今更

買ってから1年近く経って、やっと『ゼルダの伝説』を始めた(それまでずっと『ファイアーエムブレム』をしていた)。




すぐ武器は壊れるし矢は当たらないしリンクはスペランカーみたいだしという現状なので、心が折れる可能性も否定できないが。



ちなみに、『ゼルダの伝説』シリーズで最後にやったのはゲームボーイ版『夢を見る島』。




竹の名は。

右大司馬丁奉・司空孟仁卒。
【注】
呉録曰、仁字恭武、江夏人也、本名宗、避晧字、易焉。
・・・(中略)・・・
楚國先賢傳曰、宗母嗜筍、冬節將至。時筍尚未生、宗入竹林哀嘆、而筍為之出、得以供母、皆以為至孝之所致感。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、建衡三年)


三国呉の孟宗というとあの「孟宗竹」の話で有名な人物だが、最終的には彼は「孟仁」と名乗っている。




じゃあ「孟宗竹」ではなく「孟仁竹」と呼ぶべきでは。




先祖の系図

孔昱字元世、魯國魯人也。
七世祖霸、成帝時歴九卿、封襃成侯。
自霸至昱、爵位相係、其卿相牧守五十三人、列侯七人。
昱少習家學、大將軍梁冀辟、不應。太尉舉方正、對策不合、乃辭病去。後遭黨事禁錮。靈帝即位、公車徴拝議郎、補洛陽令、以師喪弃官、卒於家。
(『後漢書』列伝第五十七、党錮列伝、孔昱)


後漢の孔昱(孔丘先生の子孫)という人物は前漢の孔覇の7代目の子孫だといい、孔覇は成帝の時に九卿を歴任して襃成侯という列侯になった、という。



孔光字子夏、孔子十四世之孫也。
孔子生伯魚鯉、鯉生子思伋、伋生子上帛、帛生子家求、求生子真箕、箕生子高穿。穿生順、順為魏相。順生鮒、鮒為陳渉博士、死陳下。鮒弟子襄為孝惠博士、長沙太傅。襄生忠、忠生武及安國、武生延年。延年生霸、字次儒。霸生光焉。安國・延年皆以治尚書武帝博士。安國至臨淮太守。
霸亦治尚書、事太傅夏侯勝、昭帝末年為博士、宣帝時為太中大夫、以選授皇太子經、遷詹事、高密相。是時、諸侯王相在郡守上。
元帝即位、徴霸、以師賜爵關内侯、食邑八百戸、號襃成君、給事中、加賜黄金二百斤、第一區、徙名數于長安
霸為人謙退、不好權勢、常稱爵位泰過、何徳以堪之。
上欲致霸相位、自御史大夫貢禹卒、及薛廣徳免、輒欲拜霸。霸讓位、自陳至三、上深知其至誠、乃弗用。以是敬之、賞賜甚厚。
及霸薨、上素服臨弔者再、至賜東園祕器錢帛、策贈以列侯禮、諡曰烈君。
(『漢書』巻八十一、孔光伝)

漢書』孔光伝によると、孔覇は孔光の父であり、宣帝の時に太中大夫、詹事、高密相になっており、学問の師を務めた皇太子が皇帝(元帝)になってから「襃成君」という号の関内侯になった、とされている。


またこの文を素直に読む限り、元帝の代のうちに死去したように思える。




となると、『後漢書』に記される孔覇の経歴のうち、「成帝の時」は誤りであり、「九卿を歴任」したとは言えないし、「襃成侯」にはなっていない。



ぶっちゃけ、『漢書』と重なる部分がまるで無い。





もちろん、『漢書』に書かれている事が絶対とは言い切れないし、列侯の礼で葬られたり子孫の孔均が実際に「襃成侯」になったりはしているから、「質の悪い捏造系図だ」とまで断言してしまうのもどうかとは思うが。





なお、「成帝の時に九卿を歴任」というのに合致するのは孔覇の子の孔光である(成帝の時に光禄勲、廷尉、御史大夫、左将軍、丞相となっている。)。




後漢書』に記されているのは孔覇・孔光・孔均らの事績をひとまとめにしたもの、という感じなのかもしれないが、それはそれで孔覇の事績かのようには書かないでほしいところではある。

九尺様

生而首上圩頂、故因名曰丘云。
【注】
索隱、圩音烏。頂音鼎。圩頂言頂上窳也、故孔子頂如反宇。反宇者、若屋宇之反、中低而四傍高也。
(『史記』巻四十七、孔子世家)

孔子長九尺有六寸、人皆謂之「長人」而異之。
(『史記』巻四十七、孔子世家)


孔子こと孔丘先生は、前回の記事にあったように身長210センチ以上で、しかも「四隅が高く中央がへこんでいる」という頭頂部の持ち主だった(そこから「丘」という名になったとか)という。





なかなか珍しい身体的特徴があったという事になる。



孔子既沒、弟子思慕、 有若状似孔子、弟子相與共立為師、師之如夫子時也。
(『史記』巻六十七、孔子弟子列伝)

將適陳、過匡、顔刻為僕、以其策指之曰「昔吾入此、由彼缺也。」匡人聞之、以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人、匡人於是遂止孔子孔子状類陽虎、拘焉五日、顔淵後、子曰「吾以汝為死矣。」顔淵曰「子在,回何敢死!」
(『史記』巻四十七、孔子世家)

そんな孔丘先生の弟子の一人有若、そして孔丘先生のライバル的な存在でもあったらしい魯の陽虎、この二人は孔丘先生と似ている、という話が残っている。


特に陽虎は人違いで捕らえられたりしたほどであった。




という事は、有若や陽虎も2メートルを超える身長で特徴的な頭頂部だったのだろうか。


特に陽虎はそういった特徴が似ていたからこそ先生が取り違えられたのではないか。


身長2メートルで頭にヘコミがあるおっさんが何人もいるわけないだろ、ということだ。





あの時代の魯方面は、なかなか独特な外見の人が3人も集っていたらしい。





長人

孔子長九尺有六寸、人皆謂之「長人」而異之。
(『史記』巻四十七、孔子世家)

孔子こと孔丘先生は身長9尺6寸、つまり身長210センチ以上あった。


(孔)鮒弟子襄、年五十七。嘗為孝惠皇帝博士、遷為長沙太守。長九尺六寸。
(『史記』巻四十七、孔子世家)


その子孫の孔襄なる人物も身長9尺6寸。



孔襄は先祖返りか。




ちなみに有名な孔安国は孔襄の曾孫。




この孔襄は『漢書』古今人表で妙に評価の高い人物なのだが、それは「孔丘先生と同じ身長=孔丘先生に最も近い人物」みたいに思われていたから、とかかもしれない。