王なき国の主

成立二年薨、子愍王意嗣。陽嘉元年、封意弟八人為郷・亭侯。中平元年、意遭黄巾、弃國走。賊平復國、數月薨。立五十七年、年九十。
子哀王宜嗣、數月薨、無子、建安十一年國除。

(『後漢書』列伝第四十、下邳惠王衍伝)


後漢末の「下邳王」劉意は、中平年間に黄巾に襲われて逃げ、平定後戻ってきたが直ぐに死んだという。



その子の劉宜が王を継いだが数カ月で死んだ、とのこと。



普通に考えると、中平年間から間もなくの間に王が2人死んだことになる。



その劉宜の後は後継ぎがいなかったようだが、記事の通りなら「下邳国」は建安11年まで残っていたという事になっている。




長年、王がいないまま「郡」ではなく「国」だったということだろうか?



実際、かの有名な曹豹は「下邳相」であった。建安以前は一応「国」であったということか。


先主之襲殺徐州刺史車冑、使(關)羽守下邳城、行太守事、而身還小沛。
(『三国志』巻三十六、関羽伝)


一方、建安4年頃、下邳の長官について「太守」と称していたようにも思われる。



実際には「建安十一年」ではなく、建安4年までに王国としては廃止されたのではないだろうか?




つまり、『後漢書』の伝の上記部分には何らかの誤りがあるのでは、ということだ。