また、袁術も皇帝を称する時にどうやら本拠を「淮南尹」としたらしい。
つまり、皇帝の定住する都は「尹」とされるのが通例だったらしい。少なくとも漢代頃においては。
一方、蜀漢も孫呉も、どちらも皇帝が普段いる地を「尹」としていないように思われる。
献帝も許のある潁川郡を「尹」としていないので、皇帝がいる場所は何でも「尹」というわけではなく、都とすべきところを「尹」としている、ということなのかもしれない。
蜀漢も孫呉も、実際に皇帝がいる土地はあくまでも仮住まいであって「尹」ではない、「尹」はいずれ魏から河南尹を奪う、と考えていたのだろうか?