後漢

三互

初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。 【注】 三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拜平原相」是也。 (『後漢書』列伝第…

思い付き

「ほら!すぐ帝位が欲しいなら殺してみろよ!その気になれば一瞬だろ!ほら!やってみろって!ただ初代皇帝がそんなことする王朝は碌なことにはならないぞ!ほらやってみろって!」みたいな心境であったという点では、建安末期の献帝と挙兵の時の高貴郷公は…

ただの思い付き

後漢献帝が曹操が死んだ途端に帝位を曹丕に禅譲したの、「もはや天命が失われているのは認めているが、自分から権力を奪い皇后や皇子を奪い多数の臣下を奪った憎い曹操だけは絶対に皇帝にさせない。曹操でさえなければいい」という気持ちだった説。

ひとこと

そういえば先日の記事だけど、献帝の子の中で魏になってから一人だけ公主扱いされた子は、まあまず確実に曹操の娘の生んだ子だろうなあ・・・。 魏王朝においては現役皇帝と元皇帝の双方と血が繋がる人物になるんだろうから、特別扱いも当然と言えるかもしれ…

政教

t-s.hatenablog.com そういえば後漢末には当時の新宗教が政権中枢にまで入り込んでいたと言われていたんだったなあ・・・。 などとふと思った。他意はないかもしれない。

ひとこと

『続漢書』五行志では「淫雨」や「大水」は乱や変事の前兆のように言われるのか。 大雨で遅くまで仕事から帰れなかった翌日にふと思うの巻。

丞相になりたい曹操さん

獻帝起居注曰、建安十三年、為司徒趙温所辟。太祖表「温辟臣子弟、選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免温官。 (『三国志』巻二、文帝紀注引『献帝起居注』) 後漢末の司徒趙温は、司空曹操の子曹丕を自分の幕僚として招いたところ、「不正な推挙…

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

諸侯王の監視

曹魏の諸侯王の元には「監国使者(謁者)」という官が付いていて、どうやら皇帝直属で諸侯王を監視していたらしい。 前漢の初期の初期は基本全ての官を諸侯王が自ら任命し、その後は諸侯王の相(丞相)や傅あたりだけが勅任で、彼らが監視の任を負っていたよ…

曹植、服喪の理由

昨日の記事に沿って考えるなら、曹操は夏侯惇らの重臣に対して、「自分は周の文王であり、息子が武王となるのであるから、殷の紂王たる漢の天子はいずれ紂王のように攻め滅ぼすことになるだろう」という主旨の発言をしたのだ、ということになる。 少なくとも…

放伐も可

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」 (『三国志』巻…

藁の家

『史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。 陳寿『三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。 それらに対し、いわゆる「正史」…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…

長い人生

『史記』秦始皇本紀の本文には、「孝明皇帝十七年十月十五日乙丑曰」から始まる、明らかに後漢明帝の時のことに言及している部分がある。 ということは、この部分については章帝以降の時代に書かれているとしか思えない(明帝の時なら諡号で書かれるはずがな…

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月) 丁卯、遣…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

皇后の諡号

桓帝懿獻梁皇后諱女瑩、順烈皇后之女弟也。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、桓帝懿献梁皇后) 後漢の皇后の諡号だが、皇帝より先に皇后が死去してしまった場合、夫である皇帝の諡号を使うわけにいかない(というかまだ諡号が決まっていない)ためか、夫で…

蜀漢の皇后

論曰、漢世皇后無謚、皆因帝謚以為稱。雖呂氏專政、上官臨制、亦無殊號。中興、明帝始建光烈之稱、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬・竇二后倶稱徳焉。其餘唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其號、如恭懷・孝崇之比是也。初平中、蔡邕始…

献帝奪還計画

t-s.hatenablog.com この話だが、興平元年以前というと、また献帝は長安脱出もしていない頃だな。 となると、この時の陶謙・孔融らの計画というのは、「献帝を長安から連れ出す」か「長安から逃げ出した献帝を保護する」計画だった・・・ってコト?! これは…

献帝帰還計画

徐州牧陶謙・北海相孔融謀迎天子還洛陽、會曹操襲徐州而止。 (『後漢紀』孝献帝紀第二十七、興平元年四月) 興平元年の少し前、徐州牧陶謙・北海相孔融は献帝を洛陽に戻そうとしていた、と。 曹操や袁紹や袁術がいることを考えると現実味はどれだけかという…

献帝の嘆き

(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。既無任・姒徽音之美、又乏謹身養己之福、而陰懷妒害、苞藏禍心、弗可以承天命、奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔、其上皇后璽綬、退避中宮、遷于它館。嗚呼傷哉!…

皇后の出自

(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。・・・(後略)・・・ (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后) 後漢献帝の伏皇后は列侯で公主の夫でもある伏完の娘だが、「卑賤」から皇后になったのだと言…

列侯ランキング

夷安侯(鄧)珍子康、少有操行。兄良襲封、無後、永初六年、紹封康為夷安侯。時諸紹封者皆食故國半租、康以皇太后戚屬、獨三分食二、以侍祠侯為越騎校尉。 【注】 漢官儀曰「諸侯功徳優盛、朝廷所敬者、位特進、在三公下。其次朝侯、在九卿下。其次侍祠侯。…

嵐を呼ぶ貴人

初、掖庭人鄧香妻宣生女猛、香卒、宣更適梁紀。梁紀者、(梁)冀妻壽之舅也。壽引進猛入掖庭、見幸、為貴人、冀因欲認猛為其女以自固、乃易猛姓為梁。時猛姉壻邴尊為議郎、冀恐尊沮敗宣意、乃結刺客於偃城、刺殺尊、而又欲殺宣。宣家在延熹里、與中常侍袁赦…

前漢儒者の量刑改正

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰 臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(中略)・・・至哀・平繼體、而即位日淺、聽斷尚寡、丞…

改姓事情

昨日の梁貴人(鄧皇后)の話、最初桓帝は彼女を「薄氏」としていた。 これはまず間違いなく梁冀との関係をうかがわせる「梁氏」を名乗らせたくなかったからなのだと思うのだが、この時に最初から本来の姓である「鄧氏」に戻さないのは少々面白い。 少なくと…

鄧梁薄鄧

(韓)棱孫演、順帝時為丹陽太守、政有能名。桓帝時為司徒。大將軍梁冀被誅、演坐阿黨抵罪、以減死論、遣歸本郡。 【注】 華嶠書曰「梁皇后崩、梁貴人大幸、將立、大將軍冀欲分其寵、謀冒姓為貴人父、演陰許諾、及冀誅事發、演坐抵罪」也。 (『後漢書』列伝…

シュレジンガーの皇帝

三月戊午朔、日有食之。 庚申、幸宛、帝不豫。 辛酉、令大將軍耿寶行太尉事、祠章陵園廟、告長沙・零陵太守、祠定王・節侯・鬱林府君。 乙丑、自宛還。 丁卯、幸葉、帝崩于乗輿、年三十二。 祕不敢宣、所在上食問起居如故。 庚午、還宮。 辛未夕、乃發喪。 …