中国史

良く分かる公益通報

沛公旦日從百餘騎來見項王、至鴻門、謝曰「臣與將軍戮力而攻秦、將軍戰河北、臣戰河南、然不自意能先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有卻。」項王曰「此沛公左司馬曹無傷言之。不然、籍何以至此。」項王即日因留沛公與飲。 ・・・(中…

ひとこと

昨日の話の続きだが、そういや、諸侯王をあまり置かなかった王朝があった。 秦と新。 それらに倣った・・・ってことは、まあ、ないな。

ひとこと

漢代は初代皇帝の兄弟及びその子(後継ぎ)は基本的に優遇され、覇業に参画していた者はたいてい諸侯王になっている。 それと比較すると、孫権が皇帝になってからの孫策や孫翊・孫匡の子が一人も王になっていないというのは、実は前例と違う、と考えられる。…

劉氏と劉氏

項伯即入見沛公。沛公奉卮酒為壽、約為婚姻。 (『史記』巻七、項羽本紀) 沛公劉邦はかの「鴻門の会」に際し、劉邦一行の危機を教えてくれた項伯との縁組を約束した、という。 この約束は果たされたのだろうか? というのは、項伯は項羽死後に「劉氏」を賜…

ひとこと

韋昭「帝位にあったわけではないのに本紀を立てるべきではない」 項羽「ほう・・・?」 呂后「へえ・・・?」

劉邦失意の時

おそらくだが、劉邦は秦が大梁を滅ぼし、張耳が外黄に住んだという時期には仕官せず食客になっていた。 このころは劉邦は20代前半か。 で、数年後に秦が全国を統一してから、劉邦は秦の官吏として登用されたのだろう。20代後半か30代前後の「壮」と呼…

布衣劉邦

秦之滅大梁也、張耳家外黄。高祖為布衣時、嘗數從張耳游、客數月。 (『史記』巻八十九、張耳陳余列伝) そうか、『史記』張耳陳余列伝の記事から「高祖劉邦は大粱が滅んだ時に布衣だった」ことがわかるな。始皇22年か? 官吏になったのは少なくともそれ以…

劉邦忠臣説

劉邦が秦の官吏としてはどうも不真面目な面ばかり目立つのは、彼自身は自分を魏臣と規定していたので、魏を滅ぼした秦に対してはサボタージュしていた説。

若き劉邦の時代

及壮、試為吏、為泗水亭長、廷中吏無所不狎侮。 (『史記』巻八、高祖本紀) 漢の高祖劉邦は、「壮」となったころに官吏になったという。 「壮」は経書的には30歳ころを言う(『礼記』曲礼上)そうで、ここもちょうど30歳ではないとしてもその年代を言っ…

劉邦の仕官についてひとこと

そういえば、劉邦が仕官したのっていつ頃なんだろう? そして、当時はどういう時代だったんだろう? 統一前か統一後か、そもそも最初の仕官先は秦ってことでいいのか? この辺、一度ちゃんと整理してみようか・・・。

劉邦と似た人

思ったんだけど劉邦って「ゴク潰し」「ニート」って感じではないよな。亭長やってたわけだし。 むしろ立ち位置としては『金瓶梅』における西門慶が近いんじゃないか? 『水滸伝』の宋江も似てるか・・・?

悪の巣窟

太史公曰、吾嘗過薛、其俗閭里率多暴桀子弟、與鄒・魯殊。問其故、曰「孟嘗君招致天下任俠、姦人入薛中蓋六萬餘家矣。」世之傳孟嘗君好客自喜、名不虛矣。 (『史記』巻七十五、孟嘗君列伝) 『史記』太史公によれば、かの賓客を多数集めた事で有名な孟嘗君…

5月5日の伝説

5月5日。 t-s.hatenablog.com 5月5日といえば、かつては「5月5日に生まれた子は背丈が家の戸に追い付くと自分か親を害することになる」という迷信があったそうだ。 世の5月5日生まれの人たちは、こんなことが起きないように家の戸をとても高くしてお…

王莽と伊尹

王莽は皇帝になった直後、漢・周・殷・夏の天子、五帝の子孫の他に、孔丘先生と周公旦と伊尹の子孫を諸侯として封建している。 孔丘先生と周公旦については王莽からすると尊重して当然なのだろうが、天子の廃立を行ったとされる伊尹も同列というのはちょっと…

ひとこと

そういえば、「右北平」って、何(どこ)に対して「右」なんだろうか? 本来は「左北平」もあったのだろうか?

