功臣安衆侯

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。
【注】
安衆、縣、屬南陽郡。故城在鄧州東。謝承書曰「安衆侯劉寵、長沙定王五代孫、南陽宗室也。與宗人討莽安功、隨光武河北破王郎。朝廷高其忠壯、策文嗟歎、以厲宗室。安衆諸劉皆其後。」
(『後漢書』列伝第五、李通伝)


へえ、昨日の記事で出てきた安衆侯劉寵は対王莽戦に従軍して功績があり、そのまま河北まで従ったのか。


つまり後漢にとって初期から付き従った功臣か。



特別扱いはそのお陰ということなのだな。




ただ、安衆侯の一族が舂陵侯系統の傘下で従軍したそもそもの理由は、やはりそれ以前から関係が深かったから、じゃないかって気はする。