後漢

ちょっと思ったこと

「字(あざな)」は「名」と連続して呼ばない、と言われている。 まあ例えばWikipedia先生とか。 自分もまあそうだろうとは思ってる。 しかし、例えば後漢末当時において「字と名は続けて呼んだりしない」といったことを明確に記している典拠というのはある…

うらない太守

archer0921.hatenablog.com ふと、このような記事を目にした。 『武陵太守星伝』(『荊州占』)、後漢末荊州の武陵太守劉叡なる者の作であるそうな。 劉表期の武陵太守として記録があるのは劉先か。 零陵先賢傳曰、(劉)先字始宗、博學彊記、尤好黄老言、明…

ところでこいつは私の虎子さ

續漢志曰「侍中、比二千石、無員。」漢官儀曰「侍中、左蟬右貂、本秦丞相史、往來殿内、故謂之侍中。分掌乗輿服物、下至褻器虎子之屬。武帝時、孔安國為侍中、以其儒者、特聽掌御唾壺、朝廷榮之。至東京時、屬少府、亦無員。駕出則一人負傳國璽、操斬蛇劒、…

ひとこと

あれ?『後漢書』孝桓帝紀などに出てきてる隴西太守孫羌(西羌を討った)と、孫堅の兄孫羌(字は聖台)って同一人物なのか? 違うかもしれんが、同一人物でもそんなにおかしくないような。 どっかではちゃんと論証とかされてるのかもしれないけれど、自分は…

配送停止

謝承書曰「 唐羌字伯游、辟公府、補臨武長。縣接交州、舊獻龍眼・荔支及生鮮、獻之驛馬晝夜傳送之、至有遭虎狼毒害、頓仆死亡不絶。道經臨武、羌乃上書諫曰『臣聞上不以滋味為徳、下不以貢膳為功、故天子食太牢為尊、不以果實為珍。伏見交阯七郡獻生龍眼等、…

大庭園の町

京兆尹。秦内史、武帝改。其四縣、建武十五年屬。雒陽西九百五十里。十城、戸五萬三千二百九十九、口二十八萬五千五百七十四。 長安。高帝所都。 鎬。在上林菀中。 ・・・(後略)・・・ (『続漢書』志第十九、郡国志一、司隷、京兆尹) へえ、京兆尹にある…

左右京輔都尉

中尉、秦官、掌徼循京師。有両丞・候・司馬・千人。武帝太初元年更名執金吾。屬官有中壘・寺互・武庫・都船四令丞。都船・武庫有三丞、中壘両尉。又式道左右中候・候丞及左右京輔都尉・尉丞兵卒皆屬焉。初、寺互屬少府、中屬主爵、後屬中尉。 (『漢書』巻十…

分枝の時

昨日の朱氏の話について、以下のような意見をいただいた。沛国朱氏だと、ひょっとすると朱治とか朱然と同族かも分からんね。https://t.co/ZapbZyfsOI— Jominian (@Jominian) 2021年9月2日 朱氏出自曹姓。顓頊之後有六終、彦六子、其第五子曰安。周武王克商、…

ひとこと

後漢の皇帝は皇后が産んでいないケースが多いな・・・。 まあ、そもそも長く生きている皇帝が少ないから仕方ないことではあるが、政治的混乱の種の一つであることも事実だろう。

ひとこと

傍系から皇帝に即位とか、先代の子が廃位とか、逆に先代の長子でありながら即位しないとかいったイレギュラーが連発してた後漢では、「先代皇帝の(生き残っていた)長子」というのが絶対的なアドバンテージだったのだろうか、というのをちょっと疑問に思っ…

ひとこと

曹真がなった「上軍大将軍」「中軍大将軍」は、実は西園八校尉の「上軍校尉」「中軍校尉」の流れを汲んでいる説。 これ以上続かないが、とりあえずふと思ったのでメモだけしておく。

ひとこと

漢で「都護」といえば西域都護であり、西域全体を「護」する存在なのだが、後漢末の曹操政権や蜀漢の「都護」「都護将軍」などは何を「護」する存在なのだろうか? わかるようなわからないようなモヤモヤした感じ。

表と裏

(建武)十一年、與中郎將來歙攻河池、未剋、以病引還、拝為左馮翊、將軍如故。 【注】 續漢書曰「視事四年、人敬其威信。」 (『後漢書』列伝第八、蓋延伝) 後漢初期の功臣、怪力の蓋延。 彼は左馮翊として人々にその威信を敬服された、とされている。 華…

受け継がれるもの

昨日の記事の後に思ったのだが、赤壁の敗戦を極力隠し、一切言及しないままに領土返上という「引責」だけはやるというスタンス、司馬昭の時に皇帝高貴郷公を殺した事について実態を極力隠し、皇太后と口裏を合わせて皇帝としてふさわしくなかった者扱いしな…

思いつき

後漢末の元号「建安」が長々と続いたの、皇帝の意思により改元すべきところを皇帝の意思の発露がほとんど許されない状況に置かれたために改元も出来なくなった、みたいな事だったりしないだろうか? それなら、偉大に過ぎてほとんど皇帝と会ってなかったらし…

