劉宣と劉寵

初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。
休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以旌顯之。
劉宣字子高、安衆侯崇之從弟、知王莽當篡、乃變名姓、抱經書隠避林藪。建武初乃出、光武以宣襲封安衆侯。擢龔勝子賜為上谷太守。
勝・鮑宣事在前書。勳事在玄孫邕傳。
(『後漢書』列伝第十五、卓茂伝)

安衆侯劉崇の従弟「劉宣」なる人物は王莽の時に姓名を変えて身を隠し、後漢になってから出てきたところ、皇帝によって安衆侯に封建された、という。


侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。
侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。
建武十三年、侯松嗣。
今見。
(『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹)

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。
【注】
安衆、縣、屬南陽郡。故城在鄧州東。謝承書曰「安衆侯劉寵、長沙定王五代孫、南陽宗室也。與宗人討莽安功、隨光武河北破王郎。朝廷高其忠壯、策文嗟歎、以厲宗室。安衆諸劉皆其後。」
(『後漢書』列伝第五、李通伝)

後漢の安衆侯については、「劉寵」なる人物が王莽討伐で功を立てて安衆侯に封建された、という話も伝わる。




なんだか結構食い違っているような気もする。


だが、「劉宣」と「劉寵」ってのは字形が似ていなくもないので、同一人物のことを言っているのだとしても不思議ではないとも思える。





そもそも安衆侯劉崇の従弟なら、劉崇の反乱後に連座を逃れて生き延びるため姓名を変えて姿を消すというのはありそうな話である。



また、王莽に対し反乱した劉崇の一味が王莽に仕官できるはずがないので、世に出ずにいたのも全くおかしくないし、劉崇の因縁を考えれば王莽に対する反乱が続発した時に従軍するのもおかしくない。




後漢書』卓茂伝の「王莽に仕えなかった高節の士」と謝承『後漢書』の「王莽と戦った後漢の功臣」というのは、同一人物の行動をそれぞれ別の面から解釈した姿、ということだろう。




というか、卓茂伝のそれは「反乱者一味としてお尋ね者になったから王莽から逃げ隠れした」というのを「逆臣王莽への仕官をよしとせず王莽から逃げ隠れした」と、ほとんど別物に改造してしまっている気がするが。