後漢

長い人生

『史記』秦始皇本紀の本文には、「孝明皇帝十七年十月十五日乙丑曰」から始まる、明らかに後漢明帝の時のことに言及している部分がある。 ということは、この部分については章帝以降の時代に書かれているとしか思えない(明帝の時なら諡号で書かれるはずがな…

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月) 丁卯、遣…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

皇后の諡号

桓帝懿獻梁皇后諱女瑩、順烈皇后之女弟也。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、桓帝懿献梁皇后) 後漢の皇后の諡号だが、皇帝より先に皇后が死去してしまった場合、夫である皇帝の諡号を使うわけにいかない(というかまだ諡号が決まっていない)ためか、夫で…

蜀漢の皇后

論曰、漢世皇后無謚、皆因帝謚以為稱。雖呂氏專政、上官臨制、亦無殊號。中興、明帝始建光烈之稱、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬・竇二后倶稱徳焉。其餘唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其號、如恭懷・孝崇之比是也。初平中、蔡邕始…

献帝奪還計画

t-s.hatenablog.com この話だが、興平元年以前というと、また献帝は長安脱出もしていない頃だな。 となると、この時の陶謙・孔融らの計画というのは、「献帝を長安から連れ出す」か「長安から逃げ出した献帝を保護する」計画だった・・・ってコト?! これは…

献帝帰還計画

徐州牧陶謙・北海相孔融謀迎天子還洛陽、會曹操襲徐州而止。 (『後漢紀』孝献帝紀第二十七、興平元年四月) 興平元年の少し前、徐州牧陶謙・北海相孔融は献帝を洛陽に戻そうとしていた、と。 曹操や袁紹や袁術がいることを考えると現実味はどれだけかという…

献帝の嘆き

(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。既無任・姒徽音之美、又乏謹身養己之福、而陰懷妒害、苞藏禍心、弗可以承天命、奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔、其上皇后璽綬、退避中宮、遷于它館。嗚呼傷哉!…

皇后の出自

(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。・・・(後略)・・・ (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后) 後漢献帝の伏皇后は列侯で公主の夫でもある伏完の娘だが、「卑賤」から皇后になったのだと言…

列侯ランキング

夷安侯(鄧)珍子康、少有操行。兄良襲封、無後、永初六年、紹封康為夷安侯。時諸紹封者皆食故國半租、康以皇太后戚屬、獨三分食二、以侍祠侯為越騎校尉。 【注】 漢官儀曰「諸侯功徳優盛、朝廷所敬者、位特進、在三公下。其次朝侯、在九卿下。其次侍祠侯。…

嵐を呼ぶ貴人

初、掖庭人鄧香妻宣生女猛、香卒、宣更適梁紀。梁紀者、(梁)冀妻壽之舅也。壽引進猛入掖庭、見幸、為貴人、冀因欲認猛為其女以自固、乃易猛姓為梁。時猛姉壻邴尊為議郎、冀恐尊沮敗宣意、乃結刺客於偃城、刺殺尊、而又欲殺宣。宣家在延熹里、與中常侍袁赦…

前漢儒者の量刑改正

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰 臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(中略)・・・至哀・平繼體、而即位日淺、聽斷尚寡、丞…

改姓事情

昨日の梁貴人(鄧皇后)の話、最初桓帝は彼女を「薄氏」としていた。 これはまず間違いなく梁冀との関係をうかがわせる「梁氏」を名乗らせたくなかったからなのだと思うのだが、この時に最初から本来の姓である「鄧氏」に戻さないのは少々面白い。 少なくと…

鄧梁薄鄧

(韓)棱孫演、順帝時為丹陽太守、政有能名。桓帝時為司徒。大將軍梁冀被誅、演坐阿黨抵罪、以減死論、遣歸本郡。 【注】 華嶠書曰「梁皇后崩、梁貴人大幸、將立、大將軍冀欲分其寵、謀冒姓為貴人父、演陰許諾、及冀誅事發、演坐抵罪」也。 (『後漢書』列伝…

シュレジンガーの皇帝

三月戊午朔、日有食之。 庚申、幸宛、帝不豫。 辛酉、令大將軍耿寶行太尉事、祠章陵園廟、告長沙・零陵太守、祠定王・節侯・鬱林府君。 乙丑、自宛還。 丁卯、幸葉、帝崩于乗輿、年三十二。 祕不敢宣、所在上食問起居如故。 庚午、還宮。 辛未夕、乃發喪。 …

