袁紹と漢の皇帝

初、天子之立非(袁)紹意、及在河東、紹遣潁川郭圖使焉。圖還説紹迎天子都鄴、紹不從。
會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。
紹悔、欲令太祖徙天子都鄄城以自密近、太祖拒之。
(『三国志』巻六、袁紹伝)


皇帝が許に連行される前の河東郡(王邑)の元にいた時、袁紹の元の郭図は皇帝をこちらの勢力圏である鄴へ連行すべしと主張したが、袁紹は採用しなかった。



その後曹操が皇帝を自身の勢力圏である許へ連行すると、袁紹曹操に対して勢力圏に近い鄄城へ皇帝を移動させるべきと主張したが、曹操は受け入れなかったとのこと。





袁紹は皇帝を自分の勢力圏に囲い込むことを拒絶し、他勢力が皇帝を完全に囲い込んでしまうと皇帝を完全監視下から緩衝地帯近くに置くよう主張した、と言えないこともない。皇帝が一つの勢力に囲い込まれてしまうことを避けているということだ。自分自身も含めて。



皇帝を自分だけで独占して自分の都合よいように使える詔勅発行機か何かと思っていたらできない発想ではないか。



無論、そういうエグイ事をしなかった(できなかった)からこそ負けたのだとも言いうると思うが、袁紹はある意味では漢の皇帝に対してまだ権威を感じていた、とも言えるのではないかとも思わないでもない。




それにしても、上記の記事を見ても鄄城遷都について皇帝の意思が介在しておらず、拒絶が曹操の意思になっているというのが象徴的である。皇帝がどう思ったかはもう無関係になってしまっているのだ。