合陽侯国と呉王国

昨日の記事で劉邦の兄劉喜(劉仲)は呉頃王とされたらしいことを書いた。



つまり彼は遡って呉王初代のような扱いになったということであるから、受け継ぐべき国も呉王国があるということになり、合陽侯国は不要である、ということになったのではないだろうか。




つまり、劉喜が初代の合陽侯に2代目がいないのは、漢によって取り上げられて呉王国と一本化された、ということなのだろう。

呉頃王

詔曰「蓋聞帝王以徳撫民、其次親親以相及也。昔堯睦九族、舜惇敘之。朕以皇帝幼年、且統國政、惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後、漢元至今、十有餘萬人、雖有王侯之屬、莫能相糾、或陷入刑罪、教訓不至之咎也。・・・(後略)・・・」
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始五年)


王莽の時、詔で「宗室(皇族)はみな高皇帝(高祖劉邦)か呉頃王・楚元王の子孫である」という表現がある。



「楚元」は明らかに高祖劉邦の弟である楚元王劉交である。


そして「呉頃(王)」というのは文脈から見て劉邦の兄劉喜のこととしか思えない。つまり、劉喜は息子の呉王濞と同じ「呉王」ということになっていたことになる。




昨日の記事の引用では劉喜は「代頃侯」なる諡号を贈られたとされているが、これは当初は「代頃侯」だったが、どこかの段階で「呉頃王」にクラスチェンジした、ということだろうか?

劉喜の後継者

漢の高祖劉邦の兄劉喜(劉仲)は代王になったが国を失い、合陽侯となった。

合陽
高祖兄。兵初起、侍太公守豐、天下已平、以六年正月立仲為代王。高祖八年、匈奴攻代、王弃國亡、廢為合陽侯。
八年九月丙子、侯劉仲元年。
仲子濞、為呉王。
以子吳王故、尊仲謚為代頃侯。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表)


その死後、彼は代頃侯(代頃王?)と諡を贈られたそうだが、実はなぜか後継者についての言及がない。



この合陽侯は劉喜の死後どうなったのだろうか?

劉沢

そういえば、高祖劉邦の親族で最終的に王になった燕王「劉沢」と同じ「劉沢」も、後の世にいたんだった。


昭帝の時に反乱者となった人物。




どうやら、以前の王などの著名人と同名になることもあり得たようだ。



皇帝と直接の先祖だけが避ける対象なのかもしれない。

劉交

前漢末期の成帝の時、会稽太守から宗正になった人物に「劉交」という名の者がいる。



高祖劉邦の弟の楚王が「劉交」なのだが、こういった人物と同姓同名でも問題無かったのだろうか?宗正劉交の方も同族だったとは思うのだが。