2022-01-01から1ヶ月間の記事一覧

予言者、益州刺史となる

数日前のこの記事だが、既に以下のような詳細な記事があった。 ちゃんと確認せず、後から完全に重複というか不完全な記事を出してしまった・・・。 gishinnanboku.blog.fc2.com 「殄虜護軍爰邵」が益州刺史となった「東郡袁邵」と同一人物というのは正しいの…

糸の切れた凧

(鍾)會内有異志、因鄧艾承制專事、密白艾有反狀、於是詔書檻車徴艾。 【注】 世語曰、會善效人書、於劍閣要艾章表白事、皆易其言、令辭指悖傲、多自矜伐。又毀文王報書、手作以疑之也。 (『三国志』巻二十八、鍾会伝) 昨日の話では、この小畜生のほか、…

司馬師さん

(鄧)艾遣子惠唐亭侯忠等出其右、司馬師纂等出其左。忠・纂戰不利、並退還、曰「賊未可撃。」艾怒曰「存亡之分、在此一舉、何不可之有?」乃叱忠・纂等、將斬之。忠・纂馳還更戰、大破之、斬(諸葛)瞻及尚書張遵等首、進軍到雒。 (『三国志』巻二十八、鄧…

最初の益州刺史

魏咸熙元年、蜀破之明年也、以東郡袁邵為益州刺史、隴西太守安平牽弘為蜀郡、金城太守天水楊欣為犍為太守。 (『華陽国志』巻八、大同志) 蜀漢が滅んだ後、最初の益州刺史になったのが袁邵という者だったそうな。 異動の時に蜀人常忌が留任を直訴したという…

ひとこと

昨日の話でふと思ったが、劉備だったり袁術だったり袁紹だったりが故吏になっている者が曹操の元に落ち着いた場合、その後の言動によっては「故吏に対して冷たい恩知らず」みたいな印象になりかねないところがあったのかもしれないな。 曹操の元ではその沈ん…

劉備、死す

時有傳劉備死者、羣臣皆賀。(袁)渙以嘗為備舉吏、獨不賀。居官數年卒、太祖為之流涕。 (『三国志』巻十一、袁渙伝) この「劉備が死んだという報告を聞いた曹操の臣下たちはみな慶賀したが、かつて劉備の推挙という恩を受けた袁渙だけは慶賀しなかった」…

畜将

曹魏の青州刺史、征北将軍の程喜は、田予と杜恕を陥れていて当時そういう人物として有名だったようだが、そんな彼が結構出世し、逆に杜恕に至っては処刑されかかったという。 田予は田予で幽州刺史王雄の関係者に讒言されたというし、なんというか・・・畜生…

魏文帝評の評価

昨日の記事から考えると、陳寿は『三国志』の中で魏文帝曹丕を人徳に欠けた暴君として扱った、と言ってもいいのだろうと思う。 この陳寿評が晋の当時どう受け止められたのかは想像するしかないが、こういった証言があるのは参考になるのかもしれない。 夏侯…

亡国の君主とは

(韓)歆字翁君、南陽人。以從攻伐有功、封扶陽侯。好直言、無隠諱、帝毎不能容。嘗因朝會、聞帝讀隗囂・公孫述相與書、歆曰「亡國之君皆有才、桀・紂亦有才。」帝大怒、以為激發。歆又證歳將飢凶、指天畫地、言甚剛切、坐免歸田里。帝猶不釋、復遣使宣詔責…

近場で済ませる

(黄初)六年春二月、遣使者循行許昌以東盡沛郡、問民所疾苦、貧者振貸之。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初六年) 魏文帝は使者を遣わし、民が苦しんでいることを聴取し、貧しい者へは施しを行った、という。 これ、許昌(そのころ文帝がいた)から沛郡まで…

格差社会

張遼は魏文帝が即位して1,000戸加増されて2,600戸になったのか。 つまり魏になる前は最大で1,600戸か。 それに対して曹植は昨日の仮説が正しければ当初から5,000戸で、その後魏になる前の時点で10,000戸まで加増。 いくら丞相の息…

