後漢末司直復活

(建安)八年冬十月己巳、公卿初迎冬於北郊、總章始復備八佾舞。
初置司直官、督中都官。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安八年)

後漢末の建安8年、「司直」が後漢初期以来の復活を遂げている。



中都官ということは、朝廷の諸官を監督するということか?




思えば、この年は袁紹が死に、曹操にしてみればいわば袁氏との戦が一段落した年と言えそうだ。




その対袁氏の戦いの初期に、朝廷にいた車騎將軍董承・偏将軍王服・越騎校尉种輯といった面々が献帝から密勅を受けて曹操を殺そうとするという事件が起きている。


公收(袁)紹書中得許下及軍中人書、皆焚之。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安五年)

また、かの官渡の戦いの後、袁紹の書の中から許や曹操軍中の人間の内通の証拠が見つかったという。




つまり、曹操献帝袁紹という、曹操を敵と憎む二勢力の内通に悩んでいたのである。



曹操からすると、自軍で発生する内通は自分の責任で監視体制を強化できるだろうが、許すなわち朝廷の監視は別の体制が必要である。




これが、「司直」復活の理由(口実とも言う)ではなかろうか。戦争が一段落したから、やっとこの年に復活にこぎつけたのだろう。



ぶっちゃけ、曹操が「献帝を」監視するために生まれたと評することも出来るのかもしれない。直接の監視対象は朝廷の諸官だが、秘密裡に内通する相手として最も可能性が高く、かつ危険なのは献帝であろう。



獻帝起居注曰「建安八年十二月、復置司直、不屬司徒、掌督中都官、不領諸州。九年十一月、詔司直比司隸校尉、坐同席在上、假傳置、從事三人、書佐四人。」
(『続漢書』志第二十四、百官志、司徒、注引『献帝起居注』)

なお後漢末司直は「伝置」すなわち早馬、駅伝を与えられていたそうだ。



朝廷にいて朝廷の官を監督するのに早馬を使う必要があるというのは、遠隔地にいる曹操に報告するため、という事なのだろう。