いくつもの曲陽

志林曰、初順帝時、琅邪宮崇詣闕上師于吉所得神書於曲陽泉水上、白素朱界、號太平青領道、凡百餘卷。
(『三国志』巻四十六、孫策伝注引『志林』)


かの于吉(干吉)は、「曲陽泉水」のほとりで謎の神書を手に入れた、という。


上曲陽。故屬常山。恒山在西北。
【注】
有泉水、干吉得神書。晉地道記「自縣北行四百二十五里、恒多山坂、名飛狐口。」
(『続漢書』志第二十、郡国志二、冀州、中山国)

初、順帝時、琅邪宮崇詣闕、上其師干吉於曲陽泉水上所得神書百七十卷、皆縹白素朱介青首朱目、號太平清領書
【注】
今潤州有曲陽山、有神溪水。定州有曲陽山、有神溪水。海州有曲陽城、北有羽潭水。壽州有曲陽城、又有北溪水。而干吉・宮崇並琅邪人、蓋東海曲陽是也。
(『後漢書』列伝第二十下、襄楷伝)

この「曲陽泉水」の場所については、どうやらいくつか伝承があったと見え、『続漢書』郡国志注では中山国の上曲陽であったとする一方、『後漢書』襄楷伝注ではいくつかの候補を挙げた上で干吉の出身に近い東海郡(後漢では下邳国)の曲陽だろう、としている。



後漢書』襄楷伝注からすると、おそらくは各地で「こここそが干吉が神書を手に入れた曲陽」と主張されていたんだろうと思う。



この辺の話は詳しくないが。