ひとこと

昨日の話でふと思ったが、劉備だったり袁術だったり袁紹だったりが故吏になっている者が曹操の元に落ち着いた場合、その後の言動によっては「故吏に対して冷たい恩知らず」みたいな印象になりかねないところがあったのかもしれないな。



曹操の元ではその沈んでいく故吏たちを棒で追い打ちするような連中の方が覚えめでたくなるのかもしれないが、一方でその人物の人格面を重視すると「忠義心が薄い」みたいに思われるかもしれない。人材登用、出世という点でもなかなか難しい問題なのかもしれない。




袁術の元にいた者の多くが経歴をぼかされているんじゃないかと思われるのも、そういったあたりが影響してるのかもしれないなあ。

劉備、死す

時有傳劉備死者、羣臣皆賀。(袁)渙以嘗為備舉吏、獨不賀。居官數年卒、太祖為之流涕。
(『三国志』巻十一、袁渙伝)


この「劉備が死んだという報告を聞いた曹操の臣下たちはみな慶賀したが、かつて劉備の推挙という恩を受けた袁渙だけは慶賀しなかった」という、陳群の不義理がひそかに批判されている話だが、この話は曹操生前、魏公になって以降の事らしい。


つまり劉備が実際に死ぬ直前でも、呉に大敗した時でもない時にこの誤報は流れたことになる。




いつの事なのだろうか。


そういった流言が飛びそうな状況というと、劉備益州を攻めていた時だろうか。


だとしたら、死んだと思ったら益州征服してました、って話になるので、当時の曹操としてはかなりぬか喜びだったろうと思う。

畜将

曹魏青州刺史、征北将軍の程喜は、田予と杜恕を陥れていて当時そういう人物として有名だったようだが、そんな彼が結構出世し、逆に杜恕に至っては処刑されかかったという。


田予は田予で幽州刺史王雄の関係者に讒言されたというし、なんというか・・・畜生ムーブする刺史やら将軍やらが多くない?




まあ、他の国や他の時代だってそれなりに周囲を陥れたり足を引っ張ったりするヤツがいたんじゃないかとは思うのだが、それにしたって地方の鎮将に畜生多めになるのは、人格より能力を優先したという人材登用の影響があったりなかったりしないだろうか、などと少し思う。

魏文帝評の評価

昨日の記事から考えると、陳寿は『三国志』の中で魏文帝曹丕を人徳に欠けた暴君として扱った、と言ってもいいのだろうと思う。



この陳寿評が晋の当時どう受け止められたのかは想像するしかないが、こういった証言があるのは参考になるのかもしれない。

夏侯湛時著魏書、見(陳)壽所作、便壞己書而罷。
(『晋書』巻八十二、陳寿伝)

『魏書』を著していた夏侯湛は、陳寿の『三国志』を見て自分の著作を放棄してしまったのだとか。



もし陳寿の著作に大きな問題点があると感じたなら、放棄はしないだろう。先を越されたというだけで、自分の方が優れていると感じたら放棄するわけがないのだ。後漢について著した書が何種類もあったことからもわかる。



この夏侯湛は夏侯淵の子孫である。魏の皇族待遇だった者の子孫ですら、陳寿の暴君という魏文帝評は妥当であり、文句のつけようがないと思った、と言えないこともない・・・かもしれない。

亡国の君主とは

(韓)歆字翁君、南陽人。以從攻伐有功、封扶陽侯。好直言、無隠諱、帝毎不能容。嘗因朝會、聞帝讀隗囂・公孫述相與書、歆曰「亡國之君皆有才、桀・紂亦有才。」帝大怒、以為激發。歆又證歳將飢凶、指天畫地、言甚剛切、坐免歸田里。帝猶不釋、復遣使宣詔責之。司隸校尉鮑永固請不能得、歆及子嬰竟自殺。歆素有重名、死非其罪、衆多不厭、帝乃追賜錢穀、以成禮葬之。
(『後漢書』列伝第十六、侯覇伝)

後漢初期の大司徒韓歆は、「亡国の君主はみな高い能力があった。桀や紂もそうだった」と言って皇帝を激怒させ、罷免してもなお追及を緩めず、結局殺した(自殺に追い込んだ)という。



今の皇帝のことを桀・紂になぞらえようとした、ということだろうか。




評曰、文帝天資文藻、下筆成章、博聞彊識、才蓺兼該。若加之曠大之度、勵以公平之誠、邁志存道、克廣徳心、則古之賢主、何遠之有哉!
(『三国志』巻二、文帝紀、評)

韓歆の話は、才能、能力はあるが人徳には欠けているのが亡国の君主だということなのだろうが、上記の評は、この評価対象者はまさにそういった存在であった、という意味なのではなかろうか?

近場で済ませる

(黄初)六年春二月、遣使者循行許昌以東盡沛郡、問民所疾苦、貧者振貸之。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初六年)

魏文帝は使者を遣わし、民が苦しんでいることを聴取し、貧しい者へは施しを行った、という。




これ、許昌(そのころ文帝がいた)から沛郡までとあるが、予州までしか行っていないということになる。割と近場に限っている。



沛郡の隣は彭城郡や東海郡などの徐州なのだが、こちらには足を踏み入れていないということだ。




曹操による有名な虐殺もあり、孫権の領土とも接する徐州こそ民の苦しみを聞くべき場所のようにも思えるが、どうしてそこまで行かずに終わるんだろう?




徐州には皇帝の使者すら入りにくいほど荒れているのか?


それとも曹氏に恨み骨髄のため使者がうっかり足を踏み入れたら袋叩きになるのか?


あるいは文帝はガチで大変そうなところの声は聞きたくなかったのか?




特に沛郡にある譙は文帝の生まれ故郷で2年間の租税免除を受けたばかりなので、インタビューしたら陛下万歳とみんな言ってくれそうな場所。このあたりで使者の巡行をやめるというのは、ちょっと作為的な感じが無くもない。

格差社会

張遼は魏文帝が即位して1,000戸加増されて2,600戸になったのか。



つまり魏になる前は最大で1,600戸か。



それに対して曹植は昨日の仮説が正しければ当初から5,000戸で、その後魏になる前の時点で10,000戸まで加増。





いくら丞相の息子とはいえ、現時点では皇帝でもなければ王でもない者の息子でしかない若者が最初から自分たちよりもずっと領土を貰っているというのを見た歴戦の諸将の気持ちを140字以内で説明せよ。