後漢

ひとこと

漢で「都護」といえば西域都護であり、西域全体を「護」する存在なのだが、後漢末の曹操政権や蜀漢の「都護」「都護将軍」などは何を「護」する存在なのだろうか? わかるようなわからないようなモヤモヤした感じ。

表と裏

(建武)十一年、與中郎將來歙攻河池、未剋、以病引還、拝為左馮翊、將軍如故。 【注】 續漢書曰「視事四年、人敬其威信。」 (『後漢書』列伝第八、蓋延伝) 後漢初期の功臣、怪力の蓋延。 彼は左馮翊として人々にその威信を敬服された、とされている。 華…

受け継がれるもの

昨日の記事の後に思ったのだが、赤壁の敗戦を極力隠し、一切言及しないままに領土返上という「引責」だけはやるというスタンス、司馬昭の時に皇帝高貴郷公を殺した事について実態を極力隠し、皇太后と口裏を合わせて皇帝としてふさわしくなかった者扱いしな…

思いつき

後漢末の元号「建安」が長々と続いたの、皇帝の意思により改元すべきところを皇帝の意思の発露がほとんど許されない状況に置かれたために改元も出来なくなった、みたいな事だったりしないだろうか? それなら、偉大に過ぎてほとんど皇帝と会ってなかったらし…

アルハラ平原君

平原君與子高飲、強子高酒曰「昔有遺諺。堯・舜千鍾、孔子百觚、子路嗑嗑、尚飲十榼。古之賢聖、無不能飲也。吾子何辭焉。」 子高曰「以穿所聞、賢聖以道徳兼人、未聞以飲食也。」 平原君曰「即如先生所言、則此言何生。」 子高曰「生於嗜酒者。蓋其勸厲奬戲…

大虎だよ!孔丘先生

(孔)融集與(曹)操書云「酒之為徳久矣。古先哲王、類帝禋宗、和神定人、以濟萬國、非酒莫以也。故天垂酒星之燿、地列酒泉之郡、人著旨酒之徳。堯不千鍾、無以建太平。孔非百觚、無以堪上聖。・・・(後略)・・・ (『後漢書』列伝第六十、孔融伝注) あ…

小さな疑問

漢興、仍襲秦制、置中常侍官。然亦引用士人以參其選、皆銀璫左貂、給事殿省。 及高后稱制、乃以張卿為大謁者、出入臥内、受宣詔命。 文帝時、有趙談・北宮伯子、頗見親倖。 至於孝武、亦愛李延年。帝數宴後庭、或潛游離館、故請奏機事、多以宦人主之。 至元…

呉範の経歴

徐州刺史巴祇表功第一、當受遷賞、(趙趙)昱深以為恥、委官還家。徐州牧陶謙初辟別駕從事、辭疾遜遁。謙重令揚州從事會稽呉範宣旨、昱守意不移。欲威以刑罰、然後乃起。 (『三国志』巻八、陶謙伝注引『謝承後漢書』) 呉範字文則、會稽上虞人也。以治暦數…

親政という異常事態

あくまでも大体の話。 曹魏の皇帝が親政していたと言える文帝曹丕と烈祖様が即位していた年数は大体20年位。 魏自体は45年ほど続いてはいるので、それ以降の25年は斉王芳・高貴郷公・陳留王と、全員別の臣下によって政治が行われていた時代。 というか…

河南龐氏

議郎河南龐羲與(劉)焉通家、乃募將焉諸孫入蜀。 (『三国志』巻三十一、劉焉伝) 劉焉・劉璋の元で巴西太守などになっていた龐羲は河南の人だったのか。 龐參字仲達、河南緱氏人也。 (『後漢書』列伝第四十一、龐参伝) 河南郡の龐氏というと、この辺境で…

皇族の字

ちゃんと調べてないけど、漢代って諸侯王や皇帝の子として生まれた皇子はまず確実に「字」(あざな)が伝わらないな。たぶんな。 献帝は例外というか、「生まれてから後宮にいなかったっぽい」ことや「帝位を退いた」ことが関係ありそうだ。 漢の成帝も「太…

長男だから耐えられた

孝獻皇帝諱協、靈帝中子也。 【注】 謚法曰「聰明睿智曰獻。」協之字曰合。張璠記曰「靈帝以帝似己、故名曰協。」帝王紀曰「協字伯和。」 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀) 後漢の献帝には「伯和」という字があったという。 「伯」というのは基本的に長男に用…

劇県は劇県か否か

(永初元年九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳・平縣五歳以上,乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀) 漢代、郡や県には統治の困難さに応じた等級があったらしく、大変な方を「劇県」「劇郡」と呼んでいたよう…

所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。 (『三国志』巻十一、王修伝) 三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。 王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒) だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県…

出身不明

董京字威輦、不知何郡人也。 初與隴西計吏倶至洛陽、被髮而行、逍遙吟詠、常宿白社中。時乞於市、得殘碎繒絮、結以自覆、全帛佳緜則不肯受。或見推排罵辱、曾無怒色。 (『晋書』巻九十四、隠逸伝、董京) 晋の董京なる者は、隠逸伝に記されるだけのことはあ…