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

謝と射

三輔決録注曰、(射)援字文雄、扶風人也。其先本姓謝、與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征、天子以謝服非令名、改為射、子孫氏焉。兄堅、字文固、少有美名、辟公府為黄門侍郎。獻帝之初、三輔饑亂、堅去官、與弟援南入蜀依劉璋、璋以堅為長史。劉備代璋、…

辺境から内地へ

論功當封、(張)奐不事宦官、故賞遂不行、唯賜錢二十萬、除家一人為郎。並辭不受、而願徙屬弘農華陰。舊制邊人不得内移、唯奐因功特聽、故始為弘農人焉。 (『後漢書』列伝第五十五、張奐伝) 敦煌郡淵泉の人張奐の子孫張芝らが「弘農の人」とされるのは、…

霊帝の趣味

至靈帝好書、世多能者。 (『三国志』巻一、武帝紀注引衛恆『四體書勢序』) 後漢霊帝は書(書道)を好んだという話があるのか。それで後漢末に書をよくする者が多く出現したと。て

尹か帝国

前漢の都長安のある京兆尹、後漢の都洛陽のある河南尹。 用河内張烱之符命、遂僭號、以九江太守為淮南尹。 (『三国志』巻六、袁術伝) また、袁術も皇帝を称する時にどうやら本拠を「淮南尹」としたらしい。 つまり、皇帝の定住する都は「尹」とされるのが…

同じタイプの

是日、(李)傕復移帝幸其北塢、唯皇后・宋貴人倶。傕使校尉監門、隔絕内外。尋復欲徙帝於池陽黄白城、君臣惶懼。 (『後漢書』列伝第六十二、董卓伝) 李傕は献帝を池陽県に移そうとした、という(取りやめている)。 三月、詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地…

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

後漢末司直復活

(建安)八年冬十月己巳、公卿初迎冬於北郊、總章始復備八佾舞。 初置司直官、督中都官。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安八年) 後漢末の建安8年、「司直」が後漢初期以来の復活を遂げている。 中都官ということは、朝廷の諸官を監督するということか…

4メートル級巨人

袁宏漢紀「浮屠、佛也、西域天竺國有佛道焉。佛者、漢言覺也、將以覺悟羣生也。其教以脩善慈心為主、不殺生、專務清靜。其精者為沙門。沙門、漢言息也、蓋息意去欲而歸于無為。又以為人死精神不滅、隨復受形、生時善惡皆有報應、故貴行善修道、以鍊精神、以…

董卓の遺産

寺北有永和里、漢太師董卓之宅也。里南北皆有池、卓之所造。今猶有水、冬夏不竭。 里中有太傅録尚書事長孫稚・尚書右僕射郭祚・吏部尚書邢巒・廷尉卿元洪超・衛尉卿許伯桃・涼州刺史尉成興等六宅。 皆高門華屋、齋館敞麗、楸槐蔭途、桐楊夾植、當世名為貴里…

袁紹と漢の皇帝

初、天子之立非(袁)紹意、及在河東、紹遣潁川郭圖使焉。圖還説紹迎天子都鄴、紹不從。 會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。 紹悔、欲令太祖徙天子都鄄城以自密近、太祖拒之。 (『三国志』巻六、袁紹伝) 皇帝が許に連行される前の河東郡(王邑)の元…

鹿大好き

九州春秋曰、張角之反也、黑山・白波・黄龍・左校・牛角・五鹿・羝根・苦蝤・劉石・平漢・大洪・司隸・縁城・羅市・雷公・浮雲・飛燕・白爵・楊鳳・于毒等各起兵、大者二三萬、小者不減數千。 (『三国志』巻八、張燕伝注引『九州春秋』) この軍閥というか…

曹丕わが身を振り返る

曹丕が立てた魏王朝においては、前王朝である後漢において時に権力を握った「宦官」「外戚」「皇太后」を徹底的に権力から遠ざけようとしている。 曹丕の先祖は宦官である。 つまり、曹丕は自分の先祖のことを振り返ってみて、皇帝の権力を脅かしそうな存在…