領土返上の裏側

何度か話題にしている建安十五年十二月己亥令だが、この中で言っていたように令の翌年である建安16年に息子たちが封建されている。 詳しくはここの記事を参照してもらえばいいと思う。 建安十六年、封平原侯。 十九年、徙封臨菑侯。 太祖征孫權、使植留守…

返上宣言と2万戸の行方

昨日の話の後、もう少し考えてみた。 よくよくあの建安十五年十二月己亥令について考えてみると、あれは「公」の「令」とされている。 つまり曹操による命令、布告ということになる。 だが、よくよく考えてみると、曹操の武平侯3万戸は形式上は皇帝から封建…

ひとこと

『後漢紀』は曹操の武平侯の戸数の増加について割と詳しく書いている。 だが、建安15年については何も書かれておらず、曹操による2万戸返上の事が記録されていないようだ。 たまたまかもしれないし、何か意図や理由があるのかもしれないが、なかなか面白…

計算外

是後、太祖拒袁紹於官渡、紹遣人招(張)繡、并與(賈)詡書結援。繡欲許之、詡顯於繡坐上謂紹使曰「歸謝袁本初、兄弟不能相容、而能容天下國士乎?」繡驚懼曰「何至於此!」竊謂詡曰「若此、當何歸?」詡曰「不如從曹公。」繡曰「袁彊曹弱、又與曹為讎、從…

無力な皇帝

董承女為貴人、(曹)操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有𡜟、累為請、不能得。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后) 董承の娘は献帝の側室(貴人)であったが、董承らの曹操暗殺計画が発覚し董承が殺される時、曹操は一緒にこの董貴人も殺すつもりで…

どんと

どんと祭渋滞に巻き込まれて疲れた・・・。 どんと祭についてはこれでも見て。

ひとこと

曹操が劉表を攻める段階では、孫権は基本敵対的ではなかったはずだし、遼東の公孫氏も益州の劉璋も同様。 関中は司隷校尉の元小康状態ではあったと言えそうだし、涼州にしても州牧韋氏はある程度均衡を保っていたように思われる。 つまり曹操に明確に敵対し…

嘘と沈黙

少し前に読んでみた「建安十五年十二月己亥令」について、孫権や劉備の事は「江湖未靜」といった表現でしか言及されていない。 公至赤壁、與(劉)備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。 (『三国志』巻一、武帝紀) そこで思うのは、曹操が赤壁で戦…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

曹操と司馬氏の戸数

司馬懿は曹爽排除後に領土2万戸とされ、死ぬ直前には5万戸と郡公を与えられたとされているんだな。 郡公は辞退したとされるが。 司馬師は3万1千戸から9千戸の加増で4万戸とされている。 なんだか曹操の武平侯時代よりも多いようにも感じるが、復興によ…

100万戸の男

曹操の魏公国は「河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原」の10郡からなる。 『続漢書』郡国志によれば、各郡の戸数は以下の通り。 河東:93,543戸河内:159,770戸魏:129,310戸趙:32,719戸中山:97,…

ひとこと

『三国志』って曹操の武平侯国の戸数まるで書いてないんじゃ・・・。 ついでに二度加増受けて一度2/3返上したことも書いてないんじゃ・・・。 隠蔽の類というよりは、『三国志』全体の方針かもしれんけど。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その5

その4の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その4

その3の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その3

その2の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その2

その1の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その1

唐突だが、後漢末建安15年に曹操が出した「十二月己亥令」について検討してみようと思う。 まず前提として、この年はあの赤壁の戦いから2年ほど経っている時期であり、また数年前に曹操は「負けた将は罰を与え爵位を奪う」との命令を出している、というこ…

ボケ

早速正月ボケ状態なので、少々頭を休めることにする。 あっという間に三が日の最終日という事実に困惑・・・。

ひとこと

いわゆる孫呉において、「呉侯」は「孫策の子孫」、「太子孫登の子孫」、「魯王孫覇の子孫」という順で封建されてるのか。 前の系統が取り潰しになると、その時において「当時の天子から見て特別扱いすべき血統」に対して贈られる、みたいになってたのかもし…