2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

ひとこと

ふと思っただけだが、かの有名な曹操の「唯才」、つまり実力さえあれば人格に少々難があっても採用する、って話は、誰よりも体現してるのは曹操や曹丕自身かもなあ・・・。

廃位黙示録セイオウ

帝言『我作天子。不得自在邪?太后何與我事!』使人燒鐵灼(令狐)景、身體皆爛。 (『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平六年、注引『魏書』) この皇帝は曹魏の斉王芳。 斉王芳が自分に楯突いた(諫言した)令狐景にした仕打ち、これって「焼き土下座」じゃない…

気付き

あれ?もしかしてGOFESTってもしかして割と規模がデカいイベント? 海外からも割と人が来たりするのか・・・?もう少し大人しい催しものかと思ってたよ。 なお、今の私はこれに備えてボックス整理中です。今更ながら。

SUGOI NEMUI

すごいねむいので思考能力が落ちている・・・。

ヘッドショット

帝常喜以彈彈人、以此恚(令狐)景、彈景不避首目。 (『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平六年、注引『魏書』) この「帝」は曹魏の斉王芳。 斉王芳は人に向けてBB弾を発射するのが好きだったそうだ。自分の気に食わない清商令令狐景に対しては顔に向けて撃っ…

ひとこと

ふと思ったが、司馬氏の「王祥などのように自分からすれば痛い言動のある臣下を排除するどころか重用する」という(風に見える)態度は、魏公・九錫を受けるのを反対した荀彧を事実上殺し、諫言が怒りに触れた鮑勛を処刑し、といった曹魏君主たちの華麗なる…

小休止

今日は少々お疲れなので、おやすみなさい。

王祥の行動原理

王祥や司馬孚は曹魏の皇帝高貴郷公の死を悼んだというが、これをもって彼らが魏に忠誠を誓い晋に否定的だったと考えるのは早計だろうと思う。 この時の彼らのような「批判的にも見える言動を容れる最高権力者司馬昭」という姿は、皇帝を死なせたという失点を…

ひとこと

親孝行モンスターみたいな王祥がずっと仕官しなかった理由も親関係であるんじゃないかという気付き。

王祥の仇

『晋書』王祥伝を見てみると、実は父がいつ死んだのかよく分からない。 「漢末遭亂、扶母攜弟覽避地廬江、隠居三十餘年、不應州郡之命。」とあるので、廬江に流れ着いた時には父はいなかったように思える(そうでない可能性も無くもないが)・・・。 父はど…

ひとこと(王祥と司馬氏)

王祥の官歴を見ても、どこで司馬氏と繋がっていったのかイマイチわからないんだよな・・・*1。 やっぱ、司馬氏やその一党とは「曹氏を内心快く思ってない」という一点が共通項だったんじゃ・・・? *1:私以外は分かってるのかもしれないけど。

王祥の気持ち2

そういえば、王祥を招いた徐州刺史は呂虔だったわけだが、その前任の徐州刺史は臧覇だったはずだよな。 臧覇は以前から徐州・青州方面に割拠していた半独立勢力と思われ、徐州刺史の前は琅邪相だった。 つまり、王祥を属官に招いたり孝廉などとして推挙した…

王祥の気持ち

t-s.hatenablog.com 魚取り以外では晋臣として有名な王祥だが、世代としてはむしろ魏の時代の人間と言える。 だが彼はどうやら曹操の時代には一切出仕せず、魏文帝の時代になってから初めて徐州刺史の招きに応じたらしい。 漢王朝に仕えたくないというなら、…

ひとこと

t-s.hatenablog.com この話のあとで思ったが、曹操にとって徐州の殺戮の一件は、ゲームで序盤の選択肢を誤ったせいでグッドエンディングに行けなくなった、みたいな感じに思える・・・。

おやすみ

あーなんか今日も疲れたァ・・・。 今日はもういいやァ・・・。

ひとこと

昨日の話からすれば孫亮の時代でも徐州方面はつけ入る隙があるという状況だったことになるが、これは曹丕の時の利城郡反乱によって唐咨が呉に逃げるという事態が招いたものと言える。 そして曹丕の時の利城郡反乱は元をただせば曹操の時の徐州への略奪殺戮が…