郡王と県公

以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣以顯歸命之寵。 (『三国志』巻二十八、鄧艾伝) 昨日の引用の一部だが、よくよく見ると凄い事が書かれている。 後漢皇帝献帝が譲位後に与えられたのが山陽公(県公)…

河内の苟氏2

苟晞字道將、河内山陽人也。 少為司隸部從事、校尉石鑒深器之。東海王越為侍中、引為通事令史、累遷陽平太守。齊王冏輔政、晞參冏軍事、拝尚書右丞、轉左丞、廉察諸曹、八坐以下皆側目憚之。及冏誅、晞亦坐免。長沙王乂為驃騎將軍、以晞為從事中郎。惠帝征成…

ひとこと

ああ、今まで意識してなかったけど、山陽公劉協(漢の献帝)の「山陽」って、「山陽郡」ではなくて「河内郡山陽県」なんだな・・・。 そら山陽郡ではないか・・・。

虹の彼方へ

(中平)六年二月乙未、白虹貫日。 【注】 春秋感精符曰「虹貫日、天下悉極、文法大擾、百官殘賊、酷法横殺、下多相告、刑用及族、世多深刻、獄多怨宿、吏皆慘毒。」又曰「國多死孽、天子命絶、大臣為禍、主將見殺。」星占曰「虹蜺主内婬、土精填星之變。」…

鄭玄の弟子

(鄭)玄質於辭訓、通人頗譏其繁。至於經傳洽孰、稱為純儒、齊魯閒宗之。其門人山陽郗慮至御史大夫、東萊王基・清河崔琰著名於世。又樂安國淵・任嘏、時並童幼、玄稱淵為國器、嘏有道徳、其餘亦多所鑒拔、皆如其言。 (『後漢書』列伝第二十五、鄭玄伝) 鄭…

崔琰のキャリア

崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。 學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于…

崔琰の前半生

崔琰字季珪、清河東武城人也。少樸訥、好撃劍、尚武事。年二十三、郷移為正、始感激、讀論語・韓詩。至年二十九、乃結公孫方等就鄭玄受學。 學未朞、徐州黄巾賊攻破北海、玄與門人到不其山避難。時穀糴縣乏、玄罷謝諸生。琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于…

曹丕と孔融

初、曹操攻屠鄴城、袁氏婦子多見侵略、而操子丕私納袁熙妻甄氏。融乃與操書、稱「武王伐紂、以妲己賜周公」。操不悟、後問出何經典。對曰「以今度之、想當然耳。」 (『後漢書』列伝第六十、孔融伝) 後漢末の孔融は曹操らによる袁氏婦女乱取り、ことに息子…

宗聖か崇聖か

正義、括地志云「漢封夫子十二代孫忠為褒成侯、生光、為丞相、封侯。平帝封孔霸孫莽二千戸為褒成侯。後漢封十七代孫志為褒成侯。魏封二十二代孫羨為崇聖侯。晉封二十三代孫震為奉聖亭侯。後魏封二十七代孫為崇聖大夫。孝文帝又封三十一代孫珍為崇聖侯、高齊…

格上げかもしれない

魏文帝黄初二年正月、詔以議郎孔羨為宗聖侯、邑百戸、奉孔子祀、令魯郡修舊廟、置百戸吏卒以守衛之。及武帝泰始三年十一月、改封宗聖侯孔震為奉聖亭侯。又詔太學及魯國、四時備三牲以祀孔子。 (『晋書』巻十九、礼志上、吉礼) かの孔子こと孔丘先生の子孫…

格下げ

初、平帝時王莽秉政、乃封孔子後孔均為襃成侯、追謚孔子為襃成宣尼。及莽敗、失國。建武十三年、世祖復封均子志為襃成侯。志卒、子損嗣。永元四年、徙封襃亭侯。損卒、子曜嗣。曜卒、子完嗣。世世相傳、至獻帝初、國絶。 (『後漢書』列伝六十九上、儒林列伝…

尚書令鄧馮

尚書令南陽鄧馮君侯為右扶風。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年) へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。 つまり南陽の鄧氏。 「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安で詩経を学…

宮中の皇子

元興元年、帝崩、長子平原王有疾、而諸皇子夭沒前後十數、後生者輒隠秘養於人閒。殤帝生始百日、后乃迎立之。 (『後漢書』紀第十上、皇后紀上、和熹鄧皇后) 後漢和帝の皇子は10人ほど早死にが続いたため、宮中から出されて密かに養育するようになった。 …

林か隆か

景帝十三男、一男為帝、十二男皆為王。而兒姁早卒、其四子皆為王。王太后長女號曰平陽公主、次為南宮公主、次為林慮公主。 【注】 索隠、縣名、屬河内。本名隆慮、避殤帝諱、改名林慮。慮音廬。 (『史記』巻四十九、外戚世家、王太后) 『史記』外戚世家で…

平春王

平春悼王全、以建初四年封。其年薨、葬於京師。無子、國除。 【注】 續漢志、平春、縣、屬江夏郡也。 (『後漢書』列伝第四十五、平春悼王全伝) 後漢の章帝の皇子劉全は平春王となった。 この平春王は江夏郡の一県が領地だったんだろうか?(近隣の県も付け…