建安十五年十二月己亥令を読んでみよう:その2

その1の続き。






而遭値董卓之難、興舉義兵。是時合兵能多得耳、然常自損、不欲多之。所以然者、多兵意盛、與彊敵爭、倘更為禍始。故汴水之戰數千、後還到揚州更募、亦復不過三千人、此其本志有限也。後領兗州、破降黄巾三十萬衆。
袁術僭號于九江、下皆稱臣、名門曰建號門、衣被皆為天子之制、両婦預爭為皇后。志計已定、人有勸術使遂即帝位、露布天下、答言『曹公尚在、未可也』。後孤討禽其四將、獲其人衆、遂使術窮亡解沮、發病而死。
及至袁紹據河北、兵勢彊盛、孤自度勢、實不敵之、但計投死為國、以義滅身、足垂於後。幸而破紹、梟其二子。
劉表自以為宗室、包藏姦心、乍前乍卻、以觀世事、據有當州、孤復定之、遂平天下。
身為宰相、人臣之貴已極、意望已過矣。今孤言此、若為自大、欲人言盡、故無諱耳。設使國家無有孤、不知當幾人稱帝、幾人稱王。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十五年、注引『魏武故事』)

それから董卓の乱に遭遇して義兵を挙げた。この時、兵をもっと多く集めることができたが、敢えて自ら減らし、多くしようと思わなかった。なぜなら、兵が多ければ強敵と争うことになり、災いを招くことになるからだ。ゆえに汴水の戦いでは数千、その後揚州で募兵したときにも3千人以下であった。これはその思いがあったからである。その後、兗州を領有してから、黄巾30万を破って降伏させた。

また袁術は九江で僭称を行い、配下が「臣」と称し、門には「建号門」と名付け、衣装は天子のものを勝手に使い、二人の夫人が前もってどちらが皇后になるかを争っていた。袁術の気持ちが固まり、帝位に就いて天下に知らしめることを勧める者があった時、彼は「曹公がいるからまだすべきでない」と言ったという。その後、私が四将とその配下を捕らえたので、袁術は窮地に陥り瓦解し、病となって死んだ。

袁紹は河北を占拠して強勢であり、私も敵わないと思ったが、ただお国のため義のために死んで後世の手本となれば良いと思った。しかし幸いにして袁紹に勝つことができ、その子供二人をさらし首にした。

また劉表は宗室であることから良からぬ思いを抱き、進んだり退いたりしながら世の動向を見つつ州を支配していたが、私はこれも征服し、ついに天下を平らげた。

宰相となって人臣としては最高の地位におり、望んでいた以上となっている。今このようなことを自ら言うのは自慢に聞こえるかもしれないが、人にあれこれ言われないようにするためであり、だから避けることなく言ったのである。もし天子に私がいなかったら、いったい何人が皇帝や王を自称したことだろうか。

曹操は華麗な戦歴を自ら披露する。



「敵に狙われないようにわざと兵を少なくしていたんだ」というのはまあ、その・・・負け惜しみに聞こえますね・・・。



陶謙呂布あたりが入っていないのは、紹介したいようなエピソードが無いからだろうか。



とにかく、曹操は「狙われないようわざと少ない兵でやっていたが、黄巾30万を得てからは漢のために各地の僭称者たちを倒してきた。自分より強大な袁紹に対しても死を恐れず漢の天子のために立ち向かったのだ」と言いたいようだ。



まあ、そういう一面もあったろう。


しかし、袁紹相手に最初はかなり攻勢に出ていたりしていたので、かなりヤバいとこまで追い込まれたという結果から「死を覚悟して戦った」という設定が生まれたんじゃあないか、とも思わないでもない。



そして何より、「遂平天下」としている。どうやら赤壁での敗戦や荊州・揚州のことは忘れてしまったらしい。ついでに言うと、この時期には劉備孫権は蜀取りを画策し始めているから、益州も既に怪しい。



「俺は天下を平定した。誰が何を言おうと天下を平定したんだ」ということか。



天下の宰相にこう言われてしまっては、「まだ荊州と揚州がありますけど・・・」と言い出せる者はほとんどいないのではないだろうか?




「俺がいなかったら皇帝や王が何人登場したことか」というのは確かにその通りではある。しかし、これも自分で言っちゃうんだ感はある。



ここでこの令の出されたのが赤壁の敗戦間もない頃で、曹操は以前に「負けた将には責任取らせる」と命令していたということを思い出してみよう。



「俺がいなかったら皇帝や王が何人登場したことか」は、「俺に責任取らせていいの?俺が辞めたりしたら、また天下が乱れるけど?」といった、ある種の開き直りを意味しているのではないだろうか。




その2へ続く。