東海郡進出

使衛尉馮朝城廣陵、拝將軍呉穰為廣陵太守、留略為東海太守。是歳大旱。十二月、作太廟。以馮朝為監軍使者、督徐州諸軍事、民饑、軍士怨畔。 (『三国志』巻四十八、孫亮伝、五鳳二年) 孫呉はこの五鳳2年頃は広陵・東海郡方面に進出しようとしていた。要塞…

疲労感

なんか疲れて眠い。 今宵はお休み。またいつかお会いしましょう。

ひとこと

『三国志』の魏の諸伝では多くの場合に封建された封邑の戸数を詳しく書いている。 その一方で、『三国志』武帝紀では曹操自身の封邑については戸数があまり書かれていないように思う。書かれているのは主に『後漢紀』なのだ。 この辺、ちょっと面白い関係に…

舞陽成侯

そういえば、晋は司馬懿の父の司馬防に皇帝号を追尊してないんだな。 「舞陽成侯」は追尊している(『晋書』宣帝紀)が、それ以上の王などの号も追尊していないようだ。 曹魏は初代皇帝の3世代前まで皇帝号を追尊しているので、初代皇帝の3世代前である司…

九廟

曹魏は太祖・高祖・烈祖様で「三祖」を形成した。 前漢の皇帝廟は本来は「太祖」と「三昭三穆」の「天子七廟」であった。 「三祖」と「三昭三穆」を合わせると「九廟」。 王莽は「九廟」を作ったとされるのだが、曹魏も本当は「三祖三昭三穆」の「九廟」を作…

始祖

孫堅って「始祖」という廟号なのか。 「烈祖」と同じく、これまで無かったオリジナル廟号だと思う。 ただ、王莽が先祖の「九廟」として「帝虞始祖昭廟」というのを決めているようなので、全く前例がないわけでもないか。

疑問

なんだか最近旧Twitterとの連携が機能していない気がする・・・。何故だろう?それともチェックしたつもりがしてないだけか? そこが分からなくて辛いので休む。

魯相と魯王

後漢末、張遼や温恢などが「魯相」つまり魯王の相(宰相)になったとされているのだが、じゃあ魯王は誰なのかというと不明じゃないかと思う。 t-s.hatenablog.com ずっと以前記事にしたように、魯王=東海王だったんだろうか?それとも、東海王として知られ…

ひとこと

そういや、黄巾は潁川郡あたりが根城の一つだったと言われているんだったなあ。 後漢末頃の潁川郡出身の著名人って割といるわけだが、何人かは本人や一族が黄巾関係者だったりするのかなあ。

悪の巣窟

太史公曰、吾嘗過薛、其俗閭里率多暴桀子弟、與鄒・魯殊。問其故、曰「孟嘗君招致天下任俠、姦人入薛中蓋六萬餘家矣。」世之傳孟嘗君好客自喜、名不虛矣。 (『史記』巻七十五、孟嘗君列伝) 『史記』太史公によれば、かの賓客を多数集めた事で有名な孟嘗君…

5月5日の伝説

5月5日。 t-s.hatenablog.com 5月5日といえば、かつては「5月5日に生まれた子は背丈が家の戸に追い付くと自分か親を害することになる」という迷信があったそうだ。 世の5月5日生まれの人たちは、こんなことが起きないように家の戸をとても高くしてお…

ひとこと(屯田民)

曹操の屯田民は、おそらくは曹操の軍糧生産の民、つまり曹操軍のために囲われる民だと思われる。 一方、通常の郡県の民は、いわば皇帝に属する民ということになるだろう。 つまり、屯田民が増えることは曹操の隷民が増えることになり、一般の郡県に帰農させ…

睡魔

今日も眠くて頭が回らないので休む。春眠暁を覚えず。 お休み。

生爪

足の小指をぶつけて爪が剥がれかけていて痛いので一回休み。