高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。
長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。
(『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡)

晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろうか。


京兆郡
・・・(中略)・・・
高陵、後魏曰高陸、大業初改焉。
(『隋書』地理志上、雍州、京兆郡)


『隋書』の記述によれば、隋の「高陵」県が元は「高陸」県であり、後魏(北魏)の時には「高陸」であったところを「高陵」と改めたのだ、という。



左馮翊。秦屬内史、武帝分、改名。雒陽西六百八十八里。十三城、戸三萬七千九十、口十四萬五千一百九十五。
高陵。
(『続漢書』志第十九、郡国志一、司隸、左馮翊)


思うに、この「高陸」=「高陵」県は前漢後漢において左馮翊にあった「高陵」県のことではないだろうか。



晋・隋の京兆郡には漢代における左馮翊所属の県がいくつか入っており、おそらくはこの「高陵」県も馮翊から京兆へと所属変更された県なのだろう。




そうなると、漢代においては左馮翊の「高陵」県だったが、晋代には京兆郡の「高陸」県となっており、隋になって「高陵」県という旧名に復帰した、ということなのだろう。




では、「高陵」から「高陸」への改名は「後魏」の時ではない。おそらくは魏は魏でも「曹魏」の方の魏だ。



曹魏の時に「高陵」から「高陸」へ改名し、それからずっと「高陸」だったが、隋になって旧名の「高陵」へ復した。そういう流れなのだ。



曹魏武帝の陵墓が「高陵」なので、一致を避けるために前からある県の方を改名させたのだろう。