寿良

又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月)


王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。


東郡。秦置。莽曰治亭。屬兗州。戸四十萬一千二百九十七、口百六十五萬九千二十八。縣二十二
・・・(中略)・・・壽良。蚩尤祠在西北泲上。有朐城。
(『漢書』巻二十八上、地理志上、東郡)

兗州所属の東郡には「寿良」(後漢は寿張と改名)という県があった。


兗州牧「寿良」にとっては自分の支配圏内である東郡に本人と同名の「寿良」県がある、ということだ。



ということは、寿良が寿良に駐屯、みたいな冗談みたいな事態が起こりえた・・・ってコト!?