2022-10-01から1ヶ月間の記事一覧

安衆侯一族

劉隆字元伯、南陽安衆侯宗室也。王莽居攝中、隆父禮與安衆侯崇起兵誅莽、事泄、隆以年未七歳、故得免。 及壯、學於長安、更始拝為騎都尉。謁歸、迎妻子置洛陽。聞世祖在河内、即追及於射犬、以為騎都尉、與馮異共拒朱鮪・李軼等、軼遂殺隆妻子。建武二年、封…

劉宣と劉寵

初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。 休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以…

功臣安衆侯

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 【注】 安衆、縣、屬南陽郡。故城在鄧州東。謝承書曰「安衆侯劉寵、長沙定王五代孫、南陽宗室也。與宗人討莽安功、隨光武河北…

安衆侯と舂陵侯

前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。 侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。 侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。 建武十三年、侯松嗣。 今見。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹) この安衆侯は後漢最初期に復興されてい…

武骨者の一族

舂陵侯や安衆侯らの前漢長沙王系統、かの更始帝劉玄、斉王劉縯(伯升)、反乱者翟義の親族と繋がっていた舂陵侯劉敞(舂陵侯本家)、敵討ちが原因で官吏に殺された兄の仇を討った安成侯劉賜、ガチの反乱者安衆侯劉崇など、なぜか前漢末や新の時代にやけに血…

兄の嘲笑

性勤於稼穡、而兄伯升好俠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。 (『後漢書』紀第一上、光武帝紀上) 後漢初代皇帝は農業にいそしみ、反社勢力に両足突っ込んでいた兄からは馬鹿にされていたのだ、という話がある。 t-s.hatenablog.com このあたりの話だ…

二つの氏

劉向別録曰「齊使鄒衍過趙平原君、見公孫龍及其徒綦毋子之屬、論『白馬非馬』之辯、以問鄒子。 (『史記』巻七十六、平原君虞卿列伝注引劉向『別録』) 昨日の「綦毋」氏については、どうやら戦国時代に公孫竜子の弟子にもいたらしい。 割と古くからある氏だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

内政干渉

秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安二十一年) ふと思ったが、曹操が匈奴単于を抑留して右賢王に国を監督させたという件、これは漢王朝において曹操自身がやっていたことを匈奴…

袁紹の希望

袁紹は官渡から撤退してから1年半ほどで死んでいる。 劉邦は滎陽・成皋から撤退してから1年半ほどで項羽を滅ぼしている。 こうして見ると、一度大敗したからといってもうおしまい、と断言できるようなものではないのだ、ということになるのだろう(無論、…

今日は

何か疲れてるので・・・。 ネロくらい眠い。 先日ほぼ一日中病院にいた(自分の治療ではない)のが響いてるか・・・。

月日は百代の

今日はプロやきうドラフト会議の日らしい。 いつの間に・・・。アッー!と言う間だな・・・。 さて、どうなることやら。

相似形

後漢献帝が曹操暗殺を企てた時は、実行犯董承らは殺された。 同じように、曹魏高貴郷公が司馬昭暗殺を企てた時は、実行犯でもある高貴郷公は殺された。 「皇帝による権臣暗殺計画に対して実行犯が殺された」という形で見ると、高貴郷公は先祖曹操がやったこ…

皇子の謎

そういえば、曹叡こと烈祖様の不思議な点としては、ほんの数年前に生まれた皇子がいて、しかもかなり後宮を充実させていたという話も残るというのに、年齢がまだ30代前半かそこらで実子ではない斉王芳・秦王詢を皇子としていた(死ぬ4年前の青竜3年)、…

消えた皇子

ふと思ったが、曹叡こと烈祖様は自分の子を何度か諸侯王に立てている(そして全員すぐ死んでいる)が、皇太子は死ぬ前後の養子斉王曹芳しか立ててないはずだよな・・・。 諸侯王に立てるのはほとんどの場合は「皇太子にするつもりのない子」になるので、烈祖…

買う漫画

最近Komifloで特に気に入っている作家さんの初単行本が出るというアナウンスがあったので紹介しておこう。まあいわゆる18禁的なヤツだ。 なんかこういうの久しぶりな気がする。

本日は

疲れて眠いので・・・。また今度・・・。

ひとこと

曹操は「知恵が付いた李傕」と定義できるんじゃないだろうか。 ただ李傕は五刀流の剣士なので、武術については李傕の方が上だろう。

フォロワー

李傕は皇帝(献帝)を池陽県に移そうとしたというが、この池陽県はかつて北地郡の人間が強制移住させられた土地で、李傕が北地郡の人。つまり池陽県は李傕にとっては地元、ホームであった可能性が高い。 つまり、この時の李傕の計画は「完全に自分の本拠と言…

ちょっとした疑問

あれ?何進と韓暹・曹操の間に「大将軍」っていたっけ? なんか大司馬の方がよく見かけるような。気のせい?

大将軍を巡る逆転(自滅)

先日の話でも書いているが、建安元年に曹操が大将軍を辞退してから翌年に袁紹が大将軍になるまで割と時間がある。 この間に曹操は張繍を(一度は)下している。 思うに、袁紹の横槍でいったんは大将軍を辞した曹操だが、袁紹なりに大将軍を渡すのではなく、…

正論と切り抜き

建安元年、許県に連行された後漢献帝は連行した曹操を大将軍としたが、袁紹が曹操の下となるのをよしとせず、そのために曹操は大将軍を辞退した、という話が残っている。 よく考えてみると、この時の曹操は大将軍になるのが必然であって袁紹の異議は完全な感…

寒暖差

最近の寒さのせいか、なんか今日は頭が回らないのでまた今度。

袁紹の変心

『後漢紀』孝献帝紀では、曹操が大将軍になり、袁紹が太尉となったが袁紹おこになって曹操が大将軍を辞退した、までは建安元年。 曹操の大敗が建安2年正月で、その後に袁紹が曹操に対し高圧的な態度になり、それから7月になって袁紹が大将軍になる、という…

ひとこと

『後漢書』孝献帝紀だと、建安2年に袁術の称帝と袁紹の大将軍就任が起こったことになっているんだな。 これ、昨日も記事に書いた建安2年正月の曹操敗戦(張繍に襲撃された)影響だったりする? 袁術はそれを見て曹操にも献帝にも天命が無いと見て天命が自…

ひとこと

曹操にとって建安2年に宛で張繍に負けたことは、その後の影響という意味では、たとえるなら項羽が章邯に勝てなかった、みたいなレベルの大失敗だったんじゃないか、などとふと思った。 その後を見ると大した失敗ではなかったようにも見えるが、あの敗戦が無…

本日は

なんかちょっと疲れた。1回休み。

誰もが知っている

t-s.hatenablog.com 曹魏の最後の皇帝は陳寿『三国志』で「陳留王」と呼ばれているが、これは晋王司馬炎への禅譲後に晋皇帝より封建されたときの号である。 しかし、上記の以前の記事にあるように、陳寿『三国志』では魏帝だった曹奐が陳留王になったという…

終了

プロやきうのレギュラーシーズン終了。 とりあえずお疲れ。 イーグルスさんは全体的にはちょっとどころじゃなく情けない姿を晒していたが、まあ以前からよくあること。 来年頑張って、と言っておこう。これしか言いようがない、とも言う。

ひとこと(孫権と曹操の違い)

何となくだが、孫権と曹操はどちらも後継者問題で色々と問題が起きている、というか起こしているが、孫権は「臣下からの突き上げによって後継者問題が起こった」タイプで、曹操は「君主自身が後継者問題を作りにいった」タイプじゃないだろうか、と思う。