後漢

最強の妻

犍為盛道妻者、同郡趙氏之女也、字媛姜。 建安五年益部亂、道聚衆起兵、事敗。夫妻執繫、當死。媛姜夜中告道曰「法有常刑、必無生望、君可速潜逃、建立門戸、妾自留獄、代君塞咎。」道依違未從。媛姜便解道桎梏、為齎粮貨。子翔時年五歳、使道攜持而走。媛姜…

ひとこと

曹操が献帝の伏皇后と皇子を殺した件、完全に意図的で皇帝の意向をガン無視したものだったことを考えると、当時与えたインパクトでは司馬昭の皇帝高貴郷公殺しにも匹敵するような事件だったんじゃないのかなあ・・・。

謎の師匠

趙達、河南人也。少從漢侍中單甫受學、用思精密、謂東南有王者氣、可以避難,故脱身渡江。治九宮一算之術、究其微旨、是以能應機立成、對問若神、至計飛蝗、射隠伏、無不中效。 (『三国志』巻六十三、趙達伝) 三国呉で活躍した預言者趙達は、後漢の「侍中…

孫策の扱い

孫権は皇帝即位後、兄孫策に対して「長沙桓王」の号を贈った。 父孫堅には「武烈皇帝」という号を贈っており、王と皇帝という差があったことになる。 これについて、兄孫策にも皇帝号を贈らないことを不思議がったり孫権の誤りであると述べる人をしばしば見…

宛の李氏と安衆の劉氏

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 『後漢書』李通伝に、後漢明帝が宛に行幸した時、宛の李氏たちに対して安衆県の劉氏たち(先…

安衆侯一族

劉隆字元伯、南陽安衆侯宗室也。王莽居攝中、隆父禮與安衆侯崇起兵誅莽、事泄、隆以年未七歳、故得免。 及壯、學於長安、更始拝為騎都尉。謁歸、迎妻子置洛陽。聞世祖在河内、即追及於射犬、以為騎都尉、與馮異共拒朱鮪・李軼等、軼遂殺隆妻子。建武二年、封…

劉宣と劉寵

初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。 休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以…

功臣安衆侯

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 【注】 安衆、縣、屬南陽郡。故城在鄧州東。謝承書曰「安衆侯劉寵、長沙定王五代孫、南陽宗室也。與宗人討莽安功、隨光武河北…

安衆侯と舂陵侯

前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。 侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。 侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。 建武十三年、侯松嗣。 今見。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹) この安衆侯は後漢最初期に復興されてい…

武骨者の一族

舂陵侯や安衆侯らの前漢長沙王系統、かの更始帝劉玄、斉王劉縯(伯升)、反乱者翟義の親族と繋がっていた舂陵侯劉敞(舂陵侯本家)、敵討ちが原因で官吏に殺された兄の仇を討った安成侯劉賜、ガチの反乱者安衆侯劉崇など、なぜか前漢末や新の時代にやけに血…

兄の嘲笑

性勤於稼穡、而兄伯升好俠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。 (『後漢書』紀第一上、光武帝紀上) 後漢初代皇帝は農業にいそしみ、反社勢力に両足突っ込んでいた兄からは馬鹿にされていたのだ、という話がある。 t-s.hatenablog.com このあたりの話だ…

二つの氏

劉向別録曰「齊使鄒衍過趙平原君、見公孫龍及其徒綦毋子之屬、論『白馬非馬』之辯、以問鄒子。 (『史記』巻七十六、平原君虞卿列伝注引劉向『別録』) 昨日の「綦毋」氏については、どうやら戦国時代に公孫竜子の弟子にもいたらしい。 割と古くからある氏だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

内政干渉

秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安二十一年) ふと思ったが、曹操が匈奴単于を抑留して右賢王に国を監督させたという件、これは漢王朝において曹操自身がやっていたことを匈奴…

相似形

後漢献帝が曹操暗殺を企てた時は、実行犯董承らは殺された。 同じように、曹魏高貴郷公が司馬昭暗殺を企てた時は、実行犯でもある高貴郷公は殺された。 「皇帝による権臣暗殺計画に対して実行犯が殺された」という形で見ると、高貴郷公は先祖曹操がやったこ…

フォロワー

李傕は皇帝(献帝)を池陽県に移そうとしたというが、この池陽県はかつて北地郡の人間が強制移住させられた土地で、李傕が北地郡の人。つまり池陽県は李傕にとっては地元、ホームであった可能性が高い。 つまり、この時の李傕の計画は「完全に自分の本拠と言…

正論と切り抜き

建安元年、許県に連行された後漢献帝は連行した曹操を大将軍としたが、袁紹が曹操の下となるのをよしとせず、そのために曹操は大将軍を辞退した、という話が残っている。 よく考えてみると、この時の曹操は大将軍になるのが必然であって袁紹の異議は完全な感…

三互

初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。 【注】 三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拜平原相」是也。 (『後漢書』列伝第…

思い付き

「ほら!すぐ帝位が欲しいなら殺してみろよ!その気になれば一瞬だろ!ほら!やってみろって!ただ初代皇帝がそんなことする王朝は碌なことにはならないぞ!ほらやってみろって!」みたいな心境であったという点では、建安末期の献帝と挙兵の時の高貴郷公は…

ただの思い付き

後漢献帝が曹操が死んだ途端に帝位を曹丕に禅譲したの、「もはや天命が失われているのは認めているが、自分から権力を奪い皇后や皇子を奪い多数の臣下を奪った憎い曹操だけは絶対に皇帝にさせない。曹操でさえなければいい」という気持ちだった説。

ひとこと

そういえば先日の記事だけど、献帝の子の中で魏になってから一人だけ公主扱いされた子は、まあまず確実に曹操の娘の生んだ子だろうなあ・・・。 魏王朝においては現役皇帝と元皇帝の双方と血が繋がる人物になるんだろうから、特別扱いも当然と言えるかもしれ…

政教

t-s.hatenablog.com そういえば後漢末には当時の新宗教が政権中枢にまで入り込んでいたと言われていたんだったなあ・・・。 などとふと思った。他意はないかもしれない。

ひとこと

『続漢書』五行志では「淫雨」や「大水」は乱や変事の前兆のように言われるのか。 大雨で遅くまで仕事から帰れなかった翌日にふと思うの巻。

丞相になりたい曹操さん

獻帝起居注曰、建安十三年、為司徒趙温所辟。太祖表「温辟臣子弟、選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免温官。 (『三国志』巻二、文帝紀注引『献帝起居注』) 後漢末の司徒趙温は、司空曹操の子曹丕を自分の幕僚として招いたところ、「不正な推挙…

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

諸侯王の監視

曹魏の諸侯王の元には「監国使者(謁者)」という官が付いていて、どうやら皇帝直属で諸侯王を監視していたらしい。 前漢の初期の初期は基本全ての官を諸侯王が自ら任命し、その後は諸侯王の相(丞相)や傅あたりだけが勅任で、彼らが監視の任を負っていたよ…

曹植、服喪の理由

昨日の記事に沿って考えるなら、曹操は夏侯惇らの重臣に対して、「自分は周の文王であり、息子が武王となるのであるから、殷の紂王たる漢の天子はいずれ紂王のように攻め滅ぼすことになるだろう」という主旨の発言をしたのだ、ということになる。 少なくとも…

放伐も可

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」 (『三国志』巻…

藁の家

『史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。 陳寿『三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。 それらに対し、いわゆる「正史」…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…