アルハラ平原君

平原君與子高飲、強子高酒曰「昔有遺諺。堯・舜千鍾、孔子百觚、子路嗑嗑、尚飲十榼。古之賢聖、無不能飲也。吾子何辭焉。」 子高曰「以穿所聞、賢聖以道徳兼人、未聞以飲食也。」 平原君曰「即如先生所言、則此言何生。」 子高曰「生於嗜酒者。蓋其勸厲奬戲…

大虎だよ!孔丘先生

(孔)融集與(曹)操書云「酒之為徳久矣。古先哲王、類帝禋宗、和神定人、以濟萬國、非酒莫以也。故天垂酒星之燿、地列酒泉之郡、人著旨酒之徳。堯不千鍾、無以建太平。孔非百觚、無以堪上聖。・・・(後略)・・・ (『後漢書』列伝第六十、孔融伝注) あ…

小さな疑問

漢興、仍襲秦制、置中常侍官。然亦引用士人以參其選、皆銀璫左貂、給事殿省。 及高后稱制、乃以張卿為大謁者、出入臥内、受宣詔命。 文帝時、有趙談・北宮伯子、頗見親倖。 至於孝武、亦愛李延年。帝數宴後庭、或潛游離館、故請奏機事、多以宦人主之。 至元…

呉範の経歴

徐州刺史巴祇表功第一、當受遷賞、(趙趙)昱深以為恥、委官還家。徐州牧陶謙初辟別駕從事、辭疾遜遁。謙重令揚州從事會稽呉範宣旨、昱守意不移。欲威以刑罰、然後乃起。 (『三国志』巻八、陶謙伝注引『謝承後漢書』) 呉範字文則、會稽上虞人也。以治暦數…

親政という異常事態

あくまでも大体の話。 曹魏の皇帝が親政していたと言える文帝曹丕と烈祖様が即位していた年数は大体20年位。 魏自体は45年ほど続いてはいるので、それ以降の25年は斉王芳・高貴郷公・陳留王と、全員別の臣下によって政治が行われていた時代。 というか…

河南龐氏

議郎河南龐羲與(劉)焉通家、乃募將焉諸孫入蜀。 (『三国志』巻三十一、劉焉伝) 劉焉・劉璋の元で巴西太守などになっていた龐羲は河南の人だったのか。 龐參字仲達、河南緱氏人也。 (『後漢書』列伝第四十一、龐参伝) 河南郡の龐氏というと、この辺境で…

皇族の字

ちゃんと調べてないけど、漢代って諸侯王や皇帝の子として生まれた皇子はまず確実に「字」(あざな)が伝わらないな。たぶんな。 献帝は例外というか、「生まれてから後宮にいなかったっぽい」ことや「帝位を退いた」ことが関係ありそうだ。 漢の成帝も「太…

長男だから耐えられた

孝獻皇帝諱協、靈帝中子也。 【注】 謚法曰「聰明睿智曰獻。」協之字曰合。張璠記曰「靈帝以帝似己、故名曰協。」帝王紀曰「協字伯和。」 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀) 後漢の献帝には「伯和」という字があったという。 「伯」というのは基本的に長男に用…

劇県は劇県か否か

(永初元年九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳・平縣五歳以上,乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀) 漢代、郡や県には統治の困難さに応じた等級があったらしく、大変な方を「劇県」「劇郡」と呼んでいたよう…

所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。 (『三国志』巻十一、王修伝) 三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。 王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒) だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県…

出身不明

董京字威輦、不知何郡人也。 初與隴西計吏倶至洛陽、被髮而行、逍遙吟詠、常宿白社中。時乞於市、得殘碎繒絮、結以自覆、全帛佳緜則不肯受。或見推排罵辱、曾無怒色。 (『晋書』巻九十四、隠逸伝、董京) 晋の董京なる者は、隠逸伝に記されるだけのことはあ…

郡王と県公

以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣以顯歸命之寵。 (『三国志』巻二十八、鄧艾伝) 昨日の引用の一部だが、よくよく見ると凄い事が書かれている。 後漢皇帝献帝が譲位後に与えられたのが山陽公(県公)…

河内の苟氏2

苟晞字道將、河内山陽人也。 少為司隸部從事、校尉石鑒深器之。東海王越為侍中、引為通事令史、累遷陽平太守。齊王冏輔政、晞參冏軍事、拝尚書右丞、轉左丞、廉察諸曹、八坐以下皆側目憚之。及冏誅、晞亦坐免。長沙王乂為驃騎將軍、以晞為從事中郎。惠帝征成…

ひとこと

ああ、今まで意識してなかったけど、山陽公劉協(漢の献帝)の「山陽」って、「山陽郡」ではなくて「河内郡山陽県」なんだな・・・。 そら山陽郡ではないか・・・。

虹の彼方へ

(中平)六年二月乙未、白虹貫日。 【注】 春秋感精符曰「虹貫日、天下悉極、文法大擾、百官殘賊、酷法横殺、下多相告、刑用及族、世多深刻、獄多怨宿、吏皆慘毒。」又曰「國多死孽、天子命絶、大臣為禍、主將見殺。」星占曰「虹蜺主内婬、土精填星之變。」…