後漢

鄭玄の弟子

(鄭)玄質於辭訓、通人頗譏其繁。至於經傳洽孰、稱為純儒、齊魯閒宗之。其門人山陽郗慮至御史大夫、東萊王基・清河崔琰著名於世。又樂安國淵・任嘏、時並童幼、玄稱淵為國器、嘏有道徳、其餘亦多所鑒拔、皆如其言。 (『後漢書』列伝第二十五、鄭玄伝) 鄭…

崔琰のキャリア

崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。 學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于…

崔琰の前半生

崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。 學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于…

曹丕と孔融

初、曹操攻屠鄴城、袁氏婦子多見侵略、而操子丕私納袁熙妻甄氏。融乃與操書、稱「武王伐紂、以妲己賜周公」。操不悟、後問出何經典。對曰「以今度之、想當然耳。」 (『後漢書』列伝第六十、孔融伝) 後漢末の孔融は曹操らによる袁氏婦女乱取り、ことに息子…

宗聖か崇聖か

正義、括地志云「漢封夫子十二代孫忠為褒成侯、生光、為丞相、封侯。平帝封孔霸孫莽二千戸為褒成侯。後漢封十七代孫志為褒成侯。魏封二十二代孫羨為崇聖侯。晉封二十三代孫震為奉聖亭侯。後魏封二十七代孫為崇聖大夫。孝文帝又封三十一代孫珍為崇聖侯、高齊…

格上げかもしれない

魏文帝黄初二年正月、詔以議郎孔羨為宗聖侯、邑百戸、奉孔子祀、令魯郡修舊廟、置百戸吏卒以守衛之。及武帝泰始三年十一月、改封宗聖侯孔震為奉聖亭侯。又詔太學及魯國、四時備三牲以祀孔子。 (『晋書』巻十九、礼志上、吉礼) かの孔子こと孔丘先生の子孫…

格下げ

初、平帝時王莽秉政、乃封孔子後孔均為襃成侯、追謚孔子為襃成宣尼。及莽敗、失國。建武十三年、世祖復封均子志為襃成侯。志卒、子損嗣。永元四年、徙封襃亭侯。損卒、子曜嗣。曜卒、子完嗣。世世相傳、至獻帝初、國絶。 (『後漢書』列伝六十九上、儒林列伝…

尚書令鄧馮

尚書令南陽鄧馮君侯為右扶風。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年) へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。 つまり南陽の鄧氏。 「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安で詩経を学…

宮中の皇子

元興元年、帝崩、長子平原王有疾、而諸皇子夭沒前後十數、後生者輒隠秘養於人閒。殤帝生始百日、后乃迎立之。 (『後漢書』紀第十上、皇后紀上、和熹鄧皇后) 後漢和帝の皇子は10人ほど早死にが続いたため、宮中から出されて密かに養育するようになった。 …

林か隆か

景帝十三男、一男為帝、十二男皆為王。而兒姁早卒、其四子皆為王。王太后長女號曰平陽公主、次為南宮公主、次為林慮公主。 【注】 索隠、縣名、屬河内。本名隆慮、避殤帝諱、改名林慮。慮音廬。 (『史記』巻四十九、外戚世家、王太后) 『史記』外戚世家で…

平春王

平春悼王全、以建初四年封。其年薨、葬於京師。無子、國除。 【注】 續漢志、平春、縣、屬江夏郡也。 (『後漢書』列伝第四十五、平春悼王全伝) 後漢の章帝の皇子劉全は平春王となった。 この平春王は江夏郡の一県が領地だったんだろうか?(近隣の県も付け…

岑昬の先祖

岑氏出自姫姓。周文王異母弟耀子渠、武王封為岑子、其地梁國北岑亭是也。子孫因以為氏、世居南陽棘陽。後漢有征南大將軍・舞陽壯侯岑彭、字君然。生屯騎校尉・細陽侯遵。遵曾孫像、南郡太守。生晊、字公孝、黨錮難起、逃于江夏山中、徙居呉郡。生亮伯、亮伯…

竇融の従祖父

(竇)融見更始新立、東方尚擾、不欲出關、而高祖父嘗為張掖太守、從祖父為護羌校尉、從弟亦為武威太守、累世在河西、知其土俗、獨謂兄弟曰「天下安危未可知、河西殷富、帯河為固、張掖屬國精兵萬騎、一旦緩急、杜絶河津、足以自守、此遺種處也。」兄弟皆然…

それは正に鉄塊だった

冒頭で挙げている高祖の斬蛇剣も、七尺で解釈する史料はありますね。『後漢書』の劉昭注や『史記索隠』に引用される『漢旧儀』佚文が七尺説を採用しているので、後漢早期にはそういう解釈はすでに存在したのではないかとhttps://t.co/Blwqa778je— Archer (@A…

曹嵩の謎2

及子(曹)操起兵、不肯相隨、乃與少子疾避亂琅邪、為徐州刺史陶謙所殺。 (『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹騰) 曹操の父曹嵩は、曹操挙兵の時に曹操に同行せず琅邪へ避難したという。 昨日も挙げた袁隗などの例からすると、曹嵩が洛陽近辺にいたなら…

曹嵩の謎

曹操が董卓の元から逃げ出した時、その途中で既に手配書が回っていて、曹操は危うくそのまま捕縛されるところだったという。 また、曹操や袁紹らの挙兵の際、袁紹の親族袁隗や袁紹と共に挙兵した崔鈞の父崔烈などは董卓に捕まっている。 まあ、董卓そしてそ…

