵交於城下、危亡可立而待也。夫袁氏、將軍之舊、且同盟也、當今為將軍計、莫若舉冀州以讓袁氏。袁氏得冀州、則瓚不能與之、必厚徳將軍。冀州入於親交、是將軍有讓賢之名、而身安於泰山也。願將軍勿疑!」馥素恇怯、因然其計。
(『三国志』巻六、袁紹伝)


冀州牧韓馥といえば、上記のように袁紹に冀州牧を譲ったことで有名だが、この中で韓馥は「将軍」と呼ばれている。



韓馥は将軍位も称していた(保持していた)のだろうか?それとも、州牧は「将軍」と呼ばれることもあったのだろうか?


(劉)表謂(蒯)越曰「・・・(中略)・・・」對曰「・・・(中略)・・・使君誅其無道、施其才用、威徳既行、襁負而至矣。兵集衆附、南据江陵、北守襄陽、荊州八郡可傳檄而定。公路雖至、無能為也。」表曰「善。」
(『後漢書』列伝第六十四下、劉表伝)


なお、この時期、州刺史は「使君」などと呼ばれている。

(呂)布既至、(張)邈乃使劉翊告(荀)彧曰「呂將軍來助曹使君撃陶謙、宜亟供其軍食。」衆疑惑。
(『三国志』巻十、荀彧伝)


これはどうやら州牧でも同様で、既に鎮東将軍・領兗州牧の曹操のことも「使君」と呼ばれている。



そうなると、最初に挙げた韓馥がなぜ「使君」ではなく「将軍」と呼ばれているのか、よくわからないことになってしまうが・・・。



もう少し考えてみる。

冀州牧か冀州刺史か2

昨日の話の続き。


(袁)紹與王匡屯河内、(孔)伷屯潁川、(韓)馥屯鄴、餘軍咸屯酸棗、約盟、遙推紹為盟主。紹自號車騎將軍、領司隸校尉。
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上)


韓馥らも参加した蜂起の際、袁紹が盟主となり、「車騎将軍、領司隷校尉」を名乗ったという。



それまで渤海太守でしかなかったはずの袁紹が皇帝の命とは別に大官を自称したということは、韓馥ら反乱参加者たちも、それぞれに何か自称していても不思議ではないだろう。



いや、他の者も袁紹との釣り合いを取るだろうと考えると、他にも自称している者がいる方が自然でさえある。



つまり、韓馥は当初は董卓に任命された冀州刺史を名乗っていたが、後から冀州牧を名乗るようになったのではないか、そして牧を自称し始めたのは袁紹が車騎将軍を自称した時期と一致するのではないか、ということだ。

冀州牧か冀州刺史か

ふと思ったのだが、後漢末に董卓に反抗した冀州牧韓馥という人物がいる。



どうやら彼は尚書から冀州牧になったそうなのだが、州牧は『後漢書』劉焉伝が記す由来からして九卿から転任していることを考えると、少々出世が急激ではなかろうか。


尚書は枢要の官ではあるし、もしかすると次に九卿になるはずという状況だったのかもしれないが、何となく違和感がある。



つまり、「冀州牧」では位が高すぎるのではないか、ということだ。



もしかしたら同じ冀州を監する職でも「冀州刺史」だったのではないか。


進用潁川荀爽・韓融・陳紀等為公・卿・郡守、拝尚書韓馥為冀州牧、侍中劉岱為兗州刺史、潁川張咨為南陽太守、陳留孔伷為豫州刺史、東郡張邈為陳留太守、而遷(許)靖巴郡太守、不就、補御史中丞。
(『三国志』巻三十八、許靖伝)

以尚書韓馥為冀州刺史、侍中劉岱為兗州刺史、陳留孔伷為豫州刺史、潁川張咨為南陽太守。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓列伝)


実際、そういう意識を後漢の史書を編んだ人々も抱いたのか、それとも実際にそういう記録があったのかは分からないが、『三国志』では牧になっているのに対して『後漢書』では刺史になったように書かれている。




本当のところはわからないとしか言いようがないが、実際に二通りの記録があることにはあるのであった。


あるいは、最初は刺史だったが、何らかの理由で途中で冀州牧へと昇進したのかもしれない。

やってるゲーム

『タクティクスオウガリボーン』、やっと空中庭園です。



やっぱ敵強いし、良い魔法や武具がなかなか手に入らないし、なんか大変だなぁ。



しかも液晶がおかしくなってきてるし・・・。

ひとこと(曹氏と夏侯氏)

昨日の話について、改めて考えてみた。



曹氏は曹騰が宦官として出世することで一族全体も栄達したものと考えられる。



夏侯氏は、全体的にはどうやら曹操挙兵まではそこまでの大族ではなさそうに思える。



曹操の挙兵頃の時点では、曹氏と夏侯氏の家格とでも言うべきものはかなり差があるが、曹騰出世までは大体同等だったのではないか。


つまり、曹騰出世までは同等の家格の家同士として通婚関係にあったのではないだろうか。



しかし、曹氏一族が曹騰のお陰で栄達すると、当然結婚相手のレベルも上がることになる。そうなると、一地方のそれほど大族でもない夏侯氏は釣り合わない存在となる。


「一緒に帰って、友達に噂とかされると、恥ずかしいし」みたいに言われるようになったのである。



そのため、曹騰と同世代、および次の世代(曹嵩らの世代。曹操や夏侯惇らの親世代)では、曹氏と夏侯氏の関係が薄れることとなったのだろう。3世代も4世代も遡らないといけないため、曹操世代の者たちにおける両氏の親族関係が記録上不明瞭になったのではないか。



だが、どういう経緯かはともかく、曹騰は自分の跡継ぎとして曹氏ではなくかつての通婚関係の家であった夏侯氏から養子を取った。


もしかすると、「宦官の養子」という少々不名誉な称号を他の曹氏が嫌がったのかもしれないし、年齢でも能力でも適当な子が曹氏内におらず、異姓の親族からも探した、ということかもしれない。




何にしろ、そのお陰で曹氏に置いていかれそうになっていた夏侯氏はふたたび曹氏との繋がりを得ることができるようになった、というところだったのではなかろうか。

少々疑問

評曰、夏侯・曹氏、世為婚姻、故惇・淵・仁・洪・休・尚・真等並以親舊肺腑、貴重于時、左右勳業、咸有效勞。
(『三国志』巻九、諸夏侯曹伝、評)


『三国志』の巻末の「評」において、夏侯氏と曹氏は代々婚姻関係を結んでいて、そこで夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・夏侯尚・曹真らは曹操の親族として信頼された、とされている。



だが、よくよく考えると、夏侯惇あるいは夏侯淵、またはそれより上の世代が曹氏とどういう婚姻関係だったのか、または曹操あるいは曹仁・曹洪・曹休またはそれより上の世代が夏侯氏とどういう婚姻関係だったのか、どうもはっきりしないのではなかろうか。



曹操が夏侯惇を相当信任していたのは明らかなので、上記「評」からすると夏侯惇の母が曹氏である(夏侯惇は曹氏の甥、という旨が記されるはずである)とかということになりそうなものなのだが、その辺が特に書かれていないような気がする。



本当に曹操より上の世代から曹氏と夏侯氏は通婚関係だったんだろうか?


なんだかよくわからない。