儒から道へ

(鄭)玄質於辭訓、通人頗譏其繁。至於經傳洽孰、稱為純儒、齊魯閒宗之。其門人山陽郗慮至御史大夫、東萊王基・清河崔琰著名於世。又樂安國淵・任嘏、時並童幼、玄稱淵為國器、嘏有道徳、其餘亦多所鑒拔、皆如其言。
【注】
慮字鴻豫。基字伯輿、魏鎮南將軍安樂郷侯。琰字季珪、魏東曹掾、遷中尉。淵字子尼、魏司空掾、遷太僕。嘏字昭光、魏黄門侍郎也。
(『後漢書』列伝第二十五、鄭玄伝)

任子道論十卷、魏河東太守任嘏撰
(『隋書』巻三十四、経籍志三、子、道)

幼いときに鄭玄から才能を認められたという黄門侍郎任嘏と、『隋書』経籍志の「任子道論」なる書の著者だという河東太守任嘏は同一人物なのだろう。



どうやら彼は大儒鄭玄に認められておきながら道家の方を選んだらしい。

鄭玄の弟子

(鄭)玄質於辭訓、通人頗譏其繁。至於經傳洽孰、稱為純儒、齊魯閒宗之。其門人山陽郗慮至御史大夫東萊王基・清河崔琰著名於世。又樂安國淵・任嘏、時並童幼、玄稱淵為國器、嘏有道徳、其餘亦多所鑒拔、皆如其言。
(『後漢書』列伝第二十五、鄭玄伝)


鄭玄の弟子に東萊の王基がいる。

王基字伯輿、東萊曲城人也。少孤、與叔父翁居。翁撫養甚篤、基亦以孝稱。年十七、郡召為吏、非其好也、遂去、入琅邪界游學。黄初中、察孝廉、除郎中。
(『三国志』巻二十七、王基伝)

魏(というか晋?)将の王基だとすると、鄭玄の死(建安5年)から王基が禅譲後の魏に仕官するまでの間が随分長い。



王基が鄭玄の弟子になったのはかなり若い頃の事だったのか?



それに、鄭玄死後の20年以上の間の事績が良く分からない。



彼が地元東萊の方に居たとすると、袁氏の東萊太守管統などに仕えていて、上司を滅ぼした事になる曹操に仕えるのをヨシ!としなかったのだろうか?




良く分からないが、ちょっと気になる。

崔琰のキャリア

崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。
學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于是周旋青・徐・兗・豫之郊、東下壽春、南望江・湖。自去家四年乃歸、以琴書自娛。
(『三国志』巻十二、崔琰伝)

昨日の引用の再録なのだが・・・。



崔琰、かの大儒鄭玄の元に弟子入りしているが、「學未朞」ってことは1年もしないうちに徐州黄巾が来たという事なのか・・・?



そこで鄭玄の元を離れたように書かれているから、崔琰が鄭玄の元で学んでいた期間は1年も無かったという事なのかな・・・?




ぶっちゃけ、彼は儒学者としてはキャリアはあまりない方かもしれない。


もちろん、学んだ期間が長ければいいというものでもないが。

崔琰の前半生

崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。
學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于是周旋青・徐・兗・豫之郊、東下壽春、南望江・湖。自去家四年乃歸、以琴書自娛。
(『三国志』巻十二、崔琰伝)

後漢末の崔琰、徐州黄巾賊から避難したとされる割に、徐州黄巾賊の行った先と同じ方に行っているように見える。


予州も黄巾のメッカだし。



徐州黄巾に参加して青州・徐州・兗州荒らしに同行し、予州黄巾に合流した後に袁術の元へたどり着いた、みたいに見えない事もない。



考えすぎかもしれないが。

最近プレイしてるゲーム

最近『ザナドゥ』をプレイしている。もう35年以上前のPCゲーム。



もしかしたら前にも(買った時に)話題にしたかもしれない。




いわゆるCRPGの一種なのだろうが、独特なのはモンスターもアイテムも基本有限である事だろう。



弱い敵を倒しまくってレベルアップ、というのは基本無い(弱い敵を倒してレベルを上げるというのはあるが、そういう敵は有限なのでいずれいなくなり、強いヤツだけが残る事になる)。アイテムにしてもどこにあるとかどのモンスターを倒すと出てくるとかは全て決まっていて、確率で出てきたりしない。「実際は小数点以下の確率で盗める。気が遠くなるほど低い確率だがゼロではない」などという話は存在もしないのである。



他にもダンジョンの扉を開ける鍵を買う時の価格がレベルが上がるほどに上昇するとか、レベルが上がるほどに食料の消費が激しくなり、うっかりすると飢え死にの危機が待っているとか、レベルが上がればいいというものではなかったりする。



つまり有限なリソースをどう配分するかとか、買うものや攻略するダンジョン、使うアイテムなど、ありとあらゆる面で何を優先すればいいかとか、そういう事を上手くマネジメントするというゲームであるらしい。



個人的にはそういうの得意じゃないのでソフト付属のマップやデータを見ながら進めている(あと遥か昔のプレイの記憶)。




今第5層。ダンジョンは透明になって敵を一方的に倒していくスタイル。



これを読んだみなさんも、興味を持ったらプレイしてみてほしい。





なんか凄く高騰してないか・・・?

習い性となる

昨日の記事で、何故「聖人として名高い周の武王や周公旦がそんなことをするはずがない、という発想に至らない」のか、という点について。



t-s.hatenablog.com


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戦乱の前の(まだ)平和な時代から花嫁を強奪し、戦乱の時代にも何人か実例があり、この後には領内で大々的に寡婦の強制結婚を行った者達だ。


面構えが違う。





彼にとってはあまりに当然の行為なので、それが世間から批判されるような事であるとか、周の武王・周公旦のような偉人ならやるわけがないとか、そういう発想に至らず、孔融の意図がまるでピンとこなかったのかもしれない。





曹丕と孔融

初、曹操攻屠鄴城、袁氏婦子多見侵略、而操子丕私納袁熙妻甄氏。融乃與操書、稱「武王伐紂、以妲己賜周公」。操不悟、後問出何經典。對曰「以今度之、想當然耳。」
(『後漢書』列伝第六十、孔融伝)

後漢末の孔融曹操らによる袁氏婦女乱取り、ことに息子曹丕による甄氏略奪をあてこすって、手紙で「周の武王が紂王を討った時には、紂王が寵愛した妲己を周公旦に下賜しました」という文を書いた。



曹操はその真意を悟らず、「何が出典なの?」と聞いてきたため、孔融は「今に照らし合わせて考えたらそうであったに違いない、という事です」と答えたのだという。


ボケ潰しとも言えるが、聖人として名高い周の武王や周公旦がそんなことをするはずがない、という発想に至らないために不発に終わったという事でもあるので、実は結構深刻な話とも言えない事もない。



魏文帝深好(孔)融文辭、毎歎曰「楊・班儔也。」募天下有上融文章者、輒賞以金帛。所著詩・頌・碑文・論議・六言・策文・表・檄・教令・書記凡二十五篇。
(『後漢書』列伝第六十、孔融伝)


それはそれとして、件のあてこすりの直接の対象であったはずの曹丕自身は孔融をかなり高く評価していたというのが面白い。




その話を知らされてなかったのか(曹操にとっては恥ずかしい話なので隠したかもしれない)、それとも、知った上で文章の評価は変わらなかったのか。