建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その1

唐突だが、後漢末建安15年に曹操が出した「十二月己亥令」について検討してみようと思う。



まず前提として、この年はあの赤壁の戦いから2年ほど経っている時期であり、また数年前に曹操は「負けた将は罰を与え爵位を奪う」との命令を出している、ということがある。



おそらく今から読む令はそれらを踏まえたものである。




魏武故事載公十二月己亥令曰
孤始舉孝廉、年少、自以本非巖穴知名之士、恐為海内人之所見凡愚、欲為一郡守、好作政教、以建立名譽、使世士明知之。
故在濟南、始除殘去穢、平心選舉、違迕諸常侍。以為彊豪所忿、恐致家禍、故以病還。
去官之後、年紀尚少、顧視同歳中、年有五十、未名為老、内自圖之、從此卻去二十年、待天下清、乃與同歳中始舉者等耳。
故以四時歸郷里、於譙東五十里築精舍、欲秋夏讀書、冬春射獵、求底下之地、欲以泥水自蔽、絶賓客往來之望、然不能得如意。
後徴為都尉、遷典軍校尉、意遂更欲為國家討賊立功、欲望封侯作征西將軍、然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』、此其志也。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十五年、注引『魏武故事』)

私は孝廉に推挙されたときはまだ若く、洞穴に住みながら名を知られた人物といった風ではなかったので、人々から凡愚であると思われないよう、太守となって政治を確立し民を教化して名誉を得て人々に知られるようになりたいと思った。



そこで済南相になると手始めに汚職の類を排除し、人材登用を公平に行ったため、宦官の中常侍たちの意に逆らうこととなった。権力者を怒らせて曹氏全体の災いになることを恐れたため、病気を理由にして帰ったのである。



官を辞してから考えるに、私はまだ若かったが、一方で同期の中には50歳になる者もいるもののまだ老人ではなく、もし私が20年ばかり官を捨てて天下が清らかになるのを待ったとしても、自分は同期が初めて推挙された年齢でしかないと思った。



そこで郷里に戻り、譙の東50里の場所に学舎を作り、夏・秋は読書、冬・春は狩猟をしようと思い、泥濘によって覆われる低い土地を選んで賓客が往来することもできないようにしようと考えたが、思う通りには出来なかった。



その後に徴用されて都尉となり、典軍校尉に異動した。そこで改めて天子のために賊を討ち功を立てようと思い、征西将軍となって墓に「漢の元の征西将軍曹侯の墓」と刻まれることを志すようになった。

多少怪しいところもあるかもしれないが、だいたいこんなところだろうか。




三国志武帝紀によれば20歳で孝廉に推挙され洛陽北部尉となり、頓丘令、議郎を経て黄巾の乱に騎都尉として従軍。それから済南相になったとされている。


上記の令では官の変遷や、宋皇后の事件に連座して罷免されたことは省かれているが、彼が名を上げたのが太守(相)としてであったため、それ以外は記すまでもないということなのだろう。

遷為濟南相、國有十餘縣、長吏多阿附貴戚、贓污狼藉、於是奏免其八。禁斷淫祀、姦宄逃竄、郡界肅然。
久之、徴還為東郡太守、不就、稱疾歸郷里。
【注】
魏書曰、於是權臣專朝、貴戚橫恣。太祖不能違道取容。數數干忤、恐為家禍、遂乞留宿衛、拜議郎、常託疾病、輒告歸郷里。築室城外、春夏習讀書傳、秋冬弋獵、以自娛樂。
(『三国志』巻一、武帝紀)


済南相の時のことはこのように記録されている。


細かく言うと、済南相から東郡太守に移ろうという時に病気を称して帰郷したということになるらしい。



20年うんぬんについては、当時の孝廉は50歳以上であったことも珍しくない(50歳未満の場合に限って試験があったらしい)ということから、曹操は「自分は高齢な同時期に孝廉になった者たちと比べて時間があるから20年ひきこもったとしてもへーきへーき」と思ったということなのだと思う。


また、この20年というのは当時健在の宦官たちが死に絶えるまでの時間として意識したものだろうか。




今回の最後の「典軍校尉」はあの西園八校尉のことだが、その前に何らかの「都尉」として召喚されたということになっている。これは『三国志武帝紀本文にも注にも他に見えないような気がする。



ともあれ、この頃に曹操は再度お国のために働いて征西将軍として名を残したいと思うようになった、という。


これ以上の将軍位は一般の人臣がなれるものではなく、当時において武功中心で就任できそうな地位の中で最高位と言えるのが当時動乱が続いていた涼州方面に当たる征西将軍だったのではなかろうか。



この当時は、曹操は武功によってなれる将軍の最高位になりたい、と考えたということなのだろう。


本来ありえないような大それた望みではないが、それなりに高い望みではあったのだと思う。




その2へ続く。