安衆侯一族

劉隆字元伯、南陽安衆侯宗室也。王莽居攝中、隆父禮與安衆侯崇起兵誅莽、事泄、隆以年未七歳、故得免。
及壯、學於長安、更始拝為騎都尉。謁歸、迎妻子置洛陽。聞世祖在河内、即追及於射犬、以為騎都尉、與馮異共拒朱鮪・李軼等、軼遂殺隆妻子。建武二年、封亢父侯。
(『後漢書』列伝第十二、劉隆伝)


そうか、後漢の割と有名どころの功臣劉隆は安衆侯劉崇と同族なのか。



ただ、安衆侯が劉寵(劉宣)に与えられたところを見ると、血縁は劉寵よりも遠かったのだろう。



この劉隆の場合は事件の時に7歳未満であることから連座を免れ、その後も断罪の心配は基本無かったようだ。それを恐れるなら長安に行かないだろう。




もしかすると劉寵も最終的には王莽から罪を許されて仕官するよう請われた、という可能性も結構あるのかもしれない。



王莽に仕官しようとすれば出来る状態だったけど敢えてやらなかったことで、『後漢書』卓茂伝にあるように「王莽に仕えなかった高節の士」といった評判が生まれていたというところか。


彼が仕官しなかった理由は節義というよりは怨恨かもしれないが。