義侯

更始帝から後漢最初期にかけては、燕王彭寵を殺して降伏した者を「不義侯」にしたり(『後漢書』彭寵伝)、寇恂に「承義侯」の号が与えられたり(『後漢書』寇恂伝)、耿弇の父耿況に「興義侯」が与えられたり(『後漢書』耿弇伝)、景丹に「奉義侯」の号が与えられたり(『後漢書』景丹伝)、降伏した竇融の幹部たちに「助義侯」「成義侯」「襃義侯」「輔義侯」「扶義侯」といった位が与えられたり(『後漢書』竇融伝)してる。



「〇義侯」というのが数多く出現していたようだ。



称号名に統一性を持たせようというのは王莽がかなり意識していたのだが、後漢も割と同じ傾向を受け継いでいるかもしれない。