玉印

衛宏曰、「秦以前以金・玉・銀為方寸璽。秦以來天子獨稱璽、又以玉、羣下莫得用。其玉出藍田山、題是李斯書、其文曰『受命于天、既壽永昌』、號曰傳國璽。漢高祖定三秦、子嬰獻之、高祖即位乃佩之。王莽篡位、就元后求璽、后乃出以投地、上螭一角缺。及莽敗…

就任制限

初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。 【注】 三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拝平原相」是也。 (『後漢書』列伝第…

神秘の種つけおじさん

t-s.hatenablog.com この辺の話のまとめ。 t-s.hatenablog.com 漢代頃、「人が馬に自分の子を産ませた」という話があった。 つまり、家畜が人間の子を産む可能性が無くもないのだ、と当時なら思われていた、かもしれない。 哀帝建平中、豫章有男子化為女子、…

蘇武×雄羊

t-s.hatenablog.com 以前、前漢の蘇武が匈奴単于に「雄の羊が子供を産んだら漢に帰してやる」と言った、という話について、「蘇武自身が雄の羊に『子供が産まれる行為』をしていたのではないか」と考察した事があった。 このたび、このブログの昔の記事を読…

滎陽郡開封県の鄭氏

鄭沖字文和、滎陽開封人也。起自寒微、卓爾立操、清恬寡欲、耽玩經史、遂博究儒術及百家之言。有姿望、動必循禮、任真自守、不要郷曲之譽、由是州郡久不加禮。 (『晋書』巻三十三、鄭沖伝) 魏から晋にかけての儒者、滎陽郡開封県の鄭沖。彼は晋草創期の大…

晋の丞相司直

劉隗字大連、彭城人、楚元王交之後也。父砥、東光令。隗少有文翰、起家祕書郎、稍遷冠軍將軍・彭城内史。避亂渡江、元帝以為從事中郎。 隗雅習文史、善求人主意、帝深器遇之。遷丞相司直、委以刑憲。 (『晋書』巻六十九、劉隗伝) 及有變、司直彈劾衆官、元…

錫県は錫県じゃない:その2

鄖郷令。本錫縣、二漢舊縣、屬漢中、後屬魏興、魏・晉世為郡、後省。武帝太康五年、改為鄖郷。何志晉惠帝立、非也。 錫縣令。前漢長利縣、屬漢中、後漢省。晉武帝太康四年復立、屬魏興。五年、改長利為錫。 (『宋書』巻三十七、州郡志三、梁州刺史、魏興太…

錫県は錫県じゃない:その1

錫。有錫、春秋時曰錫穴。 (『続漢書』郡国志五、漢中郡) 後漢の漢中郡に「錫」という県があった。三国時代には郡になったりもしている。 「有錫」とあるので、金属としての「錫」を産出したから「錫」という県名になったという事だろうか? 鍚、莽曰鍚治…

朱提の変遷

(鄧)孔山名方、南郡人也。以荊州從事隨先主入蜀。蜀既定、為犍為屬國都尉、因易郡名、為朱提太守、選為安遠將軍・庲降都督、住南昌縣。章武二年卒。失其行事、故不為傳。 (『三国志』巻四十五、楊戯伝) 昨日記事にした銀山のある「朱提」は、『漢書』に…

董翳と董仲舒、あと董卓

昨日の記事によると、項羽が封建した翟王董翳の子孫は隴西に定住した、という。 また、董仲舒の子孫も隴西に定住したように書かれている。 とにかく、隴西の董氏は董翳や董仲舒をルーツに持ってきている事になる。 董卓字仲穎、隴西臨洮人也。性麤猛有謀。 …

尊厳破壊

(董)祀為屯田都尉、犯法當死、(蔡)文姫詣曹操請之。時公卿名士及遠方使驛坐者滿堂、操謂賓客曰「蔡伯喈女在外、今為諸君見之。」及文姫進、蓬首徒行、叩頭請罪、音辭清辯、旨甚酸哀、衆皆為改容。操曰「誠實相矜、然文狀已去、柰何?」文姫曰「明公廐馬…

王氏と楊氏、あと司馬氏

王朗字景興、東海郯人也。以通經拝郎中、除菑丘長。師太尉楊賜、賜薨、棄官行服。 ・・・(中略)・・・ 黄初中、鵜鶘集靈芝池、詔公卿舉獨行君子。朗薦光祿大夫楊彪、且稱疾、讓位於彪。帝乃為彪置吏卒、位次三公。 (『三国志』巻十三、王朗伝) 王朗は太…

二人の帰徳侯その2

建武初、彭寵反畔於漁陽、單于與共連兵、因復權立盧芳、使入居五原。光武初、方平諸夏、未遑外事。至六年、始令歸徳侯劉颯使匈奴、匈奴亦遣使來獻、漢復令中郎將韓統報命、賂遺金幣、以通舊好。而單于驕踞、自比冒頓、對使者辭語悖慢、帝待之如初。 (『後漢…

ひとこと

昨日の話(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/10/28/000100)だけど、よくよく考えてみると、多分だけど流石の董卓でも皇甫氏に全く話もせずアポなしで皇甫規の妻を迎えようとしたとは思いにくいなあ。 皇甫規の妻自身は拒絶していた、あるいはそれを予…