後漢

胡母

後漢末の「胡母班」など、「胡母」という姓がある。 胡母侯楚 濟北式王子。 二月癸酉封、十四年、元鼎五年、坐酎金免。 泰山 (『漢書』巻十五上、王子侯表上) 前漢の列侯に「胡母侯」という侯がいた。 通常、侯は封建される土地の名を冠するものなので、「…

皇帝号のバーゲンセール

やっぱ、「魏武王鬼つええ!このまま3代前まで全員皇帝扱いしていこうぜ!!」ってやりだしたのは曹魏かな・・・? 漢では基本やってなかった(「太上皇」や「恭皇」など、「帝」を付けなかった)みたい(王莽もやってないはず)なので、孫晧が父孫和を文帝…

外戚封建のルール3

建初元年、帝欲封爵諸舅、太后不聽。明年夏、大旱、言事者以為不封外戚之故、有司因此上奏、宜依舊典。 (『後漢書』紀第十上、皇后紀上、明徳馬皇后) 後漢の馬皇后は皇太后になってからも自分の兄弟の封建を許さないでいた。 そんな折に旱魃が発生したが、…

歴代諸侯王制度

後漢の諸侯王は一応は郡と同等(実際には郡未満だが)の領地を支配した。ただし一部の例外を除き仕官はできなかったと思われる。 魏の諸侯王は後漢よりも明らかに狭い領地しか与えられず、かといって仕官もできなかった。司馬氏に軟禁状態にされる前から出来…

ひとこと

大したことじゃないんだが、沛郡(国)って九江郡と隣接してるんだな。っていうか当初は沛郡所属だった県が後漢ではいくつか九江郡に移管してもいる。 今まで意識してなかった。

生まれる前から滅んでいた

靈帝熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺曰「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年亦當復見天事恒象、此其徴也。」 (『宋書』巻二十七、符瑞志上) 漢元・成之世、先識之士有言曰「魏年有和、當有開石於西三千餘里、繫五馬、文曰討曹…

曹操と琅邪王

(劉)據立四十七年薨、子順王容嗣。 初平元年、遣弟邈至長安奉章貢獻、帝以邈為九江太守、封陽都侯。 容立八年薨、國絶。 初、邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。 建安十一年、復立容子熙為王。在位十一年、坐謀欲過江、被誅、國除。 (『…

童子郎

(臧)洪年十五、以父功拝童子郎、知名太學。 (『後漢書』列伝第四十八、臧洪伝) 後漢の郎官には「童子郎」と呼ばれる少年の郎がいたそうな。 臧洪の場合は父(臧旻)の功績で郎になれたようだが、「太学で名を知られた」ということは童子郎になると共に専…

劇県

(九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳、平縣五歳以上、乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀、永初元年) どうでもいいことかもしれんが、「劇県」というと上記のように「統治困難な県」といった意味の行政用語…

郡独裁の実態について

昨日の話だけど、これって所管の各県内では実際には県丞や県尉が代行となってほとんどの事務を取り仕切っていたってことになると思うんだよな。 郡の仕事も任されたのだとしたら、本官である涿県でもそんな感じだったかもしれない。 つまり、多くが現地採用…

郡の独裁者

滕撫字叔輔、北海劇人也。初仕州郡、稍遷為涿令、有文武才用。太守以其能、委任郡職、兼領六縣。風政修明、流愛于人、在事七年、道不拾遺。 【注】 續漢志涿郡領七縣、除涿以外、有迺・故安・范陽・良郷・北新城・方城六縣、使撫兼領之。 (『後漢書』列伝第…

『三国志』に出てこない人物

大漢輿服志一卷。魏博士董巴撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、儀注篇) 魏の博士董巴は『輿服志』を著していて、『後漢書』注などでしばしば引用されている。 おそらくこの書を司馬彪『続漢書』輿服志が大いに参考にしたのだと思う。 この董巴は『三…

遷都計画

(袁)紹毎得詔書、患有不便於己、乃欲移天子自近、使説(曹)操以許下埤溼、洛陽殘破、宜徙都甄城、以就全實。操拒之。 (『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上) 袁紹が献帝を許県から甄城に移そうとした、という話がある。 よく考えると甄城は曹操支配下の…

譲位

(建安四年)二月、司空曹操譲位於太僕趙岐、不聽。 (『後漢紀』孝献帝紀第二十九) 曹操は地位を趙岐に譲ろうとした、という話がある。 譲ろうとしたのは司空だろうか?なお、ほぼ同じ時期に自分の将軍位であったはずの車騎将軍は実際に董承に譲った形にな…

コメントから

先日の記事にコメントをいただいた。 なるほど、曹瑜の衛将軍を魏(公)王国や魏帝国の官とするには、他に登場しないという難点がある。 特に魏公封建を勧める中にも即位を勧める中にも出てこないというのは、地位・立場を考えると不自然ではある。 となると…

