建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その5

その4の続き。




然欲孤便爾委捐所典兵衆以還執事、歸就武平侯國、實不可也。何者?誠恐己離兵為人所禍也。既為子孫計、又己敗則國家傾危、是以不得慕虚名而處實禍、此所不得為也。
前朝恩封三子為侯、固辭不受、今更欲受之、非欲復以為榮、欲以為外援、為萬安計。
孤聞介推之避晉封、申胥之逃楚賞、未嘗不舍書而歎、有以自省也。奉國威靈、仗鉞征伐、推弱以克彊、處小而禽大、意之所圖、動無違事、心之所慮、何向不濟、遂蕩平天下、不辱主命、可謂天助漢室、非人力也。
然封兼四縣、食戸三萬、何徳堪之!江湖未靜、不可讓位、至于邑土、可得而辭。今上還陽夏・柘・苦三縣戸二萬、但食武平萬戸、且以分損謗議、少減孤之責也。」
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十五年、注引『魏武故事』)

しかしながら、私が指揮している兵を捨てて政治を返上して領土の武平侯国へ帰ることもできない。何故か?私が兵から切り離されたら危害を加えられると恐れているからである。子孫のためを思い、また私が敗れれば天子も危なくなる。だから虚名を得て災いを受けようと思ってもできないのだ。



以前、私の子3人を列侯にしようという時には固辞したが、今回は受諾しようと思うのも、栄誉のためではなく、私にとっての助けとし、ずっと滅ばないでいるための計略なのである。



私は、介子推が晋の封建を受けず、申包胥が楚の恩賞から逃げたことを聞くと、書を置いて嘆息し自省せずにはいられなかった。漢の威霊を受け、鉞を杖として征伐を行い、弱い勢力で強大な勢力を破り、思ったことが間違う事もなく、ついには天下を平定し主君の命を辱めることもなかった。天が漢を助けたもので、人力ではないと言うべきだ。


しかしながら私は4県3万戸に封建されている。私にそれに釣り合うような徳などあろうか。まだ長江流域が静まっていないので地位は辞退できないが、領土は辞退できる。今、陽夏・柘・苦の3県2万戸を返上し、武平県1万戸のみを領土とし、私に対する非難を和らげ、私の責めを減らそうと思う。


結論として、曹操は何か悪いことがあったとは一切言わないまま、「謗議」「責」があると言って領土を返上する。


しかし、一方で曹植ら我が子数人の封侯を受け入れる。差し引きゼロまではいかないだろうが、領土を子供に付け替えただけなんじゃないかと言われてもおかしくない。




この令だけを見ると、なんで功績自慢と謙虚さアピールと身に迫る危機の表明と領土返上が混在するのか、よくわからない。支離滅裂にすら思えるのは自分だけだろうか。



「天下は平定した。しかしまだ長江流域は静まっていない。本当はすべて辞退したいが、まだ静まっていないからできない」ここだけでも矛盾がある。



「主君に逆らう気などない。蒙恬のように殺されてもいい。しかし地位を辞退したら殺されてしまう。子孫のためにそれはできない。それに自分がいなくなったら天子も困る」これもまあ矛盾であろう。天下が平定され、他に反抗勢力がいなくなったというのだから、誰が曹操を殺そうとするのか。今までさんざん軽んじられてきた主君献帝しかない献帝はあまりにも自分をないがしろにした曹操にブチ切れ金剛だったのだから。




このあたり、実際には「謗議」などといった言葉が示唆するように、赤壁で帰ってきた曹操を「敗軍の将」として処分すべきだといった議論が献帝とその周りで起こっていた、少なくともそういう雰囲気があった、ということなのではなかろうか。



曹操としては、献帝に口実を与えないように「負けた」ということを一切口にせず、しかしそういった者を含む多くの者に対してのガス抜きとして何らかのケジメを付ける必要を感じ、「負けたとか自分に責任があるとかは一切口にしないが領土だけは返上する」という、謙虚さをアピールしていたくせに実際の謙虚さは欠片も無い、イビツきわまりない行動に出たのではないかと思う。



そういったものだと考えれば、「自分がいたから天子も助かったのだ」「自分がいなかったらどれだけの反抗勢力がいたか」といった脅し文句のような言葉や、「兵権を手放せば即殺される」という切羽詰まった言葉なども散りばめられる理由になんとなく合点がいく。


これはおどしたりすかしたりといった、刃物を持った「交渉」であり、その対象は献帝ということなのだろう。





こう考えてみると、献帝との関係は完全に決裂している上、赤壁の大敗によってきわめて立場が危なくなっているというのが、この建安15年における曹操だったのではないかと思う。


敗軍の将を罰するという曹操自身の令が立場を余計に悪化させたようにも思うので、割と自業自得ではあるのだが。





なお、ほぼ2年ちょっとしか経っていない建安18年に曹操は魏公になる。


赤壁前は3万戸を普通に受け取っていた者が赤壁後には謝るでもなく急に返上し、そうかと思えばまたすぐに10郡の公を受ける。まあ、このあたりの流れを目の当たりにした者は曹操一党の言動を信用できなくなったんじゃないだろうか。流石にもう少し統一感出してもいいんじゃないだろうか。


なんなら、荀彧の反対理由もその辺にあったりしたかもしれないなあ。