昨日の話の後、もう少し考えてみた。
よくよくあの建安十五年十二月己亥令について考えてみると、あれは「公」の「令」とされている。
つまり曹操による命令、布告ということになる。
だが、よくよく考えてみると、曹操の武平侯3万戸は形式上は皇帝から封建された建前であろう。だから返上も皇帝への上奏の形でなされるべきではないだろうか。
件の「令」は、「俺は3万戸のうち2万戸は返上することにした」という「宣言」ではあっても、皇帝に対して「私は2万戸をお返しします」という「手続」ではないのではないだろうか?
つまり、『三国志』注では曹操が2万戸返上を本当に皇帝に上奏したのか、それが許可されたのか、実は分からないのである。
そこで昨日つぶやいたように、曹操の武平侯の戸数に敏感な『後漢紀』でこのことは特に記載されていないという話を思い出すと・・・。
曹操の2万戸返上「宣言」、実際には上奏はしなかったのか、あるいは上奏が許可されなかったのか・・・。
もっとも、当時の皇帝の決裁は尚書令荀彧、録尚書事曹操が関与したはずなのだから、「許可されなかった」だとしても、実際には荀彧や曹操が認めなかったようなものではないだろうか。つまりは自作自演だ。
ガス抜きに「ワイは2万戸を返上するやで!」と高らかに宣言はしたが、実際には返上の手続き自体していなかったか、あるいは自作自演的に「陛下がどうしてもと慰留して認めてもらえなかったやで」という形を作ったか。
実は、2万戸は返上されていなかった・・・?