後漢

霊帝の趣味

至靈帝好書、世多能者。 (『三国志』巻一、武帝紀注引衛恆『四體書勢序』) 後漢霊帝は書(書道)を好んだという話があるのか。それで後漢末に書をよくする者が多く出現したと。て

尹か帝国

前漢の都長安のある京兆尹、後漢の都洛陽のある河南尹。 用河内張烱之符命、遂僭號、以九江太守為淮南尹。 (『三国志』巻六、袁術伝) また、袁術も皇帝を称する時にどうやら本拠を「淮南尹」としたらしい。 つまり、皇帝の定住する都は「尹」とされるのが…

同じタイプの

是日、(李)傕復移帝幸其北塢、唯皇后・宋貴人倶。傕使校尉監門、隔絕内外。尋復欲徙帝於池陽黄白城、君臣惶懼。 (『後漢書』列伝第六十二、董卓伝) 李傕は献帝を池陽県に移そうとした、という(取りやめている)。 三月、詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地…

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

後漢末司直復活

(建安)八年冬十月己巳、公卿初迎冬於北郊、總章始復備八佾舞。 初置司直官、督中都官。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安八年) 後漢末の建安8年、「司直」が後漢初期以来の復活を遂げている。 中都官ということは、朝廷の諸官を監督するということか…

4メートル級巨人

袁宏漢紀「浮屠、佛也、西域天竺國有佛道焉。佛者、漢言覺也、將以覺悟羣生也。其教以脩善慈心為主、不殺生、專務清靜。其精者為沙門。沙門、漢言息也、蓋息意去欲而歸于無為。又以為人死精神不滅、隨復受形、生時善惡皆有報應、故貴行善修道、以鍊精神、以…

董卓の遺産

寺北有永和里、漢太師董卓之宅也。里南北皆有池、卓之所造。今猶有水、冬夏不竭。 里中有太傅録尚書事長孫稚・尚書右僕射郭祚・吏部尚書邢巒・廷尉卿元洪超・衛尉卿許伯桃・涼州刺史尉成興等六宅。 皆高門華屋、齋館敞麗、楸槐蔭途、桐楊夾植、當世名為貴里…

袁紹と漢の皇帝

初、天子之立非(袁)紹意、及在河東、紹遣潁川郭圖使焉。圖還説紹迎天子都鄴、紹不從。 會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。 紹悔、欲令太祖徙天子都鄄城以自密近、太祖拒之。 (『三国志』巻六、袁紹伝) 皇帝が許に連行される前の河東郡(王邑)の元…

鹿大好き

九州春秋曰、張角之反也、黑山・白波・黄龍・左校・牛角・五鹿・羝根・苦蝤・劉石・平漢・大洪・司隸・縁城・羅市・雷公・浮雲・飛燕・白爵・楊鳳・于毒等各起兵、大者二三萬、小者不減數千。 (『三国志』巻八、張燕伝注引『九州春秋』) この軍閥というか…

曹丕わが身を振り返る

曹丕が立てた魏王朝においては、前王朝である後漢において時に権力を握った「宦官」「外戚」「皇太后」を徹底的に権力から遠ざけようとしている。 曹丕の先祖は宦官である。 つまり、曹丕は自分の先祖のことを振り返ってみて、皇帝の権力を脅かしそうな存在…

風俗通先生、謎の官歴

應劭字仲瑗、一字仲援、一字仲遠。汝南南頓人、後漢蕭令、御史、營令、泰山太守。 (顔師古『漢書敘例』) 顔シコ先生によるとあの応劭こと風俗通先生は、「蕭令、御史營令、泰山太守」になったというが、『後漢書』応劭伝を見ても泰山太守以外の官歴が載っ…

亡国の君主とは

(韓)歆字翁君、南陽人。以從攻伐有功、封扶陽侯。好直言、無隠諱、帝毎不能容。嘗因朝會、聞帝讀隗囂・公孫述相與書、歆曰「亡國之君皆有才、桀・紂亦有才。」帝大怒、以為激發。歆又證歳將飢凶、指天畫地、言甚剛切、坐免歸田里。帝猶不釋、復遣使宣詔責…

