官渡戦頃の司隷校尉部

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100723/1279814616の続き。


鍾繇は、おそらく曹操献帝を手中にした建安元年頃、司隸校尉に任命されて長安へ行き、そこで馬騰韓遂曹操の側に付けている(『三国志鍾繇伝)。

だが今まで述べてきたように、袁紹親子との対決の頃には洛陽まで戻っており、司隸校尉の治所も洛陽になっていた。つまり三輔の大物二人を味方にしながらも、関中から後退しているのである。


この理由としては、元々三輔を洛陽のための人狩り場とみなしていたからという仮説と、張白騎らが袁紹に付いたことにより後退せざるを得なかったのではないかという仮説を既に述べた。


これらを統合し、周辺の事情も合わせて考えてみるとこういうことじゃないかと思う。

  • 建安元年頃

司隸校尉鍾繇長安へ行き馬騰韓遂を説得。
この時期、曹操袁紹は連合政権的な存在であり、弘農の張白騎、河内太守張楊、河東太守王邑といった勢力は袁紹曹操に敵対していなかったと思われる。

  • 建安三年

曹操呂布を打倒。
曹操袁紹からの独立傾向が強まる。

  • 建安四年

河内太守張楊が殺され、河内が袁紹曹操の争いの場となる。
曹操袁紹の戦争が三輔・三河(河南・河内・河東)=司隷校尉部周辺にも影響を及ぼし、それぞれ曹操に付くか袁紹に付くかの選択を迫られた。
馬騰曹操に付き、張白騎は袁紹を選んだということだろう。
また、のちに河東太守郭援を送り込まれた王邑は袁紹には味方しなかったのだろうか。袁紹が負けたから離反したのかもしれないが。

  • 建安五年

官渡の戦い
袁紹は各地に反曹操勢力の蜂起や曹操攻撃を促しており、張白騎もおそらくこの頃までには袁紹に同調したのだろう。
つまり官渡の頃、あるいはその前年頃の三輔・三河の緊張が高まった時期に司隸校尉鍾繇は洛陽に戻ることとなったと思われる。
長安で孤軍奮闘するよりも洛陽を守る事を優先したのかもしれない。
そして戻る際に三輔から洛陽への強制移住が行われたのではないか。