曹操の魏公国は「河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原」の10郡からなる。
『続漢書』郡国志によれば、各郡の戸数は以下の通り。
河東:93,543戸
河内:159,770戸
魏:129,310戸
趙:32,719戸
中山:97,412戸
常山:97,500戸
鉅鹿:109,517戸
安平:91,440戸
甘陵:123,964戸
平原:155,588戸
合計すると1,084,763戸となる。
もっとも、『続漢書』郡国志の戸数がそのまま後漢末における戸数とは思えない(かなり減少したとは思われる)ので、そのまま曹操の領有するのが100万戸だったとは言い難い。
そうだとしても武平侯1万戸(返上前3万戸)から一気に何十倍にもなったことは明らかである。
また、魏公が魏郡1郡の公であったと仮定すればせいぜい10万~20戸(魏郡は拡大しているので)なので、それと比べても5倍~10倍。
年俸1億円の選手がいない時代に年俸100億円を貰った、ということだ。10郡の公となるということが、1万戸の侯も他にいないあの時代ではどれだけ途方もない規模だったのか、というのがわかる。