全部想像

曹瑜について考えていて思ったが、曹操が不在になっていると献帝の朝廷において高位の将軍や公がいたんだろうか、という話になってくる。 献帝の姻戚伏完あたりがそうだったかもしれないが、曹操側としてはバランスを取るために相応の官位の者を用意したいと…

ひとこと

昨日の董太后の話だが、霊帝生前に後継者争いを煽ってたような太皇太后を、新皇帝の母である皇太后何氏やその兄何進が放置するわけにはいかんよな。 そのままにしていたらそれはそれで朝廷内に動乱が起こっていたかもしれないわけで。 何氏の董氏への恨みと…

劉男

皇女男、建初四年封武徳長公主。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、皇女、粛宗三女) 後漢章帝には「男」という名の女子がいたらしい。つまりフルネームは「劉男」ということになる。 どういう経緯があったら女性、しかも姫君に「男」という名を付けることに…

創造的人生の持ち時間

昨日の記事書いたあとに思ったが、献帝が人生で最も充実していた時期は、董卓が死んでから曹操に連行されるまでの間だったんだろうな・・・。 その時期もしばしば生命の危機に見舞われたりしているから、幸せな時期とか安心できた時期ではない。 だが、強権…

隣り合わせの灰と皇帝

後漢献帝。 彼の母が彼を妊娠した時、実は堕胎の危機であった。 つまり受精卵となった直後から、献帝は生命の危機であった。 その後も何皇后らに殺される危険性が常にあったのだろう。 彼はその後皇帝に即位するわけだが、前皇帝である兄劉弁は殺されている…

曹魏からの伝統

後漢では皇帝となった者の実父に「孝崇皇」「孝仁皇」などといった号を追尊することがあったようだが、少なくとも表記上は「皇帝」ではなく「皇」で留めていて、一応は本当に皇帝になった者とは区別しているように思える。 これと比べても、やはり曹魏におい…

ひとこと

そういえば、後漢霊帝の時の売官制って、撤廃・廃止されたとか、機能しなくなっていたとかいった話ってどこかでわかるようになってたっけ? 実は献帝の時も魏王朝になっても(なんなら蜀漢や呉でも)機能し続けていた、なんてことはない・・・よね? 違うと…

朝敵と放伐

先日、曹操が「朝敵」になったのでは、と書いたが、これは短期的にはマイナスがあっただろうが、長期的にもマイナスばかりとは言い切れないだろう。 少なくとも、その後も順調に天下取りに近づいていき、いよいよ皇帝に即位してもおかしくないという段になる…

朝敵

『三国志』武帝紀では建安5年に劉備・董承らが「謀反」したとのみ書かれるが、『三国志』劉備伝や『後漢書』孝献帝紀では皇帝の密詔によって行われた陰謀とされている。つまり献帝が曹操誅殺を求めたわけである。 つまりこれらを相互に参照すると、曹操は実…

ひとこと

後漢の桓帝は皇帝の曽孫で、蠡吾侯の子。 霊帝は皇帝の玄孫で解瀆亭侯。 霊帝を廃位して立てられるところだった合肥侯は、正体不明のはずではあるが桓帝の父のような「王の分家で侯になった」家なのだろうから、桓帝・霊帝の出自と大して変わらない立場なの…

宦官しまっちゃうおじさん3

よく考えてみると、曹操は「宦官の孫」、しかも相当な大物宦官の孫なのに、宦官を滅殺したいっていう連中と親しかったり、宦官滅殺計画に声かけられたりしてるわけだな・・・。 いくらその連中の中では比較的冷静で穏健だったとしても、かつての自分の祖父の…

宦官しまっちゃうおじさん2

t-s.hatenablog.com ここで引用している話の中で、蓋勲は袁紹・劉虞に対し「宦官は誅滅し、賢明なる霊帝を盛り立てるのだ」といったことを語っている。 t-s.hatenablog.com またここの話では、霊帝を廃位しようとした王芬らの主目的は「宦官を誅滅する」であ…

宦官しまっちゃうおじさん

t-s.hatenablog.com そういえば、この話の中で襄楷らは今こそ宦官族滅の時だ、といったようなことを言っているな。 つまり皇帝廃立は宦官族滅とセットという計画だったということだな。 宦官とズップズプの皇帝を、そうではない皇帝にチェンジする、というこ…

板挟みの可能性

頃之、冀州刺史王芬・南陽許攸・沛國周旌等連結豪傑、謀廢靈帝、立合肥侯、以告太祖、太祖拒之。芬等遂敗。 (『三国志』巻一、武帝紀) 先日来ネタにしているこの話だが、よく見ると曹操と同郷の人間が陰謀に加わっているんだな。 曹操(曹氏)に声がかかっ…

お誘いの理由

昨日の話だが、そもそも冀州刺史王芬らはどうして曹操を引き入れようとしたのか? 既に能力を示していたとはいえ、無官である曹操が、この時の廃立においてどれほど力になっただろうか? 時期を考えると、いわゆる黄巾の乱が起こった後のこととされている。 …