返上宣言と2万戸の行方

昨日の話の後、もう少し考えてみた。 よくよくあの建安十五年十二月己亥令について考えてみると、あれは「公」の「令」とされている。 つまり曹操による命令、布告ということになる。 だが、よくよく考えてみると、曹操の武平侯3万戸は形式上は皇帝から封建…

ひとこと

『後漢紀』は曹操の武平侯の戸数の増加について割と詳しく書いている。 だが、建安15年については何も書かれておらず、曹操による2万戸返上の事が記録されていないようだ。 たまたまかもしれないし、何か意図や理由があるのかもしれないが、なかなか面白…

無力な皇帝

董承女為貴人、(曹)操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有𡜟、累為請、不能得。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后) 董承の娘は献帝の側室(貴人)であったが、董承らの曹操暗殺計画が発覚し董承が殺される時、曹操は一緒にこの董貴人も殺すつもりで…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

100万戸の男

曹操の魏公国は「河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原」の10郡からなる。 『続漢書』郡国志によれば、各郡の戸数は以下の通り。 河東:93,543戸河内:159,770戸魏:129,310戸趙:32,719戸中山:97,…

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その5

その4の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その4

その3の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その3

その2の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その2

その1の続き。

建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その1

唐突だが、後漢末建安15年に曹操が出した「十二月己亥令」について検討してみようと思う。 まず前提として、この年はあの赤壁の戦いから2年ほど経っている時期であり、また数年前に曹操は「負けた将は罰を与え爵位を奪う」との命令を出している、というこ…

人材登用

侯霸字君房、河南密人也。族父淵、以宦者有才辯、任職元帝時、佐石顯等領中書、號曰大常侍。成帝時、任霸為太子舍人。 (『後漢書』列伝第十六、侯覇伝) へえ、後漢初期の侯覇の族父の侯淵は元帝の時の宦官、石顕の部下だったのか。 『急就』を著したという…

義侯

更始帝から後漢最初期にかけては、燕王彭寵を殺して降伏した者を「不義侯」にしたり(『後漢書』彭寵伝)、寇恂に「承義侯」の号が与えられたり(『後漢書』寇恂伝)、耿弇の父耿況に「興義侯」が与えられたり(『後漢書』耿弇伝)、景丹に「奉義侯」の号が…

造義侯

萬脩字君游、扶風茂陵人也。更始時、為信都令、與太守任光・都尉李忠共城守、迎世祖、拝為偏將軍、封造義侯。及破邯鄲、拝右將軍、從平河北。建武二年、更封槐里侯。 (『後漢書』列伝第十一、万修伝) 後漢最初期の将だった万修なる人物は、最初に「造義侯…

寿良

又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月) 王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。 東郡。秦置。…

愛妾の実家

九州春秋曰、司隸馮方女、國色也、避亂揚州、(袁)術登城見而悦之、遂納焉、甚愛幸。諸婦害其寵、語之曰「將軍貴人有志節、當時時涕泣憂愁、必長見敬重。」馮氏以為然、後見術輒垂涕、術以有心志、益哀之。諸婦人因共絞殺、懸之廁梁、術誠以為不得志而死、…

王なき国の主

成立二年薨、子愍王意嗣。陽嘉元年、封意弟八人為郷・亭侯。中平元年、意遭黄巾、弃國走。賊平復國、數月薨。立五十七年、年九十。 子哀王宜嗣、數月薨、無子、建安十一年國除。 (『後漢書』列伝第四十、下邳惠王衍伝) 後漢末の「下邳王」劉意は、中平年間…

泰山郡変遷

(中平)三年、舉高第、再遷、六年、拝太山太守。初平二年、黄巾三十萬衆入郡界。(應)劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千両、賊皆退却、郡内以安。興平元年、前太尉曹嵩及子徳從琅邪入太山、劭遣兵迎之、未到、而徐州牧陶謙…

いくつもの曲陽

志林曰、初順帝時、琅邪宮崇詣闕上師于吉所得神書於曲陽泉水上、白素朱界、號太平青領道、凡百餘卷。 (『三国志』巻四十六、孫策伝注引『志林』) かの于吉(干吉)は、「曲陽泉水」のほとりで謎の神書を手に入れた、という。 上曲陽。故屬常山。恒山在西北…