尚広

干寶晉紀曰、王濬治船於蜀、吾彦取其流柹以呈孫晧、曰「晉必有攻呉之計、宜增建平兵。建平不下、終不敢渡江。」晧弗從。陸抗之克歩闡、晧意張大、乃使尚廣筮并天下、遇同人之頤、對曰「吉。庚子歳青蓋當入洛陽。」故晧不脩其政、而恆有窺上國之志。是歲也實在庚子。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀四年、注引干宝『晋紀』)

孫晧は尚広なる者に易占をやらせてみたところ、「庚子の年には洛陽に入る事になるでしょう」との結果を得たので政治を変えなかった、という。この話のオチは言うまでもないだろう。


周易雜占九卷、尚廣撰。有周易雜占八卷、武靖撰、亡。
(『隋書』巻三十四、経籍志三、子、五行)

この尚広、いきなり出てきて何者かと思ったら、どうやら易占で結構名を知られていたであろう人物だったらしい。



こういう著書も残るような、易占については著名であったろう人物による占いだから孫晧も信じたということか。




甘延寿の封邑

甘延壽字君況、北地郁郅人也。少以良家子善騎射為羽林、投石拔距絶於等倫、嘗超踰羽林亭樓、由是遷為郎。・・・(中略)・・・車騎將軍許嘉薦延壽為郎中諫大夫、使西域都護騎都尉、與副校尉陳湯共誅斬郅支單于、封義成侯。薨、諡曰壯侯。傳國至曾孫、王莽敗乃絶。
(『漢書』巻七十、甘延寿伝)

沛郡。故秦泗水郡。高帝更名。莽曰吾符。屬豫州。戸四十萬九千七十九、口二百三萬四百八十。
・・・(中略)・・・
義成
(『漢書』巻二十八上、地理志上、沛郡)


前漢の西域都護であった甘延寿は匈奴の郅支単于を討った功績で「義成侯」となった。


この甘延寿の封邑である「義成」侯国は、どうやら沛郡にあったらしい。


先主甘皇后、沛人也。
(『三国志』巻三十四、先主甘皇后伝)

となると、かの劉備の妻であった甘夫人は、この義成侯甘延寿が侯を失って以降も定住した子孫なのかもしれないな。


もっとも、だからといって甘夫人の何かが変わるわけではないが。甘延寿との間には200年以上の開きがあるし。

復活

スマートフォン、同型機が届いたので交換してきた。



故障した機体を送り返す前に電源入れてみたら、一瞬電源が入ったかのようなバイブレーションがあって起動画面は出たが、そこから先には行かなかった。




うん、やっぱどうしようもないね。さようなら、前のスマートフォン

リトルボーイ

短人國在康居西北、男女皆長三尺、人衆甚多、去奄蔡諸國甚遠。康居長老傳聞常有商度此國、去康居可萬餘里。
(『三国志』巻三十、烏丸鮮卑東夷伝注引『魏略西戎伝』)

『魏略西戎伝』によれば、西域の康居の更に西北にある「短人国」の住人は身長3尺であったという。


70~80センチ程度ってこと?



先日の4メートル級巨人の国といい、少々極端な体格の国々である。

ビッグマン

車離國一名禮惟特、一名沛隸王、在天竺東南三千餘里、其地卑溼暑熱。其王治沙奇城、有別城數十、人民怯弱、月氏・天竺撃服之。其地東西南北數千里、人民男女皆長一丈八尺、乗象・橐駞以戰、今月氏役税之。
(『三国志』巻三十、烏丸鮮卑東夷伝注引『魏略西戎伝』)

三国志』注で引用する『魏略』によれば、天竺の東南にある「車離国」の人間は身長が一丈八尺あるのだそうだ。



身長4メートル以上ってこと?