ウッシッシ

そういえば、「左氏」がいて「右氏」はいない(見かけない)が、「右師氏」ならいるんだった。 前漢末期の右師譚、右師細君などが『漢書』『後漢書』に出てくる。

ひとこと

右北平郡はあるけど左北平郡は無い。 左氏はいるけど右氏は見たことない。 右だけあったり左だけいたり、不思議なことである。

北平郡

漢代の幽州にあった「右北平郡」はいつから「北平郡」になったんだろうか。 『漢書』『後漢書』には「右北平」表記が見えるし、『三国志』でもあるようだが、『晋書』地理志では「北平郡」になっているようだ。 曹魏か西晋で変わったということ?よくわから…

先進事例

王莽は漢の元帝に「高宗」、成帝に「統宗」、平帝に「元宗」という廟号を贈っている。 これにより、前漢の皇帝は特別な廟号を持たない者の方が少ない状態になっている。 後の時代に皇帝廟に残らず廟号が贈られるようになるのは、王莽が嚆矢だと言えるのでは…

ひとこと

梁の儒者に「皇侃」という者がいる。 この姓「皇」をもし「おう」と読むなら呉の「皇象」(皇侃の子孫とされる)は「おうしょう」と読むべきだろうし、皇象を「こうしょう」と読むなら皇侃の姓も「こう」と読むべきじゃないだろうか。

ハイパー暴君

魏明帝景初元年九月、淫雨過常、冀・兗・徐・豫四州水出、沒溺殺人、漂失財産。 帝自初即位、便淫奢極欲、多占幼女、或奪士妻、崇飾宮室、妨害農戰、觸情恣欲、至是彌甚、號令逆時、饑不損役。此水不潤下之應也。 (『宋書』巻三十三、五行志四、水) 以前に…

違和感

太史公曰、夏之政忠。忠之敝、小人以野、故殷人承之以敬。敬之敝、小人以鬼、故周人承之以文。文之敝、小人以僿、故救僿莫若以忠。三王之道若循環、終而復始。周秦之閒、可謂文敝矣。秦政不改、反酷刑法、豈不繆乎?故漢興、承敝易變、使人不倦,得天統矣。…

一系

五帝は全員が黄帝の血統。 夏も殷も周も創始者は黄帝の血統ということになっている。 ついでに漢の劉邦も黄帝の血統ということになる。 つまり黄帝の子孫が代々天子になっていると言える。 これ、例えばイギリスの王家がずっと血縁者によって継承されてきた…

劇県

(九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳、平縣五歳以上、乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀、永初元年) どうでもいいことかもしれんが、「劇県」というと上記のように「統治困難な県」といった意味の行政用語…

魏武の兵書

『隋書』経籍志によると魏武こと曹操が記した兵書として「續孫子兵法二卷」「兵書接要十卷」「兵書略要九卷」「魏武帝兵法一卷」といったものが伝わっているのか。 注釈だけではなくて『孫子兵法』の二次創作続編も作ったらしい。 以前記事にした曹操自作兵…

新たな諡法

漢王朝の初代皇帝劉邦は「高皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「高」は従来の諡法になかった字なのだとか。 また、孫呉の初代皇帝孫権は「大皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「大」もそれまでの諡法では見かけなかった字であるように思われる。…

『三国志』と『魏略』

昨日の話の後で思ったが、「儒林伝」や「酷吏伝」といった伝は立てない陳寿『三国志』も、「儒林伝」ではなく「儒宗伝」、「酷吏伝」ではなく「苛吏伝」と敢えてズラしてくる『魏略』も、前後のいわゆる正史などの形式からすると、どっちもなかなかに癖が強…

『三国志』に出てこない人物

大漢輿服志一卷。魏博士董巴撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、儀注篇) 魏の博士董巴は『輿服志』を著していて、『後漢書』注などでしばしば引用されている。 おそらくこの書を司馬彪『続漢書』輿服志が大いに参考にしたのだと思う。 この董巴は『三…

NGリスト

中国の百官による集議とか御前での朝議とか、諫官なんかが命がけっぽいカッコいい正論を述べて大臣や皇帝が言い負かされる、みたいな話があったりするが、あれも何割かは「あの諫臣を指名する」とか「あの列は指名しない」とか事前に決まっていたりしたんだ…

ひとこと(奉常)

漢の九卿の一つに「太常」というのがあるが、もとは「奉常」であったとされる。 「奉常」が「太常」になった真相って、「奉」がよく「泰」に間違われて半ば定着したところに、更に「泰」が「太」に通じる、ということで「奉常」→「泰常」→「太常」に変わった…